THE★映画日記

映画(たまに漫画や文学)の感想と批評、映画を取り巻く風潮についての雑感など。

『シャイニング』&『ドクター・スリープ』

 

『シャイニング』は五つ星、『ドクター・スリープ』は二つ星。

 

●『シャイニング』

 

 

シャイニング (字幕版)

シャイニング (字幕版)

  • 発売日: 2013/11/26
  • メディア: Prime Video
 

 

 いまでは大半のホラー映画はそんなに怖くなく見れるし夜におシャワーしたりおトイレに行くときにもホラー映画のことを思い出してビクビクすることはなくなったわたしであるが(『ヘレディタリー/継承』だけは例外で、あれは観終わったあとしばらくビクビクしていた)、若い頃はホラーがもっと苦手だった。そのため、キューブリック作品では『バリー・リンドン』や『フルメタル・ジャケット』などは観ていても、ホラー映画の金字塔、というイメージが強い『シャイニング』は敬遠していたのだ(そういえば『2001年宇宙の旅』と『時計じかけのオレンジ』も観たことがないが、この二つはなんかつまらなさそうなイメージがあるからである)。

 

 そして、いざ観てみると、肝心の恐怖シーンはテレビのバラエティ番組のホラー映画特集とかで何度も見させられたものばっかりということもあって、さっぱり怖くない。惨殺された双子の死体のシーンとかテレビで見たときには恐ろしくて目を逸らしたものだが、いま見ると「はいはいゴア描写ね」という感じだし、狂ってしまったジャック(ジャック・ニコルソン)が斧でドアを壊して顔を突き出すシーンも「こんなもんか」だった。風呂場の老女や「盛会じゃね」おじさんや着ぐるみを被ったあいつなどの賑やかしな幽霊たちは怖いというよりもシュールであるし、ジャックが凍死している姿もその変顔のせいでもはやギャグである。

 しかし、時代遅れの滑稽な作品かというと、全然そんなことはない。怖くはなくても、「不穏さ」の演出は現代のホラー映画の作品ではほとんど見られないくらいに芸術的で印象的だ(『ヘレディタリー/継承』がいろいろな場面で『シャイニング』を参考にしていたこともよくわかった)。ホラー描写がほとんど出てこない序盤から「こりゃイヤなことが起こるな」と伝わってくるし、オープニングの空撮とかダニー(ダニー・ロイド)がカートを漕いでいる時のカメラワーク、大広間的な場所にタイプライターと机を置く異常な配置とか箱庭のような迷路のシーンなど、ほかの映画では目にかからないような場面が多くて、単純に楽しいのだ。

 俳優に関しては、ジャック・ニコルソンの良さは言うまでもない。斧を持ち出して暴れるシーンよりも、激昂しながら甲高い声で妻のウェンディ(シェリー・デュヴァル)をネチネチと責め立てるシーンの方が彼の本領が発揮されていると言えるだろう。シェリー・デュヴァルとダニー・ロイドはホラー映画の被害者ポジションとして古典的な役柄ではあるが、美女と美少年ということもあって映画栄えしている。特にシュリー・デヴュヴァルは、当時のファッションに黒髪ロングと痩せ体型の相性が良くて、かなり魅力的なヒロインだ。また、気の毒な目にあうマジカル・ニグロなハロランさん(スキャットマン・クローザース)もいい味を出していた。

 深読みしようと思えばいくらでもできる作品ではあるのだろうが、散々語り尽くされているだろうからわざわざ深読みする気は起きない。しかし、たとえばエンディングの写真のシーンと音楽、そしてエンドクレジットの後の話し声などは、恐怖感というよりも幻想感があってかなり不思議な余韻を残してくれる。映画史に残る一本であることもうなずける作品だ。

 

●『ドクター・スリープ』

 

 

ドクター・スリープ(字幕版)

ドクター・スリープ(字幕版)

  • 発売日: 2020/01/30
  • メディア: Prime Video
 

 

『シャイニング』の続編。ダニーは成長してユアン・マクレガーとなり、ローズ( レベッカ・ファーガソン)という女がひきいる吸血鬼もどきな悪人集団から自分と同じ超能力持ちの少女アブラ(カイリー・カラン)を守るため、幽霊になっちゃったハロランさん(カール・ランブリー)の助けを借りたり善人のビリー(クリフ・カーティス)を巻き込み死させたりしながら(またマジカル・有色人種的な描写になっていて気の毒だった、まあ主役格であるアブラがアフリカ系だからOKなのかもしれないけど…)、最終的には『シャイニング』の舞台となったホテルに戻って幽霊たちに吸血鬼を襲わせつつ自分も幽霊たちに襲われてあーだこーだ、みたいなストーリー。

