THE★映画日記

映画(たまに漫画や文学)の感想と批評、映画を取り巻く風潮についての雑感など。

『007/ゴールドフィンガー』+『スノー・ロワイヤル』+『ベストセラー:編集者パーキンズに捧ぐ』+『ミッドナイト・スペシャル』

 

●『007/ゴールドフィンガー

 

 

 

 オッドジョブと金箔を塗られた女の死体が代表しているように、007の旧作のなかでもとくにケレン味が強くて、馬鹿馬鹿しくて、ミソジニーもひどい作品(ボンドがボンドガールのプッシー・ガロアを手籠にしたら惚れられちゃう、なんて展開は最低でしょ)。しかし、わたしは007の旧作のなかでは『ゴールドフィンガー』がいちばん好きだ。

 

 なんといっても、ゲルト・フレーベ演じる敵役のゴールドフィンガーがいい。丸々と太って傲慢で鈍重そうな、いかにもな「あくどい社長」な見た目をしている実利主義者っ歩相なキャラのくせに、グランド・スラム計画というトンチキ計画を実行しようとするギャップがいい。ボンドにカードのイカサマを破られたゴルフでイカサマをし返されたり捕まえたと思ったら脱出されて計画を盗み聞きされたり、などなど、散々してやられるのに余裕たっぷりな態度でボンドと対峙しつづけるところも、リアリティとか整合性とかはないんだけど007映画らしい「美学」が伝わってくる。

 ハロルド坂田演じるオッドジョブは、高校生時代に友人と007のゲームをしていたときにずっと持ちキャラとして使用していたこともあって、個人的な思い入れが強い。ハットを飛ばしたら石像の首がすっぱりと切断される画面はバカバカしいながらも、昨今の映画ではなかなか見かけないような印象的なシーンである。格闘だけでなくゴールドフィンガーイカサマの手伝いなどの小細工ができるところもよいし、「力」ではかなわないと悟ったボンドが「知恵」で倒す展開も気が利いている。まあオリエンタリズムの塊なんだけれど。

 ボンドガールによるガスの「空中散布」に関するプロットや、グランド・スラム計画を聞かされてワイワイガヤガヤするギャングたち、クライマックスにおけるフォート・ノックスでの展開など、ほかの007映画に比べて印象に残るキャラや場面が際立って多い。BGMもノリがよくて、クライマックスでかかるとワクワクする。

ロシアより愛をこめて』や『女王陛下の007』のような叙情は皆無である代わりにケレン味と勧善懲悪に特化させたという点で、007ファンでなければいまでも観る価値がある作品は『ゴールドフィンガー』だと思う。なんといっても、ほかでは得られないような鑑賞体験があるからだ。

 

 また、クレイグ版ボンドが『女王陛下の007』をオマージュしたように、次回のボンドでは『ゴールドフィンガー』をオマージュしてほしい。(それこそ「銀」とかレアメタルとかに執着しているキャラなんて面白いんじゃないかしら。ダイヤモンドに執着すると『噓喰い』のヴィンセント・ラロになっちゃうな。)。敵役はベン・アフレックあたりが「あくどいアメリカ人社長」にぴったりだと思う。

 

●『スノー・ロワイヤル』

 

 

 

 リーアム・ニーソン主演の、初期タランティーノコーエン兄弟風のブラック・ユーモアがあふれる、群像劇風コメディ寄り復讐クライムアクション映画。……とはいえ、冒頭はややマジメ寄りでふつうの復讐譚という趣が強く、キャラが死ぬために「墓碑銘」が表示される演出の意図も最初はよくわからず、そもそも「ブラック・コメディ」な作品であることを理解するまでに時間がかかった。

 コメディであることに気が付いたのは、敵の麻薬売買組織の親玉、トム・ベイトマンが演じるバイキングと部下たちのやり取りや、ウィリアム・フォーサイスが演じるウイングマンと主人公のやり取り、そしてトム・ジャクソンが演じる先住民たちによる麻薬組織が登場してから。コメディ要素に関しては基本的にトム・べイトマンの独壇場であり、諸々のクライム映画の悪玉が持つような「こだわり」をパロディ的に強調したキャラクター設定もよいし、子煩悩で息子に添加物が入った食べ物を与えないというくだりもおもしろい。実はゲイであった部下を射殺したらひそかに付き合っていたその恋人に裏切られるという展開もよかった。

 そして、トム・べイトマンの息子は実に可愛らしくてできの良い子で好感が抱けるし、「息子を殺した仇の息子」でありながらその子を守るリーアム・ニーソンは、中盤以降は濃いキャラに埋もれそうになるなかで、「主人公」としてほかのキャラたちと一線を画したモラルを持っている点がよい。悪人たちが自業自得で死んでいく様子を眺めて楽しめるブラック・コメディであるからこそ、主人公がモラルを保つというは重要だ。作品がモラルの大事さをわかっているかそうでないかで、後味ってずいぶんちがってくる。リーアム・ニーソンが子どもに除雪車のマニュアルを読み聞かせするシーンは可愛らしいし、「ストックホルム症候群って知ってる?」とメタ的なツッコミを子どもに言わせるところも気が利いている。

 また、序盤に登場するウェディング・プランナーの敵役を主人公が射殺するシーンも、画面がおもしろかった。

 先住民側の組織はトム・べイトマンのほうに比べるとだいぶ個性は劣るが、インド系の構成員がパシリ扱いされたり、ホテル従業員の言葉尻をとって「差別発言だと騒いで問題にするぞ」と脅したり、クライマックスの撃ち合いに参加せずにハングライダーで遊んでいた構成員が最後の最後で事故で死んだりなど(ここは悪趣味が過ぎるとも思うが)、小ネタがいっぱい利いていて楽しい。出番は少ないけど女子構成員も美人で良かった。

 

 ローラ・ダーン演じる主人公の奥さんをはじめとして、ギャング側の奥さん連中もみんな夫を突き放しており、男同士の殺し合いから距離を取れている。死んだ旦那の墓に唾を吐いたり旦那の金玉を握っても「制裁」がくだることがなく、女性キャラの死人が(たしか)ゼロであるのはちょっと女性にとって都合が良過ぎるもするが、まあ女性観客に対するマーケティングとしては機能しているんだろう。女性警官に関しては主人公と同じく「モラル」を体現する人物であってよかった。

 

 ブラック・コメディでありながら「グロい死に方」が強調されることもほとんどなく、イヤな気持にならずに(中盤以降は)テンポのいい天気や小気味の良いコメディやすれ違いギャグが楽しめる、気楽に見るぶんとしてはなかなかにいい映画。

