THE★映画日記

映画(たまに漫画や文学)の感想と批評、映画を取り巻く風潮についての雑感など。

ひとこと感想:『最高の人生の見つけ方』、『アイ・アム・マザー』、『ニンジャバットマン』

 

●『最高の人生の見つけ方

 

最高の人生の見つけ方 (字幕版)

最高の人生の見つけ方 (字幕版)

  • 発売日: 2013/11/26
  • メディア: Prime Video
 

 

 かなり有名な映画ではあるのだが、わたしはこれまで未見で、今回はじめて視聴した。

 評価の高い映画であると思ってけっこう楽しみにしてとっておいたし、モーガン・フリーマンジャック・ニコルソンという名優が出ているのだからクオリティもさぞかし高いだろうと期待していたのだが、いざ見ると「うーん…」という感じ。主演二人のキャラクターにはそれなりに魅力はあるが脇役は書き割り的、ストーリーはところどころに脚本的な工夫はありながらも予定調和感がつきまとう。

 なにより、海外周遊をするパートになってからは違う異国に行くたびにモーガン・フリーマンジャック・ニコルソンがお着替えてしてBGMもそれぞれの国特有のエキゾチックなものになって……という演出がかなりダサくて、それでだいぶ白けてしまった。ジャック・ニコルソンがスカイダイビング中に歌うシーンも無性にイラっとした。

 

●『アイ・アム・マザー』

 

www.netflix.com

 

『ミリオンダラー・ベイビー』を見てヒラリー・スワンクが出ている映画をもっと見たくなったので、Netflixオリジナルのこちらを鑑賞。「娘」役の、主演のクララ・ルガアードも良かった。

 お話としては、『エクス・マキナ』をちょっと連想させるようなサイコパスAIもの。「母」と冠されたAI含めて女性しか登場人物が出てこないことも印象的だ。冒頭ではAIによる牧歌的な子育てシーンが挿入されてちょっと暖かな印象を受けるが、そこに隠された恐るべき事実を知るとゾッとする。後半まではずっとミニマムでクローズドな施設内で物語が展開するのだが、それが、AIの意識は空間を超えて連結しているという設定により「外」の世界が崩壊した原因と直結しているところもなかなか面白い。途中までは「母」か外部からきた「女性」か、どちらを信じればいいのか「娘」にも判断がつかないところもハラハラする。少しSFに詳しい人であれば予測できるような展開やオチではあるかもしれないが、設定的にも脚本的にもほとんど隙がない、技巧の優れた作品ではあると思う。

 ……とはいえ、AIもののスリラーって結局は機械風情が人間様相手に勝ち逃げしてしまう展開になったり、そもそもの事件の発端から結末までAIの掌の上だったりするので、人間様の一員であるわたしとしては見ていてイライラする。あとAIって表情はないし痛みはないしで、どうしてもやっつけてスカッとする展開にできないところも歯がゆい。

 シリアスなSFサスペンスであるために、『アップグレード』にあったような「遊び」やユーモアが感じられないところも、見ていてなかなかしんどい。『エクス・マキナ』のように映像的な美しさもないし、また現実の社会における女性と男性との対立の問題もオーバーラップさせていた『エクス・マキナ』に比べると、『アイ・アム・マザー』はタイトルから連想されるような「母性」に関する社会的な何かを描けているわけでもなく、あくまで虚構のお話を描くことに終始している。

 それでずっと真面目くさってシリアスなので、途中から飽きちゃうというか、「はいはいそういうお話なのね」って感じだ。SFをやるなら、ユーモアやアクションを入れてエンタメ性を加えるか、シリアスにやるなら現在の社会の問題を投影させてその物語を真面目に考える意味を観客に与えるかの、どちらかでなくちゃいけない。特にわたしはシンギュラリティとか「AIが人間を滅ぼす」的な未来予測は全く信じていないので、そのお話をそのまま描かれても興味が持続しないのである。

 

●『ニンジャバットマン

 

 

ニンジャバットマン

ニンジャバットマン

  • 発売日: 2018/10/10
  • メディア: Prime Video
 

 

 

 酒を飲みながらダラダラ鑑賞した。キャラクターが多すぎてストーリーはとっちからっておりゴミみたい。キャラクターに感情移入できる要素もなければ展開の面白さなども全くなく、「このキャラクターなら言いそうなセリフ」とか「バットマンのお決まりな展開」とかの「それっぽさ」をひたすらやるだけの作品。