 

 成長して「ドクター・スリープ」となったダニーがホスピスで働いている場面はそれなりに良かったが(かわいい猫ちゃんも出てくるし)、吸血鬼もどき集団と超能力者チームとの対立はB級感が漂っていて実にしょーもない。悪役のくせにジャンプ漫画の敵集団みたいに仲間思いな吸血鬼たちの設定には少し笑ってしまったけれど。

 後半にホテルに戻ってからは『シャイニング』のオマージュ…というよりも「そのまんま再現しました」というシーンのオンパレードで、血の海を見たローズがさして驚きもせずに「あーそういう感じね」と言わんばかりの皮肉な笑いを浮かべているところだけは面白かったが、まあ映画としては完全に『シャイニング』頼りであり、大した価値も完成度もない作品である。これで90分くらいで収めてくれていたらファンサービス的な作品としてまあいいかなとも思えたのだが、2時間半と無駄に長いために腹が立った。

『IT/イット “それ”が見えたら、終わり。』二部作を観たときにも思ったが、子どもの死を残酷に描くことで物語のスパイスとしているのは作品として悪趣味だ。また、シャイニングとかいう超能力を強調されたところでそんなん俺にはないから知らんがなという話であるし、なんの比喩や隠喩であるかもよくわからなければSFやファンタジーやバトルの文脈としてもさほど面白いものになっていない。ついでに言うと、ダニーがアルコール中毒に苦しんでいるという設定もあまりにありがち過ぎて「またかよ」って感じでうんざりした。

 原作者のスティーブン・キングが映画版『シャイニング』を嫌っていることは有名であるし、未だに許していないうえに「私にとっては、映画は小説よりも下に位置する、はかない媒体だ」とほざいている始末であるらしいが、キングの小説を忠実に再現した『ドクター・スリープ』よりも『シャイニング』の方が100倍は価値のある作品であるだろうし、『IT』の原作小説がグダグダと長くてつまらなかったことを思い出すとどうせ原作版『ドクター・スリープ』やそのほかの彼の長編小説も似たようなものであるだろう。キングの小説はあと10年や20年もすれば読む人がいなくなるだろうが(大御所的なエンタメ小説家のありがちな例として、昔からのファンが惰性で読んでいるとしか思えない)、『シャイニング』(や『ショーシャンクの空に』や『ミスト』など)はこれからも映画史に残る傑作として多くの人に鑑賞され続けていくことであろう(『ドクター・スリープ』や『IT/イット “それ”が見えたら、終わり。』の寿命は短いだろうが)。

『インターステラー』

 

インターステラー(字幕版)

インターステラー(字幕版)

  • 発売日: 2015/03/25
  • メディア: Prime Video
 

 

 2014年の公開当時には、もちろん劇場に観に行った。しかし、ノーラン映画のなかでもとりわけ複雑な構成をした作品だということもあり、観た当時は何が起きているか正直よくわからない部分もあって、イマイチ楽しめなかった記憶がある。愛がどうこうという部分はちょっと恥ずかしくて白けてしまったし、主人公のクーパー(マシュー・マコノヒー)がブラックホールを抜けた先にある四次元空間に到達してぷかぷか泳ぎながら本棚の隙間から過去の娘や自分を覗いたり本をパタパタと落とすシーンは絵面の間抜けさや荒唐無稽さが先立って、「シリアスな映画」として楽しんでいいのかどうかよくわからずに戸惑ってしまった。2年ほど前にもNetflixで再視聴したが、そもそも小さいスクリーンで観るべき映画ではないということもあって、その時も「あーこんな話だったのね」と伏線やストーリーを再確認するという感じになってしまったものである。