 ……とはいえ、タランティーノコーエン兄弟の作品にあるような「格」はないし、名作という雰囲気もほとんどない。タランティーノやコーエンだったら、物語の開始時点からもっと惹きこまれるような展開や画面をつくるだろうし、前半がダレることもないだろう。

 

●『ベストセラー:編集者パーキンズに捧ぐ』

 

 

 

 

 アメリカ文学史に残る作家トマス・ウルフをジュード・ロウが演じて、フィッツジェラルドヘミングウェイも担当した編集者マックス・パーキンズをコリン・ファースが演じる、伝記映画。

「作家と編集者が登場する、アメリカ文学を題材にした映画」といえば先日に観た『ライ麦畑の反逆児』を思い出すが、あちらはサリンジャーを演じるニコラス・ホルトの存在感が編集者のケヴィン・スペイシーに負けていたのに対して、こちらはジュード・ロウコリン・ファースが対等に並び立っている。……とはいえ、コリン・ファース自身はともかく彼が演じる編集者パーキンズは出番が多いわりにキャラクターが弱くて、トマス・ウルフとの関係性ありきになっていた。肝心のトマス・ウルフもよくいるような「破天荒な天才芸術家」だし。

 どちらも奥さんやヒモをさせてもらっている女性を捨てて、作品を完成させるために編集者/作家のほうにかかりっきりになるという点では、ブロマンス的というか同性愛的な作品でもあるだろう。

 ストーリーとしては伝記映画らしく退屈なんだけれど、ダレてくるタイミングでガイ・ピアース演じるフィッツジェラルドドミニク・ウェスト演じるヘミングウェイなどのアメリカ文学のスターたちを登場させてくれるのはうまい。とはいえ、これもわたしは大学時代にアメリカ文学を専攻したからであって、とくにアメリカ文学のファンではない観客にとってはただ退屈な作品なのではないかと思う。

 

 ところで、サリンジャーフィッツジェラルドとはちがい、すくなくとも現代の日本でトマス・ウルフを読んでいる人はほとんどいないはずだ。アメリカ文学史でも名前は出てくるが読むことを推奨されるほどの作家ではないし、日本だと最近ではせいぜい『天使よ故郷を見よ』が文芸文庫となっているくらいである。たぶん、トマス・ウルフは明確に「終わった」作家なのだ(アメリカ本国での扱いは知らないけれど)。

 それをふまえると、彼が「後世にも読まれる作品を書けるか」と悩む一方で、いまでも読まれ続けるフィッツジェラルドが「そんなことより、すこしでも良い文章を書くことのほうが重要だ」と言っているシーンには痛烈なアイロニーを感じた。原題が Geniusであることもけっこうな皮肉だろう。

 

●『ミッドナイト・スペシャル』

 

 

 ジェフ・ニコルズ監督による、超能力を持つ子どもをめぐる、SFサスペンス。銃撃戦あり、カーチェイスありとアクションもバッチリだが、エンタメ的な内容ではなく、かといって「文芸的」になるにはSFやアクションが邪魔をしている、ちょっと中途半端なジャンルの映画だ。したがってそこまで面白いわけではないのだが、不思議で独特の魅力はあるし、登場人物たちはみんな実に魅力的(肝心の子どもがマクガフィンと化しているという問題はあるが)。

 主人公のマイケル・シャノンは同じジェフ・ニコルズ監督の『テイク・シェルター』と同様に家族を守るための「狂気」を目力で表現しており、そしてただ「幼馴染だから」というだけで死地まで主人公家族と同行するジョエル・エドガートンの「いいやつ」っぷりはとんでもない(彼が『ラビング』で主役に抜擢されたのも納得だ)。いきた

 キルティン・ダンスト演じる主人公の奥さんも、なんというか「素朴な田舎の白人女性」まんまという感じだ。

 また、「俺の専門は電気技師なんだけれど……」とぼやきながら子どもの誘拐という任務をカルト教祖から命じられてしまったビル・キャンプも、出番は少ないながらもいい味を出している。教祖役のサム・シェパードには貫禄があるし、モブの教団員はみんな田舎の善男善女でありながらどことなく不気味で「カルトっぽさ」が漂っている。カルトの集会にFBIが捜査のために礼儀正しく乗り込む、という導入もシュール。

 

 しかし、なんといっても、アダム・ドライバー演じるNSA職員のポール・セヴィエがべらぼうに魅力的だ。知性的で礼儀正しく素直に真実を見抜く目のある、というキャラクター自体はわりとありがちなんだけれど、これとアダム・ドライバーの顔つきや声色がやたらとマッチしている。

 アダム・ドライバーって「素直」な性格をしたキャラを演じることはあまりない気がするけれど、悪いやつとかイヤなやつよりも良いやつの役柄のほうが彼には向いているだろう。存在感もすごくて、画面の端からドアを開けて入ってきた瞬間、その大柄な身体と声色だけでアダム・ドライバーであることがわかっておもわずテンションが上がってしまった。

 

 SF要素のみならず、ほかの面でのストーリー展開においても意図的に「説明」をおこなわない演出は良し悪しといったところ(ビル・キャンプが誘拐直後にFBIに射殺されているであろう点とか、ぼうっとしていると見逃しちゃう)。オチは黒澤清的な思わせぶりでセカイ系風味だが、まあSF要素は「ガワ」であり、子に対する父親の普遍的な愛情、そしてバイブル・ベルトなアメリカ南部の独特な雰囲気を描くことが主眼にあるのだろう。

 しかし息子はマクガフィンとなっているためにキャラクター性にとぼしくて、『スノー・ロワイヤル』の男の子のほうがずっと魅力的であるのはどうかと思うけれど……。

 

『刑事コロンボ』

 

 

 

 わたしが映画を本格的に見始めたのは高校2年生の春休みからなんだけど、当時はミステリーファンでもあった。それで『刑事コロンボ』を見始めたのは高校3年生の夏休みからだ。『ジョジョの奇妙な冒険』や『金田一少年の事件簿』などで引用されているのを見て当時から興味を抱いていたし、「最初に犯人による犯行シーンが描かれて、後から登場する主人公の刑事コロンボが犯人を追い詰める」という構成も画期的かつ優れていることは、鑑賞経験が浅いながらも察することができた。最初に観た作品は『意識の下の映像』である。

 そして、大学2年生の夏までのおよそ2年間で、いわゆる「旧シリーズ」の45作品をすべて観た。当時やっていた mixi というSNSにはレビュー機能があったのだが、2008年のわたしが私がつけた45作品の評価がまだ残っていたので、ここに再掲する。