バットマンのキャラクターたちが戦国時代にタイムスリップした」という設定は稀有なんだから、真面目にストーリーを練っていればいくらでも面白くできたと思う。たとえばタイムスリップするキャラクターを敵味方含めて5人くらいに絞って、その代わりに織田信長とかの実際の武将を出して、歴史改変やifの要素を追求する……などなどだ。

 ただ、そもそも「面白い作品」とか「優れた作品」を作る気が作り手の側にはハナからなくて、「日本のアニメーション技術でバットマンを描いてみる」という企画ありきの作品なのだろう。良くも悪くも「お祭り映画」なのだ。そういう視点で見てみると、実写版映画ではあまり活躍しないキャラクターも出てきたりして悪くなかった(真面目に見ると時間の無駄だが、酒を飲むついでに見るならアリだ)。特に、ゴリラが悪の天才博士であるという設定は、原作でもそうであるから仕方がないとはいえ、バカみたいで笑えた。ノーランとかベン・アフレックとかのシリアスな実写版バットマンでもゴリラが出てくるのを見てみたいと思った。

『キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン』

 

キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン (字幕版)

キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン (字幕版)

  • 発売日: 2013/11/26
  • メディア: Prime Video
 

 

 スピルバーグは一部の例外はあれど好きであるし、トム・ハンクスレオナルド・ディカプリオも好きであるのだが、この作品はどうにも好きになれない。

 好きになれないポイントはいくつかあって……まず、前半のフランク・アバグネイル(ディカプリオ)とその父親クリストファー・ウォーケンとのくだりが長過ぎる。いまは失われた両親の仲睦まじい関係や家族の温かさを詐欺師のディカプリオは追い求め続ける、という切なさがこの作品の根本であるのだが、序盤の描写が退屈だったせいでそこに感情移入する気が失われてしまったのだ。

 また、2002年という時代性を考慮しても、ミソジニーが目に余る作品でもあるだろう。名ありの女性キャラクターは夫を捨てて金持ち弁護士に飛びつくフランクの母親ポーラ(ナタリー・バイ)か、医者に扮したフランクにエッチと結婚を迫るブレンダ(エイミー・アダムズ)くらいかしかいない。ブレンダも含めて、多くの女性キャラクターもフランクの(嘘の)職業や社会的地位と金になびいて体を差し出す、従属的で浅薄的な存在となっている。この作品にはフランクの世界観が反映させられており、女性が浅薄に描かれているのもフランク自身のミソジニーを忠実に再現した…とみなすことはできるだろうが、それにしたっていい気はしない。エイミー・アダムズが「アホ女」を演じさせられているのは気の毒だったし(『魔法にかけられて』のように、あまりに「アホ女」らしいツラや表情ができてしまう彼女自身のせいでもあるのだが)、後半でフランクがスチュワーデスに自分を囲ませることで警察の目を逃れるシーンは痛快さとか大胆さが強調される演出なだけにイヤさが増していた。

 そして、「実話」をウリにした話にしてはあまりにもウソっぽい描写が多いところも気になる。多少のウソならいいのだが、経歴詐称の詳細から飛行機のトイレからの脱出シーンまで、「いくらなんでもそりゃないでしょ」というのが続くと「はあ?」となってしまうのだ。『タクシー運転手』もそうだったが、観客が白けるほどの大袈裟なウソやドラマチックな展開をするくらいなら、実話に頼らずに最初から堂々とフィクションを作ればいいのである。

『幸せへのまわり道』

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 実績を出しているやり手ではあるがシニカルで批判的なジャーナリストのロイド・ヴォーゲル(マシュー・リス)は、雇い主の命令で子ども番組の司会者であるフレッド・ロジャース(トム・ハンクス)を書くことになる。はじめは「子どもだましな番組を作っている司会者なんて…」と乗り気ではなかったロイドであったが、インタビュー対象であるはずのロジャースはロイドのことを親身に気にかけて彼のことを色々と聞き出したりして、ロイドは面食らってしまうものの、ロジャースの奥深い人間性に興味を持つようになる。そして、父親のジェリー(クリス・クーパー)との関係性に問題を抱えたロイドは、立ち入った質問を色々としてくるロジャースに拒否感を抱くタイミングがありながらも、心の奥底ではロジャースのことをカウンセラーのように思って頼りにするようになっていた。そんななか、ジェリーが脳の病気で入院してしまう事件が起こり…。