 しかし、今回はじめてiMAXで観てみると、これがかなり面白かった。地球でのシーンに関しても実際にトウモロコシを栽培して畑ごと燃やしたという有名なエピソードがあるが、SF映画らしく、宇宙や惑星のシーンが大迫力なうえにセンスオブワンダーを感じられて、これぞiMAXで観るべき作品だと認識を改めた。水の惑星での山のような大津波に氷の惑星で凍っている雲、静かで圧倒的な土星の存在感に(マン博士のせいで)母船がクルクル回りながら遠ざかっていく絶望感、ブラックホールワームホールのファンタジー感など、アクションに特化した『ダークナイト』や臨場感がウリだった『ダンケルク』とはまた違った価値があるのだ。

 そして、オチやストーリーを知っていても…というか知っている状態で改めて劇場で観るからこそ、宇宙組がマン博士(マット・デイモン)の氷の惑星に到達する/マーフ(ジェシカ・チャステイン)がブランド教授(マイケル・ケイン)の死とウソを知るシーンから始まって、宇宙でのマン博士の裏切りと地球でトム(ケイシー・アフレック)とマーフとの間の緊張が発生して、そして母船とのドッキング〜ブラックホール突入にトウモロコシ畑の炎上とマーフの部屋で手がかりを探そうとする場面が同時進行で描かれる、一連のシーンのハラハラ感が存分に楽しめるのだ。なにしろハラハラする場面が数十分単位で続くうえに宇宙と地球との同時進行なので構成も複雑であり、初見では何が起こっているかよくわからず、かといってPCのモニターで観ていても集中力を持続させるのが難しいので、これは劇場での再鑑賞ならではの楽しみだった。

 

 映像のことは置いておいて、ストーリーの話をすると……いつも言っていることだが、わたしはSFというジャンルがそれほど好きではないし、ロマンが強調される宇宙ものは特に苦手だ。『インターステラー』のなかでも序盤に登場する「宇宙開発への投資ってカネと資源の無駄じゃん」と言うキャラクターが近視眼的な考え方しかできない俗悪な小市民として描かれていたが、わたしも「無駄じゃん」と思うタイプである。また、『インターステラー』が明らかに意識しておりプロデューサーなどの関係者が同一な作品でもある『コンタクト』なんかは、むしろ嫌いな作品だ(理系のロマン主義と選民意識、そして監督ロバート・ゼメキスの保守的で幼児的な勧善懲悪趣味が一体となった、いろんな意味で醜悪な作品だと思う)。

 しかし、相対性理論による時間の時間の遅れがどうこうという点は単に物語のテーマや科学的リアリティという以上にストーリー面での仕掛けに効いており、そのおかげで他の映画にはないような展開や描写が盛り沢山になっている。水の惑星でちょっとトラブルがあっただけで23年という取り返しのつかない時間を失ってしまうという絶望感溢れる展開は、マン博士の裏切りと並んでこの映画の中でも最も印象的なところであるかもしれない。

 時系列を飛び越えて冒頭と終盤がつながり、クーパーとマーフが感動の再会をしたりクーパーがジェネレーションギャップを感じたりするシーンも素晴らしい。このクライマックスの後の終盤の展開に関しては、散々ハラハラドキドキしたうえで四次元空間というファンタジー描写がドカンと出た後に「ここで冒頭とつながるのか」という驚きを与えたうえでジョークも交えながらゆっくりしんみりした展開にする、というメリハリが効いていて、映画を見終わった後にはかなりの爽快感が得られる…という仕上がりになっている。途中でドイル博士(ウェス・ベントリー)を失ったりロミリー博士(デヴィッド・ジャーシー)が踏んだり蹴ったりの悲惨な目にあった末に死んでしまったりなどのかなり暗く重たい展開が続くのだが、最後まで観た頃にはポジティブな印象が優っていてまったく後味が悪くないのだ。

 宇宙や物理学に関する知識だけでなく、クーパーとブランド博士(アン・ハサウェイ)が愛を議論するシーンやマン博士の演説で進化論的な考え方に触れられるところも気が利いている。TARSやCASEなどのロボットたちの魅力もバツグンだ。登場人物全員が理系であり文系の出る幕がまったくないお話であるところはちょっと気になるが、一部のSF作品にあるような嫌気が感じられるほどではない。

 

 他のSF作品のような嫌気を感じない一因としては、理系や科学とその背景にある「理性」と「人間の意志」を絶対視せずに、どれだけ崇高な目標と立派な人格と高度な能力を持った人間でもいつ"闇落ち"するかわからない……という世界観が徹底されていることがあると思う。散々前振りされたうえでサプライズ的にマット・デイモンの姿をして登場するマン博士は、ブランド教授やトムと並んで闇落ちしてしまった人物であり、「自然に善悪はなくて、悪は人間に宿る」というこの映画のテーマのひとつを象徴するキャラクターだ。