 

1.     殺人処方箋 A
2.     死者の身代金(Pilot) B
3.     構想の死角 B
4.     指輪の爪あと A
5.     ホリスター将軍のコレクション A
6.     二枚のドガの絵 A
7.     もう一つの鍵 C
8.     死の方程式 C
9.     パイルD-3の壁 B
10.     黒のエチュード B
11.     悪の温室 C
12.     アリバイのダイヤル A
13.     ロンドンの傘 A+
14.     偶像のレクイエム B
15.     溶ける糸 A
16.     断たれた音 A+
17.     二つの顔 C
18.     毒のある花 B
19.     別れのワイン A+
20.     野望の果て B
21.     意識の下の映像 A
22.     第三の終章 C
23.     愛情の計算 C
24.     白鳥の歌 C
25.     権力の墓穴 B
26.     自縛の紐 A+
27.     逆転の構図 B
28.     祝砲の挽歌 A+
29.     歌声の消えた海 B
30.     ビデオテープの証言 C
31.     5時30分の目撃者 B
32.     忘れられたスター A+
33.     ハッサン・サラーの反逆 C
 34.     仮面の男 A
35.     闘牛士の栄光 B
36.     魔術師の幻想 B
37.     さらば提督 B
38.     ルーサン警部の犯罪 C
39.     黄金のバックル C
40.     殺しの序曲 B
41.     死者のメッセージ B
42.     美食の報酬 C
43.     秒読みの殺人 A
44.     攻撃命令 B
45.     策謀の結末 A

 

 今回、『パディントン』を観るためにHULUに一ヶ月限定で加入したら『刑事コロンボ』も揃っていたので、じつに13年ぶりにボチボチと見始めた。最初は「ドラマといっても1時間15分とか1時間30分はかかるんだし、これを観ているあいだに映画を観たほうがいいよなあ」と思うところもあったんだけれど、ストーリーの構成を知っているので集中力や没頭が必要とされず疲れているときでもするすると見れちゃうこと、そしてやはり多くのエピソードの出来がよく、エピソードごとに展開やトリックやキャラクターに工夫を凝らしているためにその違いを味わうのが面白くて、ついつい見ちゃう。

 ここ最近で私が見た各エピソードについての感想は以下の通り。

 

●『別れのワイン』:コロンボ全作のなかでも世評が最も優れている作品だが、やはり、評判通りのド名作。犯人は同情の余地が充分ありながらも、コロンボの犯人らしい高慢さはちゃんと持っている、というバランスがいい。なにより、真実追求のため犯人と仲良くなるためにワインの勉強をするという、コロンボによる犯人に対する「敬意」、それを通じたコロンボと犯人の「相互理解」の描写が素晴らしい。『刑事コロンボ』という作品は、勧善懲悪と人情のバランスに成り立っていると言えるだろう。

 また、ワインに関するトリビアが犯人逮捕の決め手になる、というオチはいつまでも忘れられないくらいに印象的で優れている。

 

●『パイルD−3の壁』:敵役は魅力的でなく、ストーリー構成もふつうだが、終盤における「死体をどこに隠すか?」というトリックをめぐる大胆な攻勢はさすがのもの。

 

●『自爆の紐』:むかし観たときには「靴紐」をめぐる矛盾にコロンボが気付くあたりが実に論理的で、地味ながらもミステリー的に際立っている…と思ったがいまになって見てみるとそんなことはなくて、特に洗練されたところのない作品であるように思える。しかし、スポーツジムの経営者である犯人が常にトレーニングをしている様子や、コロンボまでもがトレーニングに精を出す(けどすぐに止めちゃう)くだりなどはユーモラスでいいと思う。

 

●『絶たれた音』:これもむかしはずいぶんと気に入っていた作品だけれど、いま見てみると、チェス名人同士による殺人事件という設定には惹き込まれるし気の毒さと憎たらしさを共存した犯人のキャラクターはいいのだが、ミステリー面での展開はさして面白くなかった。被害者のキャラは他の作品に比べて濃くて、だからこそ勧善懲悪の要素が増す、というあたりがポイントかな。

 

●『溶ける糸』:犯人も展開もふつうだけれど、ちょっとした「医療ミステリー」になっているところはおもしろい。最後の最後まで気を抜けない犯人の狡猾さとオチも気が利いている。

 

●『権力の墓穴』:この作品は世評が高いけれど、わたし的にはあんまりよくない。別の人間が犯した殺人を利用する警察のお偉いさんな真犯人の狡猾さや悪人っぷりはよいし、そんな彼をヒラ刑事のコロンボがやっつけるという点で勧善懲悪もバッチリだが、しかし「殺人者が二人いる」という特殊設定は話を間延びさせる方向に作用しているように思える。

 

●『野望の果て』:ちょっとドナルド・トランプを思い出させるような幼稚で自己中心的な政治家でありながら、「自分にマフィアから殺人予告状が出されている」「警護のために警察に守られている」という状況を逆用したトリックを実行する狡猾さやアリバイトリックの周到さなどの高い知性を発揮するという犯人のキャラクター性のギャップがちょっとおもしろい。ある意味では、「政治家」という存在をリアルに描けているといえるかもしれない。…しかし、オチは完全に犯人による「自爆」なので消化不良。コロンボがネチネチ犯人を攻め立てて自滅に追い込むというのは王道な展開なのだけれど、うまく描けているときはいいがそうでなかったら犯人がアホみたいになっちゃうという問題があるのだ。

 

●『ホリスター将軍のコレクション』:こちらの犯人は見た目はドナルド・トランプに似ているが、性格に関しては良くも悪くも異様なプライドの高さと度胸の良さ、そして高潔さに潔さと、トランプとは似て非なる人物。……とはいえ、殺人事件については完全なエゴイズムによるものでまったく同情の余地がなく、被害者が気の毒で、そういう点では勧善懲悪がきちんと成立している。最初から犯人にとって不利な状況であり最後のオチもミステリー的には大したことがないが、犯人と目撃者によるロマンスが繰り広げられたり、オチにも軍人としてのロマンが込もっていたりするなど、ミステリーとは違うところでドラマを追求した作品である。

 