 

 実話を題材にした映画であり、実際に放映されていた『ミスター・ロジャースのご近所さんになろう』という子ども番組を模した場面がところどころ挿入されながら、ちょっとメタフィクション的な物語が展開されていく。わたしは該当の番組は未見であるが、人形や模型を用いながら子ども向け番組らしい暖かで優しい雰囲気を忠実に再現した諸々の場面がまず「癒し」になる。

 そして、なによりも、ミスター・ロジャース本人を再現したトム・ハンクスの穏やかで優しい喋り方がすごい。そんな彼がロイドに対して親身にケアや配慮を示すのだが、その聖人っぷりはちょっと尋常でなく、他の映画や物語でもほとんどお目にかかったことがないほどだ。それも、よくあるような愚かさや素直さや純粋さゆえの聖人というわけでなく、相手に対して興味を持って適切な配慮を行う知性があることや、本人は実は短気さや不安定さを抱えているらしいがそれを習慣によって自己コントロールしていること(プールに定期的に通ったり、ピアノを演奏するなど)といった、実在の人物を題材にしただけあって聖人でありながらも"リアルさ"を感じられる点が実に興味深い。ロイドが「でもあなたはテレビ番組で培ったイメージが重荷になっているでしょ?」とか「息子さんたちは自分の父親がミスター・ロジャースであることを嫌がっているでしょ?」などと嫌味な質問をしたときに、それを肯定も否定もしない独特な受け答えをするシーンも絶妙だった。

 子ども向け番組風の演出とミスター・ロジャースの聖人感が合わさって、かなり"癒し"とか"優しさ"に特化した作品ではある。だが、上述したようなミスター・ロジャースのキャラクターの複雑さにより、浅薄な癒し系映画(フィール・グッド・ムービー)からはかけ離れた奥深さが存在しているところがポイントだ。

 

 しかしながら、肝心のロイドの父子関係の描写は「ろくでなしの親父に対する息子の葛藤」エピソードとしてちょっとテンプレ過ぎる(実話だからテンプレ的であっても仕方がないのかもしれないけれど)。ミスター・ロジャースが関わってくる場面ではワクワクするのだが、場面がロイドと家族のパートに移ってしまうとテンションが下がってしまうことは否めないのだ。また、途中で意識を失ったロイドがミスター・ロジャースの番組の世界に迷い込んだかのような夢を見てしまうシーンは、端的に演出が古臭くてダサくて、失笑ものであった。

 脇役たちも、ミスター・ロジャースの妻ジョアンヌ(メアリーアン・プランケット )やロジャースのエージェント?であるビリー(エンリコ・コラントーニ)は出番は少ないながらも印象的であったが、ロイド本人はともかくその妻や父は大して興味深い人物ではない。ここのパートでも登場人物をちゃんと掘り下げていて面白くできていたら、完璧に近い作品になっていただろう。

 

 とはいえ、単に子ども向けらしい「癒し」や「優しさ」を全面に押し出して"自分の弱さや欠点を認めて、自分を肯定する"的なメッセージを描くのではなく、大人であるからには自分の欠点や感情をコントロールして周囲の人間や社会と向き合わなければならない…という「成熟」や「適応」の必要性についてしっかりと描いている点が魅力的な作品だ。

 トム・ハンクスやミスター・ロジャースがどれだけ聖人であり、子供や未成熟な人間にはどれだけ優しかろうと、成熟した大人はけっきょく自分の面倒を自分で見なければいけないし、自分の機嫌は自分で取らなければいけないのである。優しく甘い子供向け番組の撮影が終わった後に、スタッフが撤収したスタジオでピアノのキーを叩きつけるミスター・ロジャースの姿を描くエンディングシーンには、そういった警告が込められているのだろう。

ひとこと感想:『白い闇の女』、『危険なメソッド』

 

●『白い闇の女』

白い闇の女(字幕版)

白い闇の女(字幕版)

  • 発売日: 2017/09/06
  • メディア: Prime Video
 

 