 ここの「悪」の描き方は賛否両論あるだろうが、同じくマット・デイモンが大活躍する『オデッセイ』のように素朴に素直に科学と人間の意志を肯定して讃えるよりかは、『インターステラー』のように負の面を描く方が物語や作品として誠実で上等であるだろう。

 重要な場面で何度か出てくる「穏やかな夜に身を任せるな」の詩にはポジティブな意味を持たされつつも映画内では不穏さを醸し出す扱われ方もしており、ここら辺の演出や高尚さも、さすが”巨匠”感溢れるノーランならではだと思った。

 

 アン・ハサウェイはロングヘアーの方が魅力的だとかやっぱり四次元空間でプカプカ浮かんでいるのは絵的に間抜けさが先立ってクライマックスの説得力を減じているんじゃないのとか、文句を付けられる箇所はいくつかあるのだが、2010年代の映画のなかとかノーラン映画のなかとかいう枠を超えて、映画史レベルで偉大な作品であることは間違いない。宇宙と時間が絡むSFという設定に脚本や構成などの技術面と物語的なテーマをがっちり噛み合わせたこと、清濁併せ吞んだ"深い"お話であること、映像面でも役者面でも惜しみなく豪華であること……などなどがその理由だ。

 わたしのなかでは、これまで『インターステラー』はノーラン作品のなかでは中くらいの評価だったのだが、今回改めて再視聴したことで一気にトップに躍り出た。繰り返しになるが、これこそiMAXで観るべき作品である。

ひとこと感想:『最高の人生の見つけ方』、『アイ・アム・マザー』、『ニンジャバットマン』

 

●『最高の人生の見つけ方

 

最高の人生の見つけ方 (字幕版)

最高の人生の見つけ方 (字幕版)

  • 発売日: 2013/11/26
  • メディア: Prime Video
 

 

 かなり有名な映画ではあるのだが、わたしはこれまで未見で、今回はじめて視聴した。

 評価の高い映画であると思ってけっこう楽しみにしてとっておいたし、モーガン・フリーマンジャック・ニコルソンという名優が出ているのだからクオリティもさぞかし高いだろうと期待していたのだが、いざ見ると「うーん…」という感じ。主演二人のキャラクターにはそれなりに魅力はあるが脇役は書き割り的、ストーリーはところどころに脚本的な工夫はありながらも予定調和感がつきまとう。

 なにより、海外周遊をするパートになってからは違う異国に行くたびにモーガン・フリーマンジャック・ニコルソンがお着替えてしてBGMもそれぞれの国特有のエキゾチックなものになって……という演出がかなりダサくて、それでだいぶ白けてしまった。ジャック・ニコルソンがスカイダイビング中に歌うシーンも無性にイラっとした。

 

●『アイ・アム・マザー』

 

www.netflix.com

 

『ミリオンダラー・ベイビー』を見てヒラリー・スワンクが出ている映画をもっと見たくなったので、Netflixオリジナルのこちらを鑑賞。「娘」役の、主演のクララ・ルガアードも良かった。

 お話としては、『エクス・マキナ』をちょっと連想させるようなサイコパスAIもの。「母」と冠されたAI含めて女性しか登場人物が出てこないことも印象的だ。冒頭ではAIによる牧歌的な子育てシーンが挿入されてちょっと暖かな印象を受けるが、そこに隠された恐るべき事実を知るとゾッとする。後半まではずっとミニマムでクローズドな施設内で物語が展開するのだが、それが、AIの意識は空間を超えて連結しているという設定により「外」の世界が崩壊した原因と直結しているところもなかなか面白い。途中までは「母」か外部からきた「女性」か、どちらを信じればいいのか「娘」にも判断がつかないところもハラハラする。少しSFに詳しい人であれば予測できるような展開やオチではあるかもしれないが、設定的にも脚本的にもほとんど隙がない、技巧の優れた作品ではあると思う。

 ……とはいえ、AIもののスリラーって結局は機械風情が人間様相手に勝ち逃げしてしまう展開になったり、そもそもの事件の発端から結末までAIの掌の上だったりするので、人間様の一員であるわたしとしては見ていてイライラする。あとAIって表情はないし痛みはないしで、どうしてもやっつけてスカッとする展開にできないところも歯がゆい。