●『指輪の爪あと』:探偵会社の社長という犯人の設定、浮気調査の結果の報告から始まり犯人による被害者の脅迫と被害者による逆脅迫というスピーディーな展開が続く冒頭、被害者を殺してしまった犯人が証拠隠滅を行う姿がサングラスに映る演出のオシャレさやスリリングな音楽、そしてコロンボと一緒に捜査に加わる犯人と高度な駆け引きや、被害者の夫や浮気相手にヒラ探偵などの第三者的なキャラクターも個性的である点、なんといっても最後に明かされるコロンボの「いたずら」など、ミステリーの面においてストーリーの面においても一級品。

『別れのワイン』と並んで、(今回観た範囲では)他の作品群とは段違いにクオリティが高くて、一本の映画としても通じるようなrベルだ。ロマンや人情に重きを置いた『別れのワイン』と比べて、こちらはミステリーとハードボイルドに重きが置かれている、という対比もいい。

 同じシリーズでありながら多様な種類の物語が描けるところが、やはり、『刑事コロンボ』の魅力であるのだろう。

 

 今回観ていて思ったのは、ぜひ、Netflixあたりにリメイクして21世紀版の『刑事コロンボ』を作ってほしいということ。

ピーター・フォークじゃなくちゃコロンボじゃないやい!」というファンの声は根強いだろうし、たしかにコロンボが若者や女性になったら興醒めだが、マーク・ラファロなんか似たような髪と体型をしていてぴったりだと思う。

 改めて鑑賞して思ったのは、犯人たちは金持ちで高慢であることはもちろんのこと、コロンボよりも身なりが良かったり背が高かったり若々しかったり社会的地位があったりなどなど、「エリート」であることが強調されていること。つまり、『刑事コロンボ』は、かなり意図的に「善良な庶民」と「悪どいエリート」との対立が描かれた作品であるのだ。また、「とぼけていて無知であるが人を見る目は鋭く、弱者の味方であり、常に真実に辿り着ける」というコロンボのキャラクターは本来の意味で「反知性主義的」なものである。何度か書いてきたけれど、とくにアメリカ文学においては、反知性主義は否定されるものであるどころか美点であるのだ(それに、日本においても「人情もの」とは反知性主義的なものだ)。

 

 そして、物語においては、メリトクラシー的な「立身出世物語」を肯定する一方で、「エリート」を否定して「庶民」の側に立つことも王道である。しかし、近年のアメリカでは「庶民 vs エリート」の対立軸が人種やジェンダーに取って代わることで、共和党的な保守人種差別セクハラおやじは敵役にされて散々にやっつけられるけれど、もっと一般的な意味でのアメリカン・エリート…つまりカリフォルニアやニューヨークに住んでいるような、リベラルで開放的で活き活きとした高給取りが敵役となることは少なくなってきた。しかし、スクリーンの外側では、「リベラル・エリート」に対する疑問の声や敵意も増している。だからこそ、庶民とエリートの対決の物語である『刑事コロンボ』を、いまリメイクする価値はあるはずなのだ。奇しくもコロンボの舞台がカリフォルニアであるというところも気が利いているし。まあ「警察」自体のイメージがむこうじゃ悪くなっているんだけれど、それはそれとして庶民=マジョリティ=警察とつなげちゃうことで逆に批評的になるかもしれない。

 犯人役に関しては、リベラルなイメージが強いハリウッド俳優たちを起用すればするほど作品の批評性は増すだろう(ブラッド・ピットナタリー・ポートマンエマ・ワトソンマハーシャラ・アリヘンリー・ゴールディング、故チャドウィック・ボーズマン……あたりが、とくに「欺瞞と満ちた犯人」の役として映えそうだ。クリス・エヴァンスダニエル・クレイグレオナルド・ディカプリオベン・アフレックはリベラルな役柄にしなくても「高慢な権力者」系の犯人が似合いそうだな)。ぜひ金に糸目をかけずに実現してもらいたい

 

『告白小説、その結末』+『ライ麦畑の反逆児:ひとりぼっちのサリンジャー』

 

●『告白小説、その結末

 

 

 

 ロマン・ポランスキー監督だけど英語ではなくフランス語の映画。英語・日本語の吹き替えもなかったから話に入り込むのは難しく、途中からスマホポチポチしながらの流し見で、そのために最後の最後で明かされる「トリック」もよく理解できず、解説サイトを読む羽目になった。……とはいえ、理解したところ、トリック自体はありがちだなと思うし、後半のサスペンス展開もトリックのためのミスリードとしては効いているが面白さ自体はそんなにで「なんだかなあ」という感じもする。

 

 しかし、フランス映画は言語が理解できないのが欠点ではあるが、登場人物と背景の魅力はバッチリ際立っている。『エミリー、パリへ行く』を観たときにも思ったけれど、単純にフランス人ってオシャレだし造形も美しいし、女性も男性も穏やか、街並みも素敵で、画面についつい惹き込まれてしまうのだ。昔はフランス映画特有のスローテンポが苦手て敬遠していたけれど、フランス映画ファンの気持ちがわかってきた。特に、編集者だか編集エージェントだかのメガネの女性がいかにもフランス女性という感じでお気に入り。

 そして、エヴァ・グリーンの魅力もバッチリ。『カジノ・ロワイヤル』の頃に比べて怪しさやエネルギーが強調されており、ギョロギョロしたブルーの瞳の魅力には抗えずに吸い込まれてしまう(この作品を観て初めてエヴァ・グリーンがフランス人だと知ったんだけれど、クレイグ版ボンドの二大ヒロインはどっちもフランス人ということなんだな)。あのブルーの瞳を堪能できるというだけでもこの映画には価値がなくもない。

 また、エマニュエル・セニエ演じる主人公がたまに観る「悪夢」のシーンは、そんなに突飛な絵面ではないはずなのにしっかり「夢」であることがわかる、リアルからの乖離の具合が絶妙であった。

 

●『ライ麦畑の反逆児』

 

 

 

 サリンジャーを知らない人には興味が惹かれず、かといってサリンジャーの熱烈なファンであればあるほど「こんなのほんとうのサリンジャーじゃないやい!」と駄々をこねることが確定している、難しい題材。しかし、わたしはサリンジャーの程好いファンであるため、高校生〜大学生の前半にサリンジャーを読んでいたことや自分自身が小説を書いていたときのことを懐かしく思いながら、一本の伝記映画としてまずまず楽しむことができた。

 サリンジャーを演じるニコラス・ホルトは「反抗心もありプライドも高いけど傷付きやすく繊細」な、王道の文学青年をしっかり演じている。親の金に頼りつつ親のことを馬鹿にしていたり、憧れの女性と付き合えたかと思ったら戦地に行った途端にチャップリンに盗られたりと、情けなさや気の毒さもバッチリ描けている。『ライ麦畑でつかまえて』出版にいたるまでのゴタゴタについては、「むかしなにかの本で読んだときにたしかにこんなことが書かれていたな〜」と思いながら観ていた。