 サスペンス映画というものは当たり外れが激しいものではあるが、これは明確なハズレ。記者のポーター(エイドリアン・ブロディ)が未亡人キャロライン(イヴォンヌ・ストラホフスキー)と知り合って、彼女の夫サイモン(キャンベル・スコット)の死に関わる真相を探って行くうちに誘惑されて肉体関係を結んでしまいそのせいで家庭を失って……みたいなストーリーなのだが、官能的な展開になるわりにはキャロラインは言うほど悪女ではないし、ポーターもそこまで危険な目に合わないし、隠された真相も大したものではないしで、とにかく見所が存在しない感じの作品だ。ジャッキー・チェンが制作に関わっているらしいが、そのせいでしまりのない作品になっているのかもしれない。

 あと、なぜか途中までウィリアム・アイリッシュの『幻の女』を原作にしたものだと勘違いしていたが、全く違った。

 

●『危険なメソッド

 

危険なメソッド(字幕版)

危険なメソッド(字幕版)

  • 発売日: 2017/06/23
  • メディア: Prime Video
 

 

 公開当時から興味を抱きつつ見る機会がなくて、ついに視聴してみたのだが、存外につまらない。ユングマイケル・ファスベンダーフロイトヴィゴ・モーテンセン、そしてザビーナがキーラ・ナイトレイという豪華なキャストであり、「精神分析」という興味深いテーマを扱っているのに、肝心の人間ドラマがつまらなさ過ぎる。

 そして、キーラ・ナイトレイの演技がいくらなんでも異物感がひど過ぎる。「非難ごうごう!? キーラ・ナイトレイの大げさすぎるアゴ演技の真相とは?」とひどい言われようだが、まさに「アゴ演技」としか言いようがない。いちおう実際の精神病患者がやりがちな表情を再現したものではあるらしいが「ほんとかよ」って感じだし、また、某所では精神分析を扱った映画らしくこのアゴがペニスのメタファーになっているとの解釈を見た(こっちの方がまだありそうだ)。

『アメリカン・スナイパー』

 

アメリカン・スナイパー(字幕版)

アメリカン・スナイパー(字幕版)

  • 発売日: 2015/06/10
  • メディア: Prime Video
 

 

 このあいだ『ミリオンダラー・ベイビー』を再視聴したら以前観たときよりもずっと面白く感じられたのだが、同じイーストウッド監督の『アメリカン・スナイパー』については、公開当時に劇場で観たときは感心できたのだが改めて観てみるとどうにも退屈だった。

 なにが退屈か考えてみると、これを言っては身も蓋もないが、イラク戦争(やアフガン戦争)などのような「中東」を舞台にした戦争って、そもそも映画の題材とするには「映えない」のだ。

 ジャングルを舞台にしたベトナム戦争や太平洋戦争のようなワイルド感や恐怖感もなければ、雪が降っていたり塹壕を掘っていたりするヨーロッパ戦線のような荒涼感や美しさもない。また、味方(アメリカ軍)と敵(現地の残存戦力たち)の戦力が違いすぎて、戦闘はいつも散発的でパッとしないものになる。そこで起きるイベントも「味方かと思っていた現地人が敵でしたが、なんとか事なきを得ました」みたいな、いまいち煮え切らないものでばかりあったりするのだ。そもそも勝利条件も曖昧であったり戦争の大義自体が往々にして疑われたりしていて、そうなると作品としてもスッキリさせたり明確な筋を与えたりすることが難しくなって、その曖昧さや五里霧中感そのものを作品に昇華しようとする試みもあったりはするのだが、まあうまくいくことは稀である。

 だから、『ハート・ロッカー』にせよ『アメリカン・スナイパー』にせよ、爆弾処理係であったりスナイパーであったりの個々の兵士の役割や内面に焦点を当てることでサスペンス感やドラマ性を出そうとはするのだが、それにも限界がある……という感じだ。

アメリカン・スナイパー』では、二度ほど強調されることになる「爆弾とかバズーカとかを持った子供を撃つかどうか」という葛藤のドラマと、「虐殺者」(ミド・ハマダ)とか「ムスタファ」(サミー・シーク)とかの"敵役"を主人公のクリス・カイル(ブラッドリー・クーパー)が打ち倒せるかどうか、という戦闘のドラマが強調されることになるのだが……後者のドラマについては事実と違うことは確かであるし、前者のドラマも実際にあったことかもしれないがどうにも作り物っぽさというか古典的という感じが漂う。