 シリアスなSFサスペンスであるために、『アップグレード』にあったような「遊び」やユーモアが感じられないところも、見ていてなかなかしんどい。『エクス・マキナ』のように映像的な美しさもないし、また現実の社会における女性と男性との対立の問題もオーバーラップさせていた『エクス・マキナ』に比べると、『アイ・アム・マザー』はタイトルから連想されるような「母性」に関する社会的な何かを描けているわけでもなく、あくまで虚構のお話を描くことに終始している。

 それでずっと真面目くさってシリアスなので、途中から飽きちゃうというか、「はいはいそういうお話なのね」って感じだ。SFをやるなら、ユーモアやアクションを入れてエンタメ性を加えるか、シリアスにやるなら現在の社会の問題を投影させてその物語を真面目に考える意味を観客に与えるかの、どちらかでなくちゃいけない。特にわたしはシンギュラリティとか「AIが人間を滅ぼす」的な未来予測は全く信じていないので、そのお話をそのまま描かれても興味が持続しないのである。

 

●『ニンジャバットマン

 

 

ニンジャバットマン

ニンジャバットマン

  • 発売日: 2018/10/10
  • メディア: Prime Video
 

 

 

 酒を飲みながらダラダラ鑑賞した。キャラクターが多すぎてストーリーはとっちからっておりゴミみたい。キャラクターに感情移入できる要素もなければ展開の面白さなども全くなく、「このキャラクターなら言いそうなセリフ」とか「バットマンのお決まりな展開」とかの「それっぽさ」をひたすらやるだけの作品。

バットマンのキャラクターたちが戦国時代にタイムスリップした」という設定は稀有なんだから、真面目にストーリーを練っていればいくらでも面白くできたと思う。たとえばタイムスリップするキャラクターを敵味方含めて5人くらいに絞って、その代わりに織田信長とかの実際の武将を出して、歴史改変やifの要素を追求する……などなどだ。

 ただ、そもそも「面白い作品」とか「優れた作品」を作る気が作り手の側にはハナからなくて、「日本のアニメーション技術でバットマンを描いてみる」という企画ありきの作品なのだろう。良くも悪くも「お祭り映画」なのだ。そういう視点で見てみると、実写版映画ではあまり活躍しないキャラクターも出てきたりして悪くなかった(真面目に見ると時間の無駄だが、酒を飲むついでに見るならアリだ)。特に、ゴリラが悪の天才博士であるという設定は、原作でもそうであるから仕方がないとはいえ、バカみたいで笑えた。ノーランとかベン・アフレックとかのシリアスな実写版バットマンでもゴリラが出てくるのを見てみたいと思った。

『キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン』

 

キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン (字幕版)

キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン (字幕版)

  • 発売日: 2013/11/26
  • メディア: Prime Video
 

 

 スピルバーグは一部の例外はあれど好きであるし、トム・ハンクスレオナルド・ディカプリオも好きであるのだが、この作品はどうにも好きになれない。

 好きになれないポイントはいくつかあって……まず、前半のフランク・アバグネイル(ディカプリオ)とその父親クリストファー・ウォーケンとのくだりが長過ぎる。いまは失われた両親の仲睦まじい関係や家族の温かさを詐欺師のディカプリオは追い求め続ける、という切なさがこの作品の根本であるのだが、序盤の描写が退屈だったせいでそこに感情移入する気が失われてしまったのだ。

 また、2002年という時代性を考慮しても、ミソジニーが目に余る作品でもあるだろう。名ありの女性キャラクターは夫を捨てて金持ち弁護士に飛びつくフランクの母親ポーラ(ナタリー・バイ)か、医者に扮したフランクにエッチと結婚を迫るブレンダ(エイミー・アダムズ)くらいかしかいない。ブレンダも含めて、多くの女性キャラクターもフランクの(嘘の)職業や社会的地位と金になびいて体を差し出す、従属的で浅薄的な存在となっている。この作品にはフランクの世界観が反映させられており、女性が浅薄に描かれているのもフランク自身のミソジニーを忠実に再現した…とみなすことはできるだろうが、それにしたっていい気はしない。エイミー・アダムズが「アホ女」を演じさせられているのは気の毒だったし(『魔法にかけられて』のように、あまりに「アホ女」らしいツラや表情ができてしまう彼女自身のせいでもあるのだが)、後半でフランクがスチュワーデスに自分を囲ませることで警察の目を逃れるシーンは痛快さとか大胆さが強調される演出なだけにイヤさが増していた。