 戦場にいる場面は、彼女を盗られた件を抜きにしても、明らかに戦争に向いていない線の細い男の子をこんな大変な目に遭わす戦争の残酷さというものを再確認できた。あと、超絶月並みな感想だけど、「この戦争でサリンジャー死んでいたらおれも『ライ麦畑でつかまえて』を読むことができなかったんだなあ」と思った。

 

 とはいえ、基本的には凡庸で退屈な伝記映画であることは否めず、サリンジャーニコラス・ホルトの魅力だけで引っ張るのはしんどい。だが、編集者役のケヴィン・スペイシーは主人公以上に存在感があって魅力的だし、冒頭における彼の講義シーンも印象的で、「この映画、面白いかも」と思わされるきっかけになった(スペイシーが先生役をやっているという点で、先日に観た『ペイ・フォワード』も思い出したな)。サリンジャーよりも編集者のほうが興味を惹かれるのは映画としてどうなのよとも思うけれど、一方で、主人公以外の人物にも存在感があることは映画としての美点でもあると思う。あとはまあ、ニコラス・ホルトという役者がケヴィン・スペイシーに匹敵するほどの「格」をまだ持っていないところが問題なのかな。

 

 

 

『ミスティック・リバー』

 

 

 

 最初に観たときはたしか20歳だったので12年ぶりの再視聴だが、イーストウッドの作品群のなかでも『チェンジリング』や『グラン・トリノ』並みに出来がよくて記憶に残る内容の作品であり、特にクライマックスの展開やエンディングは鮮明に覚えていた。

 当時はエンディングの後味の悪さにイヤなものを感じたが、いま観返すと、不思議とイヤな感じはしない。『ジェイコブを守るため』と同様に信じることや「疑念」をテーマにした作品であること、そして世の理不尽さや救いのなさを露悪的にではなくニュートラルに突き付ける映画であることがすらりと理解できる。

 

 ティム・ロビンズ演じるデイブの人生はあまりに悲惨だし、ショーン・ペン演じるジミーとケヴィン・ベーコン演じるショーンが子ども時代と大人になってからの二度にわたりデイブを「見捨てる」様子は実に残酷だ(ところで『シネマ坊主』で松本人志は「なんでショーン・ペンがおるのに別の俳優が演じているキャラにショーンって名付けるねん、ややこしいやろ」という理由でこの映画に低評価を付けている文章を、高校生だった15年ほど前に読んだことをいまでも鮮明に覚えている)。

 元友人を勘違いで殺して他人様の家庭を破壊しときながら「この罪は背負うぜ」とほざきつついけしゃあしゃあと開き直るジミー、そしてそんな夫のことを「あなたは愛に満ちた人間よ」と肯定するジミーの奥さんの厚顔無恥っぷりはひどい。

 しかし、考えてみれば、家庭を守るためや子どもの復讐のために「悪人」をやっつけるというのは、ハリウッド映画ではどのお父さんもやっていることだ(映画によっては家族が一致団結して孤独な「悪人」と対峙することもある)。『ミスティック・リバー』ではたまたまその相手が冤罪だっただけで、実のところ、普段のハリウッド映画(やジョン・アーヴィングのようなアメリカ文学、そしてアメリカに限らない諸々の国の諸々のフィクション)で描かれる「家族主義」が家の外の他者を排除する残酷なものだということである。そして、それはフィクションに限らない。現実に生きるわたしたちが自分たちの「ふつうの家庭の平穏」を守るために、「他者」を遠ざけたり排除したりしている。そう、わたしたちだって、自分の子どもをデイブには近づけたくないし、なにかあればデイブみたいな人のことを真っ先に疑うはずなのである。

 

 ふつうの映画であれば、デイブのような「他者」と普通の世界に住むわたしたちのような人間がつながる出来事を描いて、「他者」への理解や「他者」との交流をテーマとするものだろう。もちろんそれはフィクションが担っている大きな役割であり、そのようなことをテーマにした作品のなかには名作がいっぱいある。でも、ある意味では、それらの映画はすべて所詮は「綺麗ごと」だ。映画のなかで描かれた「他者」に共感したり感動したりしても、その帰り道でデイブのような人間が現れたら、やっぱり怪訝に思ったり遠ざけたりするのがわたしたちなのである。

 そして、『ミスティック・リバー』は、「他者」を遠ざけるわたしたちを糾弾する作品でもない。むしろ、「そういうものだ」といわんばかりの諦念が作品を覆っているし、これはやや危うい言い方になるが、家庭や町や社会の平和を守るために不幸な「他者」を犠牲にするわたしたちの在り方を、肯定すらしているように思える。そう、わたしたちの生活と社会は綺麗ごとでまわっているわけじゃないし、綺麗ごとのために生活と社会を犠牲にしてしまうわけにもいかないのだ。

 すくなくとも、自分がジミーの立場なら、やっぱりデイブを処刑してしまうだろう(たしか松本人志も同じようなこと書いていた)。そして、ショーンもそれがわかっているからこそ、彼に銃を突き付ける指マネはしても、彼を糾弾した利逮捕したりはしないのである。

 

 ショーンの相棒のローレンス・フィッシュバーンはやや嫌味な刑事の役柄にぴったり。デイブ、ジミー、ショーンの三人を中心に展開していくこの作品のなかで、貴重な「外部」として機能している。

 そして、三人それぞれの奥さんは、いずれも出番が少ないながらも印象に残る。おそらく、奥さん方それぞれの末路には、この作品の裏テーマが示されている。家庭や日常を守るのは夫だけでなく妻の仕事であり、夫を信頼して理解したジミーの奥さんは幸せな生活を続けられる一方で(まあ娘がひとり死んじゃっているけど)、夫に疑いを抱くだけでなくその疑いを家庭の外に漏らしてしまったデイブの奥さんには夫を失って信頼できる人もいなくなるという「罰」がくだされることになるのだ。ショーンの奥さんにも、これからショーンとがんばってうまくやっていき、ふたりと娘の家庭や日常を守る責務が課される。

 女性に男性と対等の責務を負わせているからこそ女性に厳しい作品となるわけだが、それは、この映画の明確なオリジナリティであり美点である。

 