 主人公クリスの英雄性を強調する作劇であるためにそのほかのアメリカ兵は完全に彼を引き立たせる脇役でしかなく、彼らがムスタファに狙撃されたところで観客としては「あ、死んだ」というくらいしか感情が湧かない。そのため、せっかく"友の仇を討つ"という要素があるのにイマイチ燃えるものがない、というところも問題だろう。

 

 とはいえ、『アメリカン・スナイパー』ではイラク戦争というアメリカ史のなかでも類を見ないくらい大義をかけた戦争を扱いながら、戦争のシーンでは主人公であるクリスの内面に寄り添った作劇にすることで「祖国を傷付ける蛮人たちに対する復讐」とか「"番犬"として"狼"をやっつける」とか「戦友の仇討ち」というドラマ性を与えることで、戦場が映されている間はおおむねスカッとする物語になっている。……しかし、戦場からアメリカに帰還している場面では、妻のタヤ・カイル(シエナ・ミラー)の視点も交えることで戦争のトラウマに苛まれて徐々に人間性を失っていくクリスの負の側面が強調される。この、戦場が「正」で日常が「負」であるという逆転構造により、「戦争は生き残ったものの心を壊す」といった『ディア・ハンター』的なテーマが強調される……というのはなかなか独特だ。

 俯瞰的に見れば、イラク戦争でのクリスの活躍などの戦争を肯定している部分はあくまで「クリスの視点から見た物語」と括弧に入れられているのに対して、PTSDや後遺障害に苛まれるクリスやそのほかの兵士たちの苦悩や狂気といった戦争を否定している部分はより客観的で広い視点から描かれているので、作品としては反戦的なメッセージを放っているとは言えるだろう。

 ……だが、たとえば冒頭でクリスの父親が息子たちに放つ「羊、狼、番犬」の用語を用いた素朴で幼稚な正義論、それに裏打ちされた戦争に行く前からクリスが抱えていた善悪二元論愛国主義までもが否定されているわけではない。というか、そこはむしろ肯定されているような気すらする。

 たしかにクリスは戦争によって人間性を失っていったが、もとからちょっとヤバいやつではあっただろう。まあそもそもある程度ヤバかったり単純であったりしないとネイビー・シールズに入って英雄になれたりしないものではあるだろうが……*1。そこのヤバさをあえて否定せずに寄り添って赤裸々に描いたことは立派であるのだが、しかし、この作品が「保守」や「右翼」の立場にあることは疑いようもないと思う。実際の映像が使われた、エンディングの葬送の場面における溢れんばかりの星条旗が、それを象徴している。反戦映画であるからといって、反軍隊映画や反国家主義映画であるとはかぎらない、ということなのだ。

 

*1:そういえば、クリスよりはずっとマシであるとはいえ、リチャード・ジュエルもなかなかヤバい人物ではあった。

『ソーシャル・ネットワーク』

 

ソーシャル・ネットワーク (字幕版)

ソーシャル・ネットワーク (字幕版)

  • 発売日: 2013/11/26
  • メディア: Prime Video
 

 

 2010年の劇場公開当時以来なので、ちょうど10年ぶりの再視聴。フィンチャーの作品は『セブン』にせよ『ゴーン・ガール』にせよ再視聴してみると「こんなに面白かったんだ」と驚かされているのだが、この『ソーシャル・ネットワーク』もかなり面白かった。

 主人公であるマーク・ザッカーバーグジェシー・アイゼンバーグ)の天才性と人間的な問題点や欠点が強調される作劇でありながらも、「隠キャ」らしくひねくれて陰湿であるのに明け透けという奇妙なその言動は人間味も魅力も感じさせてくれるものである……という絶妙な人物描写がウリの作品だ。

 そして、ザッカーバーグの元親友でありながらも一番の"被害者"であるエドゥアルド・サベリン(アンドリュー・ガーフィールド)も、"天才"であるザッカーバーグに対する"秀才"として、観客を感情移入させて物語に惹き入れる役割を全うしている。『アマデウス』におけるモーツァルトに対するサリエリ的な立場というか、主人公以上に観客から好感を得られる"おいしい"ポジションのキャラクターであるだろう。才気煥発っぽくはあるが見るからに気難しくて人好きのしなそうなジェシー・アイゼンバーグの顔付きに対する、どう見ても優しくて真面目だけれど気は弱くて押しも弱そうなアンドリュー・ガーフィールド、というキャスティングも素晴らしい。そもそも二人とも全くマッチョでもなければ「美青年」というレベルにも至らず、こういう立ち位置の若手俳優自体が珍しいものであるのだが、このキャスティングこそが『ソーシャル・ネットワーク』を成功させた秘訣であることは間違いない。