 そして、「実話」をウリにした話にしてはあまりにもウソっぽい描写が多いところも気になる。多少のウソならいいのだが、経歴詐称の詳細から飛行機のトイレからの脱出シーンまで、「いくらなんでもそりゃないでしょ」というのが続くと「はあ?」となってしまうのだ。『タクシー運転手』もそうだったが、観客が白けるほどの大袈裟なウソやドラマチックな展開をするくらいなら、実話に頼らずに最初から堂々とフィクションを作ればいいのである。

『幸せへのまわり道』

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 実績を出しているやり手ではあるがシニカルで批判的なジャーナリストのロイド・ヴォーゲル(マシュー・リス)は、雇い主の命令で子ども番組の司会者であるフレッド・ロジャース(トム・ハンクス)を書くことになる。はじめは「子どもだましな番組を作っている司会者なんて…」と乗り気ではなかったロイドであったが、インタビュー対象であるはずのロジャースはロイドのことを親身に気にかけて彼のことを色々と聞き出したりして、ロイドは面食らってしまうものの、ロジャースの奥深い人間性に興味を持つようになる。そして、父親のジェリー(クリス・クーパー)との関係性に問題を抱えたロイドは、立ち入った質問を色々としてくるロジャースに拒否感を抱くタイミングがありながらも、心の奥底ではロジャースのことをカウンセラーのように思って頼りにするようになっていた。そんななか、ジェリーが脳の病気で入院してしまう事件が起こり…。

 

 実話を題材にした映画であり、実際に放映されていた『ミスター・ロジャースのご近所さんになろう』という子ども番組を模した場面がところどころ挿入されながら、ちょっとメタフィクション的な物語が展開されていく。わたしは該当の番組は未見であるが、人形や模型を用いながら子ども向け番組らしい暖かで優しい雰囲気を忠実に再現した諸々の場面がまず「癒し」になる。

 そして、なによりも、ミスター・ロジャース本人を再現したトム・ハンクスの穏やかで優しい喋り方がすごい。そんな彼がロイドに対して親身にケアや配慮を示すのだが、その聖人っぷりはちょっと尋常でなく、他の映画や物語でもほとんどお目にかかったことがないほどだ。それも、よくあるような愚かさや素直さや純粋さゆえの聖人というわけでなく、相手に対して興味を持って適切な配慮を行う知性があることや、本人は実は短気さや不安定さを抱えているらしいがそれを習慣によって自己コントロールしていること(プールに定期的に通ったり、ピアノを演奏するなど)といった、実在の人物を題材にしただけあって聖人でありながらも"リアルさ"を感じられる点が実に興味深い。ロイドが「でもあなたはテレビ番組で培ったイメージが重荷になっているでしょ?」とか「息子さんたちは自分の父親がミスター・ロジャースであることを嫌がっているでしょ?」などと嫌味な質問をしたときに、それを肯定も否定もしない独特な受け答えをするシーンも絶妙だった。

 子ども向け番組風の演出とミスター・ロジャースの聖人感が合わさって、かなり"癒し"とか"優しさ"に特化した作品ではある。だが、上述したようなミスター・ロジャースのキャラクターの複雑さにより、浅薄な癒し系映画(フィール・グッド・ムービー)からはかけ離れた奥深さが存在しているところがポイントだ。

 

 しかしながら、肝心のロイドの父子関係の描写は「ろくでなしの親父に対する息子の葛藤」エピソードとしてちょっとテンプレ過ぎる(実話だからテンプレ的であっても仕方がないのかもしれないけれど)。ミスター・ロジャースが関わってくる場面ではワクワクするのだが、場面がロイドと家族のパートに移ってしまうとテンションが下がってしまうことは否めないのだ。また、途中で意識を失ったロイドがミスター・ロジャースの番組の世界に迷い込んだかのような夢を見てしまうシーンは、端的に演出が古臭くてダサくて、失笑ものであった。