ミリオンダラー・ベイビー』もそうだが、特にこの時期のイーストウッド作品における、社会や人間を見る目の冷徹さや厳しさは凄まじい。しかし、冒頭でも指摘したように、決して露悪的にはなっていないところがポイントだ。実際のところ人間や社会が「そういうもの」であるからこそ、そこに対するジャッジや規範的主張を抜きにして「そういうもの」として描くしかない、というのがイーストウッドのやりたいことであるのだろう。そして、現代のほとんどのハリウッド監督からはそれができる覚悟も胆力も矜持も失われている。イーストウッドには延命技術を駆使して150歳くらいまで作品を作り続けてもらいたいところだ。

『007/ノー・タイム・トゥ・ダイ』:ボンドが「有害な男らしさ」から脱却しちゃった

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 一年半も公開が引き延ばされたクレイグボンドの最終作を、満を持して鑑賞。事前にPrimeVideoで007シリーズが前作配信されたことでクレイグボンドの過去作品を観返すことができて、ヒロインのバックグラウンドとか「ミスター・ホワイト」というキャラクターがいたことを思い出すことができたけれど、そうじゃなかったら危なかったな。『スペクター』ですら6年前の作品なんだぜ。

 

 予告編とか事前の盛り上げっぷりから、さぞやシリアスで気合の入った名作であるんだろうと思っていたけれど(それこそ『ダークナイト』的な)、いざ観てみたら『スカイフォール』や『スペクター』以上にユーモアたっぷり、アクションは軽快、ガジェットやヴィランは脇役はバカバカしくてクライマックスは熱血少年漫画の趣すらある、楽しいエンタメ作品に仕上がっていた。……とはいえさすがに2時間45分は長過ぎで、北欧の森のなかで中ボスとウダウダやっているくだりは眠気がすごかった。

 

 すでに色んな人が指摘しているけれど、クレイグボンドの最終作でまたもや「ジェームズ・ボンド映画の脱構築と再構成」をやってしまっているのはどうかと思う。『カジノ・ロワイヤル』や『スカイフォール』でもやっていたんだし、5作中3作で脱構築と再構成をしているって本末転倒じゃない?

 

 そして、見え隠れする「ポリコレ」要素に関しては、良し悪しといったところだ。

 

 アナ・デ・アルマスはこれまでのボンドガールのアベレージを大幅に上回るエロエロなおねーちゃんだけれど、そんな彼女の性格を男女の機微やコミュニケーションに疎いアスペルガー気質にすることで、いつもの「ボンドになびくボンドガール」という展開を自然と回避しているところはうまい。彼女とボンドのやりとりもかなりユーモラスで笑ってしまった。とはいえ、中盤以降に再登場しないのは映画として不自然だし、「うちらはこれまでのボンドガールの描き方よくないと思っています」というエクスキューズとか意見表明のためのキャラクターになってしまっているきらいはある。まあエロかったしおもしろかったからいいんだけれど。

 

 ボンドの同僚の「新007」ことラシャーナ・リンチは、いちいちボンドと張り合おうとする性格の小物っぽさがギャグにつながっていて、そして性格とは裏腹に実力は十分なところが魅力的だ。ふつうならこういうキャラクターはシリーズの真ん中あたりで登場して、実力が足らずに死んじゃってボンドとMに後悔させたり反省させたり渋い顔をさせたりする役割を担うところだけれど、まあシリーズ最終作に出るんだったらボンドと同等の実力をもっていても不自然ではないだろう(アフリカ系女優を「実力足らずで死んじゃいます」という役柄にしたら炎上必至だろうし)。ボンドと再会したマドレーヌがホの字になっているところを見て「女はみんなあんな風になっちゃうの?」「五分五分だ」と会話するくだりもおもしろかった。

 また、ナオミ・ハリス演じるマネーペニーと新007、ふたりのアフリカ系女性にボンドが挟まれている画面は新時代的ですなおに「いいね」と思えた。ナオミ・ハリスもかなりかわいくて魅力的な女優だし。いっぽうで、敵の本拠地にて、デヴィッド・デンシクが演じる敵の科学者(コメディ調でそこそこ魅力的なキャラクター)が唐突に人種差別発言をして新007が唐突にキレて処刑する、というくだりは明確によくなかった。新007のプロフェッショナルっぽさが損なわれてしまうし、アフリカ系俳優を出すから無理して人種差別の問題に言及した、というのがミエミエである。『ファルコン&ウィンターソルジャー』のときにも書いたけれど、「アフリカ系をフィーチャーするなら人種差別の問題を取り入れなければならない」という縛りを設けるのは作品の多様性もキャラクターのヒーロー性も削減してしまうし、とくにそれまで「カラー・ブラインド」でやってきたシリーズやフランチャイズでこれをやられると違和感がすごいのだ。

 

 とはいえ、おそらくこの映画の最大のポリコレ要素は、ボンドが「妻」以外とはチューもセックスせず、女性と子どもを守るために自己犠牲をして、娘のためならぬいぐるみを拾いにいってしまう、「有害な男らしさ」から脱却した(ケアする?)男性になっているところだろう。つまり、いかにもジェンダー論や男性学をやっている批評家が喜びそうなキャラクターになっているのだ。

 

 わたしの感情的には賛否が半々で、背景にあるジェンダー論や欧米の「流行」があまり にミエミエであり、フィクションの作り手が「流行」を無批判に受け入れて自分たちの作品を「流行」に屈しさせている様子には、劇場で鑑賞しながら「しょうもねえなあ」と思いつづけてしまった。これからは007に限らずにどのシリーズのどんな作品も「流行」にあわせた「脱構築」や「再構成」が施されていくんだろうけれど、そうなると映画の多様性は失われるし、人々が感じたり抱いていたりするリアリティとロマンが表現されることがなくなってしまって、映画は底の浅いメディアになってしまうと思う。

 そもそも、「流行」に従わずに独自の世界を描いて独自の価値観を示すところにフィクションの存在意義ってあるはずだし…(まあ映画はほかのジャンル以上に「商品」としての要素が強いから「流行」に抗うのは難しいのかもしれないけれど)。

 

 とはいえ、レア・セドゥ演じるボンドの奥さんのマドレーヌは『スペクター』の頃からさらに美人になっているし、ボンドの娘さんも実にかわいい。あんな美人の奥さんと娘がいたらわたしだって浮気しないだろうし、命を賭すことにもやぶさかではない。

 奥さんに裏切られたと勘違いしてふてくされたり、同僚が奥さんと会っていることを知ってやきもきしたり、奥さんとの再会を喜んだり、そして子どもの姿をみてデレデレしてしまうボンドの姿はひとりの「男」としての等身大の人間味があってかなり魅力的だ。娘を救うためなら土下座までしてしまうなど、クールでスカしたところをまったく無くして泥臭くがんばるおっさんとしての活躍が、しっかり描けている。一作目から登場してきたCIAのフェリックスとの友情描写もバッチリだ。