 双子のウィンクルボス兄弟(アーミー・ハマー)やショーン・パーカー(ジャスティン・ティンバーレイク)といった脇役陣もかなりいい味を出している。特にウィンクルボス兄弟は物語的にはザッカーバーグの踏み台としての役割しか持たないのだが、Facebookのアイデアを奪われた後も未練がましくザッカーバーグにやり返そうとする彼らの姿は、本編とは全く関係のないボート競技のシーンの出来の良さと相まって、強く印象に残る。ウィンクルボス兄弟の存在によって「ジョック」に対する「ナード」の復讐、という学園もの映画の古典的な要素が含まれていることもミソだ。

 また、ザッカーバーグの元恋人であるエリカは、文化的で知的なイメージの強い(つまり、いかにもザッカーバーグのようなオタクが好みそうな)ルーニー・マーラーが演じているおかげで、出番は少ないながらも強烈な説得力と存在感を放っていると言えるだろう。

 

 Facebookというすごいプラットフォームや大企業の創始者を主人公とした物語であり、ザッカーバーグ自身も天才肌という風に描かれながらも、社会的地位への渇望や自分をフった女を見返したい・取り戻したいという卑俗なモチベーションを物語の軸としているところが、この作品を凡百の伝記もの映画からは異質なものにしているポイントだ。

 冒頭に女子の顔を比較してランキングするサイト(フェイススマッシュ)を作るシーンや、エリートたちの社交クラブに対するザッカーバーグエドゥアルドの憧れが強調されているところなど、『ファイト・クラブ』と同じように「ミソジニー」や「ホモソーシャル」が関わってくる作品であることはいうまでもない(むしろ『ファイト・クラブ』の裏返し的な作品でもある)。……ただし、2010年という時代柄であること、また社会問題や規範意識にあまり関心のないデヴィッド・フィンチャー監督の作風のおかげもあり、登場人物たちのミソジニーホモソーシャル意識をさほど批判的・否定的に描いていないところもポイントだ。なんだかんだで、観客はザッカーバーグに共感して同情もしてしまうのだから。

 実際、どこの国でも男性の社長なり成り上がりなりエリートなりの大半は多かれ少なかれミソジニーホモソーシャル意識を抱えているものだろうし(フェミニズム意識が高かったりホモソーシャルから距離を置いていたりする男性が出世できるイメージはあまりない)、そういうのは彼らの世界観や人生に深く根を張って取り除くことができないものである。彼らを物語の題材にするときにそれを否定したり批判したりするのも悪くないだろうが、"個人"の人生や生き方に焦点を当てる作品を作るのであれば、安易に批判や否定はせずに同情的・共感的に描くほうが、むしろ深みのある作品になるというものであろう。だって、実際に彼らはそういうミソジニーホモソーシャル意識を抱えている(そして、抱えたまま成功してしまっている)のであり、それが事実だったら否定してもしょうがないのだ。

ひとこと感想:『メアリーの総て』&『ケーブル・ガイ』

 

●『メアリーの総て』

 

メアリーの総て(字幕版)

メアリーの総て(字幕版)

  • 発売日: 2019/05/21
  • メディア: Prime Video
 

 

 わたしが学部生時代には英米文学を専攻していたことは『ストーリー・オブ・マイ・ライフ/わたしの若草物語』の感想で書いたが、アメリカ文学のゼミに入っていたとはいえ、イギリス文学の授業ももちろん受けていた。

 そしてメアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』も洋書購読の授業で読んだものだ。原書は古過ぎて学部生レベルの英語力じゃ難しいということで、授業で扱ったのは英語の教材用の簡易版ではあったが、授業とは別に邦訳版も自主的に読んでいた。そして、およそ200年前の作品にもかかわらず、『フランケンシュタイン』には感情移入して感動してしまったものである。当時は20歳でまだまだ不器用で繊細だった頃であり、周囲との人間関係もうまく行かず常に孤立感を抱いていたからこそ、"怪物"の孤独や絶望に共感することができたのだ。

 

 というわけでこの『メアリーの総て』も公開当時から気になっていて、今月からNetflixで配信開始ということでワクワクして観たのだが、まあつまらない。雰囲気としては『エミリ・ディキンソン:静かなる情熱』に近いが、あっちも退屈だったけどこちらは輪をかけて退屈だ。