 脇役たちも、ミスター・ロジャースの妻ジョアンヌ(メアリーアン・プランケット )やロジャースのエージェント?であるビリー(エンリコ・コラントーニ)は出番は少ないながらも印象的であったが、ロイド本人はともかくその妻や父は大して興味深い人物ではない。ここのパートでも登場人物をちゃんと掘り下げていて面白くできていたら、完璧に近い作品になっていただろう。

 

 とはいえ、単に子ども向けらしい「癒し」や「優しさ」を全面に押し出して"自分の弱さや欠点を認めて、自分を肯定する"的なメッセージを描くのではなく、大人であるからには自分の欠点や感情をコントロールして周囲の人間や社会と向き合わなければならない…という「成熟」や「適応」の必要性についてしっかりと描いている点が魅力的な作品だ。

 トム・ハンクスやミスター・ロジャースがどれだけ聖人であり、子供や未成熟な人間にはどれだけ優しかろうと、成熟した大人はけっきょく自分の面倒を自分で見なければいけないし、自分の機嫌は自分で取らなければいけないのである。優しく甘い子供向け番組の撮影が終わった後に、スタッフが撤収したスタジオでピアノのキーを叩きつけるミスター・ロジャースの姿を描くエンディングシーンには、そういった警告が込められているのだろう。

ひとこと感想:『白い闇の女』、『危険なメソッド』

 

●『白い闇の女』

白い闇の女(字幕版)

白い闇の女(字幕版)

  • 発売日: 2017/09/06
  • メディア: Prime Video
 

 

 サスペンス映画というものは当たり外れが激しいものではあるが、これは明確なハズレ。記者のポーター(エイドリアン・ブロディ)が未亡人キャロライン(イヴォンヌ・ストラホフスキー)と知り合って、彼女の夫サイモン(キャンベル・スコット)の死に関わる真相を探って行くうちに誘惑されて肉体関係を結んでしまいそのせいで家庭を失って……みたいなストーリーなのだが、官能的な展開になるわりにはキャロラインは言うほど悪女ではないし、ポーターもそこまで危険な目に合わないし、隠された真相も大したものではないしで、とにかく見所が存在しない感じの作品だ。ジャッキー・チェンが制作に関わっているらしいが、そのせいでしまりのない作品になっているのかもしれない。

 あと、なぜか途中までウィリアム・アイリッシュの『幻の女』を原作にしたものだと勘違いしていたが、全く違った。

 

●『危険なメソッド

 

危険なメソッド(字幕版)

危険なメソッド(字幕版)

  • 発売日: 2017/06/23
  • メディア: Prime Video
 

 

 公開当時から興味を抱きつつ見る機会がなくて、ついに視聴してみたのだが、存外につまらない。ユングマイケル・ファスベンダーフロイトヴィゴ・モーテンセン、そしてザビーナがキーラ・ナイトレイという豪華なキャストであり、「精神分析」という興味深いテーマを扱っているのに、肝心の人間ドラマがつまらなさ過ぎる。

 そして、キーラ・ナイトレイの演技がいくらなんでも異物感がひど過ぎる。「非難ごうごう!? キーラ・ナイトレイの大げさすぎるアゴ演技の真相とは?」とひどい言われようだが、まさに「アゴ演技」としか言いようがない。いちおう実際の精神病患者がやりがちな表情を再現したものではあるらしいが「ほんとかよ」って感じだし、また、某所では精神分析を扱った映画らしくこのアゴがペニスのメタファーになっているとの解釈を見た(こっちの方がまだありそうだ)。

『アメリカン・スナイパー』

 

アメリカン・スナイパー(字幕版)

アメリカン・スナイパー(字幕版)

  • 発売日: 2015/06/10
  • メディア: Prime Video
 

 

 このあいだ『ミリオンダラー・ベイビー』を再視聴したら以前観たときよりもずっと面白く感じられたのだが、同じイーストウッド監督の『アメリカン・スナイパー』については、公開当時に劇場で観たときは感心できたのだが改めて観てみるとどうにも退屈だった。

 なにが退屈か考えてみると、これを言っては身も蓋もないが、イラク戦争(やアフガン戦争)などのような「中東」を舞台にした戦争って、そもそも映画の題材とするには「映えない」のだ。