 しかしまあ、最終作だから死ぬのはいいんだけれど、ボンドが死を選択する過程はかなり無理がある。というか、最後の空爆シーンは「これでボンドが死んだとは思えない……」であって『ダークナイトライジング』的に「実は生きていました」描写であるはずだと思いながら観ていたらほんとに死んじゃっていてびっくりした。

女王陛下の007』の引用は何度も出てきて「くどい」と思ったけれど、エンディングはさすがに奇麗に収まっているしロマンティックだしでちょっと感動した。でも、これについてもPrimeVideoで配信されていなかったら『女王陛下の007』を観ていなくて意図をちゃんと理解することができなくて微妙だったなあと思う。たぶんそういう観客のほうが多いでしょ。

 

 これまではボンドのために女性が死んできたのがこれからは女性のためにボンドが死ぬ、というのがこの映画における「脱構築」や「再構成」、そして「ポリコレ」要素のキモとなるわけだが、言わんとすることはわかるけれど同意できるかどうかは別の話。

 

 これからの男性ヒーローには、「有害な男らしさ」から脱却するのはもちろん、ボンドガールや敵の奥さんとのエッチや不倫といった「ご褒美」も我慢して、ただひたすら世界(女性)を守るために自分の命を賭すことが要求される、というのはずいぶんと酷な話であるとも思う。でもまあそれがヒーローというものかもしれないけれど。

 

 ベン・ウィショー演じるQに関しては完全なギャグキャラになってしまっていたけれど、彼が登場するシーンはどれも笑える。ボンドからのパワハラ描写は様式美になっているし、新旧どっちの007も使い方を知らない空飛ぶ潜水艦に搭乗させるくだりとか、クライマックスでボンドがQの忠告をガン無視しながら発電器を起動するくだりはギャグマンガ的な趣すらあるけれどやっぱりおもしろい。満を持して登場した飼い猫がかわいくなかったのだけが残念だ。

 

 ラミ・マレック演じるサフィンは予告や冒頭での存在感はすごいが、結局この映画の主眼はジェームズ・ボンドの再構成にあるため、ヴィランの連中はほぼ舞台装置にしかなっていない。むしろ、「ボンドが見え透いたお世辞やおべっかを使う」というギャグシーンが用意されているぶん、クリストフ・ヴァルツ演じるスペクターのほうが登場時間は短いけどずっと印象的であった。笑顔が気持ち悪いビリー・マッセンも、しつこい義眼野郎のダリ・ベンサラより印象的だったな。

 スペクターの勿体ぶった登場の仕方や幹部連中がバタバタと倒れていくシーン、サフィンの目的についてMに尋ねられたボンドが「どうせまた世界征服と”自由を無くす”とかそんなんでしょ」とうんざり気味に答えるシーンなど、ヴィラン関係についてはシュールギャグな部分ばっかりが目立っていたような気がする。そのギャグはどれもおもしろいのでアリといえばアリなんだけれど、『カジノ・ロワイヤル』や『スカイフォール』のときのようなヴィランの恐ろしさと存在感がすっかりなくなっているのは残念。

 また、メタ的でシュールなギャグの多さには、『スカイフォール』や『スペクター』にもあった「MCUっぽさ」をさらに強く感じてしまった。小粋なギャグを連続して間延びを防ぐ、というのが現代におけるエンタメアクション映画のスタンダードとなっているのだろう。たしかにずっとシリアスで重苦しいお話を進行させられるよりはずっといいんだけれど、緊張感が失われるのは否めない。

 

 ヴェスパーの墓を訪れたら爆発してそこから怒涛のカーチェイスが始まりマドレーヌとの別れに至る冒頭には一気に惹きこまれた。その一方で、中盤の森での戦闘や敵の基地に突入するクライマックスはアクションがどうにも映えないし、舞台や背景の印象も薄い(ハイテク畳の部屋はシュールでよかったけれど)。

 

 やっぱり、脱構築と再構成はクレイグボンドでやりきったんだから、次のボンドは、脚本やアクションやキャラクターのかけあいやストーリーのテンポなどなどは2020年以降のスタンダードにアップデートしながらも、ジェームズ・ボンドは毎回ボンドガールとエッチしたり敵の奥さんと不倫したりしてそれで3回に1回は相手の女性を死なせちゃうような、「いつもの007映画」をやるべきだろうなと思う。だって007映画から「有害な男らしさ」とかミソジニーとかを取り除いちゃったらもう他のヒーロー映画と差別化することができなくなってしまうもの。ほかの制作者たちが「価値観のアップデートされた作品」を量産しつづける現代であるからこそ、昔ながらの価値観に基づいた映画は価値をもつはずだ。

 

『キャッシュトラック』

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ガイ・リッチーの映画らしからぬハードなBGMや硬派なアクション、重苦しいドラマや雄々しいキャラクターが特徴的な作品だ。

 

主演のジェイソン・ステイサムはあまり好きな俳優でないのだけれど(そういう役ばっかり演じるから仕方がないとはいえ、どの映画のどの場面でもまったく同じような仏頂面をしている気がする)、脇役のホルト・マッキャラニーは『マインドハンター』のおかげでかなり好きな役者になったので、マッキャラニー目当てで鑑賞。いざ観てみるとステイサムはやっぱり仏頂面なんだけど、敵チームのリーダーを演じるジェフリー・ドノヴァンがよかった。

 

ストーリーとしてはガイ・リッチーらしい時系列いじりを駆使しながら、第一幕では謎の新米警備員ジェイソン・ステイサムのスゴ腕っぷりをアピールしつつ(ここにはちょっと「なろう」もの的な爽快感がある)、第二幕ではステイサムの正体と目的を開示して、第三幕で敵チームに焦点を当てて、第四幕でいよいよステイサムと敵チームが対峙する(ついでに気の毒な警備員たちが巻き込まれて死にまくる)、という構成だ。

序盤では「ステイサムの正体はなんなのだ?」という「謎」が示されて、それが中盤にもならないうちに明かされたと思ったらこんどは「敵チームの協力者はだれだ?」という新たな「謎」が示されることで興味が持続する、という構成はうまい。