 メアリー・シェリー(エル・ファニング)は、フェミニストである母親のメアリ・ウルストンクラフトと、アナーキストである父親のウィリアム・ゴドウィン(スティーヴン・ディレイン)の血を引くだけあって、旧弊的な規範や価値観に縛られるのとを拒んで自由を追い求める性向の持ち主だ。なので、父親の忠告も聞かずに、妻子ある詩人のパーシー・シェリー(ダグラス・ブース)と駆け落ちしてしまう。しかし「自由恋愛」(イマドキの言葉だと"ポリアモニー"かな?)なんて男にとって都合の良い思想である。案の定、夫のパーシーは他の女にも手を出しまくる、無責任なクズ駄目男だった(責任のあるまともな人間ならそもそも妻子を捨てるはずがない)。自分の友人が夫にちょっかいを出されて、逆に自分は夫の友人に手を出されてしまうメアリーは、後悔したり悩んだりする。そんなある日、『フランケンシュタイン』(や『ドラキュラ』)が生み出されるきっかけとなった、かの有名な「みんなで怪奇話を披露しよう」の一夜が訪れて……。

 要するにメアリー・シェリーの周りはクズ男ばっかりだったけどそんな逆境だからこそ『フランケンシュタイン』という傑作が生まれました、彼女の業績も危うく夫に奪われてしまうところだったけどナントカなりました、というお話である。

 しかし、当時の女性に対する抑圧とか旧弊的価値観とか時代的背景とか色々を考慮しても「妻子ある男と駆け落ちなんかしてもロクなことにならないのなんて火を見るより明らかでしょ」という感情が強過ぎて、メアリーに共感することが全くできない。だからぜんぜん面白くなかった。

 作品としてはメアリーの周りの男性を全員クズとして描くことで「いくら自由恋愛とか言ったり当時としては先進的だったとしても男なんてみんなこんなもんよ」というメッセージを自覚的に放っていて、それはいいのだが、じゃあそんなクズにひょいひょい付いていくメアリーの愚かさとか浅はかさとかももっと強調してほしいものである。いや、当時の彼女は18歳なんだから、愚かで浅はかであるのは当然だろうし、それを非難するのは酷かもしれないけれど……。

 また、わたしはどうにもエル・ファニングという女優が好きになれない。『500ページの夢の束』といい『ネオン・デーモン』といい『孤独なふりした世界で』といい、どの映画でも繊細で内向的で傷付きやすい女性を演じている女優であり、実際に繊細で内向的で傷付きやすそうな顔をしているのだが、そういうところが苦手なのだ。

 

●『ケーブル・ガイ』

 

 

ケーブルガイ (字幕版)

ケーブルガイ (字幕版)

  • 発売日: 2013/11/26
  • メディア: Prime Video
 

 

 

 ジム・キャリーサイコパス傾向のある粘着気質なケーブル・ガイ(テレビのケーブルを繋げる仕事をしている人)を演じるブラック・コメディ映画。

 サイコなストーカーものであるが、男性が男性に粘着するという設定は新鮮だ。『ザ・ルームメイト』『クロエ』のように、女性が女性に粘着する、というのは多いのだけれど。

 とにかく"ゆるい"映画であるが、ジム・キャリーというスターを筆頭に主人公役のマシュー・ブロデリックや友人役のジャック・ブラックなどのコメディ俳優が多数出演していて、けっこう贅沢。ジム・キャリーの無茶苦茶な演技も面白くて、気軽に笑って観れる映画だ。ふつうサイコパスものやストーカーものというと悪役は「知的」であったり「計算高い」雰囲気が漂っているものであり、実際にこの映画でも悪役のケーブルガイはけっこう狡猾な計画も実行したりしているのだが、根本的には粗野でアホそうな見た目や振る舞いやキャラクター性をしている、というところは新鮮である。

 とはいえ、だいたいのコメディ映画がそうであるように、この作品も途中からグダグダしてしまって退屈になる。ケーブルTVを通じて観た名作映画のセリフをケーブルガイが引用したりパロディしたりするシーンもしつこい。途中で下品で生理的に不愉快でそれなのに面白くない下ネタのシーンが入るところも、かなり評価を下げる。まあ良くも悪くもB級映画、という感じ。