 ジャングルを舞台にしたベトナム戦争や太平洋戦争のようなワイルド感や恐怖感もなければ、雪が降っていたり塹壕を掘っていたりするヨーロッパ戦線のような荒涼感や美しさもない。また、味方(アメリカ軍)と敵(現地の残存戦力たち)の戦力が違いすぎて、戦闘はいつも散発的でパッとしないものになる。そこで起きるイベントも「味方かと思っていた現地人が敵でしたが、なんとか事なきを得ました」みたいな、いまいち煮え切らないものでばかりあったりするのだ。そもそも勝利条件も曖昧であったり戦争の大義自体が往々にして疑われたりしていて、そうなると作品としてもスッキリさせたり明確な筋を与えたりすることが難しくなって、その曖昧さや五里霧中感そのものを作品に昇華しようとする試みもあったりはするのだが、まあうまくいくことは稀である。

 だから、『ハート・ロッカー』にせよ『アメリカン・スナイパー』にせよ、爆弾処理係であったりスナイパーであったりの個々の兵士の役割や内面に焦点を当てることでサスペンス感やドラマ性を出そうとはするのだが、それにも限界がある……という感じだ。

アメリカン・スナイパー』では、二度ほど強調されることになる「爆弾とかバズーカとかを持った子供を撃つかどうか」という葛藤のドラマと、「虐殺者」(ミド・ハマダ)とか「ムスタファ」(サミー・シーク)とかの"敵役"を主人公のクリス・カイル(ブラッドリー・クーパー)が打ち倒せるかどうか、という戦闘のドラマが強調されることになるのだが……後者のドラマについては事実と違うことは確かであるし、前者のドラマも実際にあったことかもしれないがどうにも作り物っぽさというか古典的という感じが漂う。

 主人公クリスの英雄性を強調する作劇であるためにそのほかのアメリカ兵は完全に彼を引き立たせる脇役でしかなく、彼らがムスタファに狙撃されたところで観客としては「あ、死んだ」というくらいしか感情が湧かない。そのため、せっかく"友の仇を討つ"という要素があるのにイマイチ燃えるものがない、というところも問題だろう。

 

 とはいえ、『アメリカン・スナイパー』ではイラク戦争というアメリカ史のなかでも類を見ないくらい大義をかけた戦争を扱いながら、戦争のシーンでは主人公であるクリスの内面に寄り添った作劇にすることで「祖国を傷付ける蛮人たちに対する復讐」とか「"番犬"として"狼"をやっつける」とか「戦友の仇討ち」というドラマ性を与えることで、戦場が映されている間はおおむねスカッとする物語になっている。……しかし、戦場からアメリカに帰還している場面では、妻のタヤ・カイル(シエナ・ミラー)の視点も交えることで戦争のトラウマに苛まれて徐々に人間性を失っていくクリスの負の側面が強調される。この、戦場が「正」で日常が「負」であるという逆転構造により、「戦争は生き残ったものの心を壊す」といった『ディア・ハンター』的なテーマが強調される……というのはなかなか独特だ。

 俯瞰的に見れば、イラク戦争でのクリスの活躍などの戦争を肯定している部分はあくまで「クリスの視点から見た物語」と括弧に入れられているのに対して、PTSDや後遺障害に苛まれるクリスやそのほかの兵士たちの苦悩や狂気といった戦争を否定している部分はより客観的で広い視点から描かれているので、作品としては反戦的なメッセージを放っているとは言えるだろう。

 ……だが、たとえば冒頭でクリスの父親が息子たちに放つ「羊、狼、番犬」の用語を用いた素朴で幼稚な正義論、それに裏打ちされた戦争に行く前からクリスが抱えていた善悪二元論愛国主義までもが否定されているわけではない。というか、そこはむしろ肯定されているような気すらする。

 たしかにクリスは戦争によって人間性を失っていったが、もとからちょっとヤバいやつではあっただろう。まあそもそもある程度ヤバかったり単純であったりしないとネイビー・シールズに入って英雄になれたりしないものではあるだろうが……*1。そこのヤバさをあえて否定せずに寄り添って赤裸々に描いたことは立派であるのだが、しかし、この作品が「保守」や「右翼」の立場にあることは疑いようもないと思う。実際の映像が使われた、エンディングの葬送の場面における溢れんばかりの星条旗が、それを象徴している。反戦映画であるからといって、反軍隊映画や反国家主義映画であるとはかぎらない、ということなのだ。

 

*1:そういえば、クリスよりはずっとマシであるとはいえ、リチャード・ジュエルもなかなかヤバい人物ではあった。