息子の仇をとるつもりで関係のないチンピラを拷問したり人身売買組織をついでに壊滅してしまうステイサム・チームの暴れっぷりは「シリアスな笑い」的な面白さがある。「強盗に行く途中に酔っ払い運転に巻き込まれて事故に遭いました」という理由でボスの息子が死ぬ原因をつくった部下が処刑されていないというのも、リアルに考えたらそりゃ仕方がないんだからそうなるんだろうけれど、映画としては妙な緩さがあって、バイオレンスな展開がまた面白い。

敵チームの描写に関しても、短い範囲でリーダーの魅力や事情、「元軍人」であることを強調したプロフェッショナルっぷりをかっちり描いて、感情移入させられているのが巧みだろう。

 

とはいえ、第四幕の展開にはいろいろと物足りなさがある。最大の戦犯はスコット・イーストウッドが演じる敵チーム内のサイコ野郎で、こいつが裏切ってドノヴァンやマッキャラニーを殺してしまうことで、ステイサムによる復讐がかなりショボくなってしまうのだ。また、こんなサイコ野郎をチーム内に温存していた敵チームのリーダーの格も下がってしまう。見た目がまんま「サイコ野郎」というのも小物っぽさを醸し出している。息子を直接に殺した犯人を最後の最後で父親のステイサムが殺し返す、というのは様式美であるが、ここはズラしをくわえたほうがよかったと思う。

イーストウッドよりも、長年一緒に働いていた同僚を騙して容赦なく撃ち殺すマッキャラニーの悪役描写のほうが、よっぽど冷酷でプロフェッショナルで、魅力的だ。映画内のステイサムの主観としては息子を殺したイーストウッドのほうに対して因縁を感じているわけだけれど、映画を見ている観客としては、第一幕でずっとステイサムと一緒に行動していたマッキャラニーと対峙してくれるほうが因縁めいていて面白くなったはずである。

 

また、ステイサムの「ヤバさ」の描き方も中途半端で、金庫の襲撃戦の時点では敵チーム6人中2~3人しか倒していないのもどうかと思うし、一緒に行動していたマッキャラニーが「ヤバいやつがいるから襲撃はやめよう」とならずにふつうに計画を続行するのもかなりヘンだし矛盾しているように思える(だって第一幕の最後で「悪霊」とまで言ってるじゃん。この描写があるから、マッキャラニーは裏切り者ではないだろうと思ってしまった)。そして前述したようにドノヴァンやマッキャラニーが内輪もめでやられちゃうせいで、「ステイサムvs敵チーム」という構図が雲散霧消しちゃうのだ。

『パディントン』+『パディントン2』

 

 

 

映画好きのあいだでは非常に評判がいいシリーズであり(とくに「2」の評価が高いようだ)、わたしも以前から気になっていたのだが、なぜか「1」だけNeflixからもPrimeVideoからも消えていたので、わざわざHULUに加入して視聴した(まあ『刑事コロンボ』が観れるのもHULUに加入した理由のひとつだけれど)。

そしてようやく観たのだが……期待が大きかったぶん、かなりの期待外れであった。

 

このシリーズが好きになれるかどうかは子熊のパディントンのキャラそのものが好きになれるかどうかにかかっているのだろうけれど、わたしはどうしても好きになれない。渋いベン・ウィショーの声でお上品なイギリス英語を喋るわりに、中身は子どもなので後先考えずドタバタ動いで大ポカして人の家のものを破壊したり汚したりして人に迷惑をかけるのだけど、このくだりがわたしにはかなりキツかった(子ども向け作品では定番のシーンだと言えるけれど、わたしは子どものころからこの手のシーンに共感性羞恥を抱いて常にキツく感じ続けてきた)。可愛らしいシーンも多いのだけれど、ややリアルな「熊」に寄せ過ぎていてグロテスクに思えるところもある。

パディントンを受け入れる5人家族は、父母はともかく姉弟とおばあさんのキャラクターがとってつけたようなもので薄く、そしてキャラが薄いのに無理やりに活躍させられるので白けてしまう。映画の前半や冒頭で示された家族各人の得意技が後半でパディントンを救うきっかけとなる……というくだりは「1」でも「2」でも繰り返されるが、伏線回収というにはお粗末で子ども騙しに過ぎない(子ども向け映画なのだけれど)。父親を演じるヒュー・ボイルと母親を演じるサリー・ホーキンスはどちらも魅力的だと思うけれど。

 

ほぼすべての住民が子熊のパディントンがしゃべることを受け入れている世界観は「ドラえもん」的でアリかもしれないが、「1」のヴィランであるニコール・キッドマンパディントンを父親の仇兼希少動物扱いして狙うくだりとは不整合だし、世界観の緩さに関して「こういうファンタジックな作品だからいいでしょ?」と制作陣による観客に対する「甘え」も垣間見えてしまう。

また、特に「1」に関しては、ファンタジックで甘ったるい世界観でありながら勧善懲悪が徹底しており悪役はひどい目に遭う、というのも居心地が悪い。「2」に関しては、刑務所に投獄されたヴィランヒュー・グラントがノリノリで刑務所生活を満喫する姿がエンドロールで流されるという『ONEPIECE』の扉絵連載的な救済が描かれるからまだマシになっているが、それにしても、部下を従えているわけでもない孤独な悪役が「家族」にやっつけられる姿が露骨に描かれるのはイヤなものだ(こういうのもわたしは子どものころからイヤだった)。

なお、「2」に関しては、パディントンが街の人々と仲良くなっている様子や窓ふきによって街の人々を幸せにする様子、刑務所の囚人たちに認められて彼らと仲良くなりクライマックスで囚人たちがパディントンを助けに来てくれる流れなどが「映画好き」のツボを押さえていることを認めざるを得ず、それが高評価につながっていることも理解できる。……とはいえ、なーんか戯画的というか作り物感がすごいというか、「こういうのでいいんでしょこういうので」と制作陣にナメられている気がして、わたしはちょっとムカついた。ウェス・アンダーソンって大嫌いな作品なんだけど、『パディントン』ってウェス・アンダーソン風味がけっこう漂っていると思う。

 

「1」に関して動物倫理的なテーマが触れられそうになって「おっ」と思ったけれどけっきょく表層的なものに留まってガッカリ(動物愛護発祥の地であるイギリスの作品だというのに、アメリカのクマ映画である『TED2』に動物倫理描写で負けるのはどうかと思う)。それよりもむしろ、パディントンが「移民」であることが裏テーマとなっているようだ。たしかにその点にはわたしは気付くことができず、「移民あるある」や移民をめぐるなんらかの葛藤なりテーマなりが描かれていたのに見逃してしまった恐れは否定できない。……とはいえ、たぶんもう見返すことはないだろう。