THE★映画日記

映画(たまに漫画や文学)の感想と批評、映画を取り巻く風潮についての雑感など。

『エターナルズ』:多様性と人間中心主義

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 マーベル映画の「ポリコレ性」についてはこのブログでも何度か論じてきたが、基本的に、『ブラックパンサー』や『シャン・チー』のように「主流派の文化やアイデンティティとは異なる文化やアイデンティティが秘めている魅力やパワー」を強調した、ポジティブで前向きな描かれ方をしている作品については評価している一方で、『キャプテン・マーベル』や『ファルコン&ウインター・ソルジャー』のように「マイノリティがマジョリティから受ける被害や抑圧」を強調したネガティブな描かれ方をしているものには低評価を下している。映画では「被害」や「抑圧」を描くべきでない、なんてことを言うつもりはないが、「強さ」と「社会奉仕」が不可欠である「ヒーローもの」というジャンルとはあまりに相性が悪くて、ちぐはぐで歪な作品になってしまうのだ。

 この点、『エターナルズ』の「ポリコレ性」はポジティブなものであり、そこに関しては好評価を与えられる。また、人間より上位の存在な「神の使い」たちであり「作られた存在」でもあるエターナルズたちのなかに含まれている多様性の描き方は、白人社会と横並びで対比されるワカンダやター・ロー村の人々に関する描写とはだいぶ性質が違っていて、新鮮なものである。

 ……細かく言えば、エターナルズの全員が「人間」の姿をしている必要はなかったはずだし、動物系とか植物系とか不定形がいてもいいものだろう。キリスト教的・古代ギリシア的な意味での「神の似姿」であるとしても、異性愛とか同性愛とか以前にそもそも生殖もできない存在に「性愛」に関する感情が設定されている理由も不明であるし、聴覚障碍者も普通のヒーローチームならともかく「神の似姿」であるエターナルズに含まれていることには説明が必要とされるはずである。通常の人間なら障碍者であることに「意図」や「理由」は求められないが、そもそも人工的な存在であるエターナルズの場合には、(エターナルズの第一義的な存在理由である「戦闘」において不利になりかねない)障碍者であることには「意図」が働いていて、「理由」があるはずだからだ(これは「子ども」に関しても同じ。まあ本人が「なんでアリシェムはわたしを子どもの姿にしたの?」と嘆いている台詞があったので、次作以降で理由が説明されるかもしないけれど)。……このあたりには、「チームものの群像劇でありいっぺんに大量のヒーローを新登場させられる『エターナルズ』だから、これまでに登場させられなかった同性愛者や障碍者も登場させよう」というMCUフランチャイズにおけるメタ的な意図と、単品作品それ自体の設定との調整が取れておらずに矛盾が生じる結果となったように思える。

 

 とはいえ、設定面の矛盾や疑問点を無視すれば、文字通りに色々な肌をしておりそれぞれに異なった文化的背景を持っている個性豊かなメンバーが活躍する姿は見ていて楽しいし、「多様性」というのはそれ自体が魅力でありポジティブな気持を与えてくれるものであるということを思い出させてくれる(……とはいえ、たとえばインド系っぽい肌の色や顔立ちをしたエターナルズが「おれはこういう色や顔立ちをしているからインドに溶け込んでインド人らしいアイデンティティで生きていこう」と判断したようである、というのが、先天的な属性と所属グループの「文化」と生き方が分かちがたく結びつけさせられている点で実にアメリカ的なものであることには留意したい。人間とは異なる存在であるエターナルズだからこそ、肌の色や性別のような属性に縛られることなくみんな自由に活き活きと好きな場所で好きなことをして生きている、という描き方もありえたはずだ)。

 

 また、敵役であるディヴィアンツはエターナルズと同じく「神」であるアリシェムに血生臭い殺し合いを強制させられた、エターナルズと表裏一体な哀れな存在であることが示されており、エターナルズを何人か吸収することで知性と「良心」が目覚めたことも作中で明言されるのに、とくに救いが与えられることもなくセナ(アンジェリーナ・ジョリー)によるギルガメシュ(マ・ドンソク)を殺されたことへの復讐の対象となってやっつけられて終わり、というのはプロット上の明確な欠点であるだろう。途中からイカリス(リチャード・マッデン)が裏切って敵に回り、クライマックスもイカリスとほかのメンバーが激闘しているところでこっそり海からあらわれて戦いに割って入ったはいいもののショボい洞窟にセナと二人で移動してショボい策を弄したところショボい技でやられて……と、いかにも「添え物」な終わり方をして締まりがない。「愛は地球を救う」的な終わり方であり、イカリスもセルシ(ジェンマ・チャン)の愛によって許されるというエンディングであったからこそ、セナによる復讐は肯定されるというのはちぐはぐだし、「その愛の輪のなかにディヴィアンツを入れてやろよ」と思ってしまう。エターナルズが「神の似姿」であることも含めて、この作品には徹底した「人間中心主義」が存在していることを見逃してはならない。

 関連して、セナはせっかくアンジェリーナ・ジョリーというほかの俳優陣よりもずっと「格上」な女優を使用しているのに、戦闘特化のキャラなのに持病ですぐに我を忘れるから戦場では仲間にとってむしろリスク要因となって使い物にならず、ついでに言えば純粋な戦闘力もイカリスにくらべてかなり劣っているように見える、性格面でも復讐に駆られる直情的な戦闘狂という典型的バトル漫画キャラでそのくせ大して強くないものだから魅力ナシ、と実にもったいない。そこら辺の量産型の気が強そうな若手白人女優でも演じられそうなキャラであり、アンジェリーナ・ジョリーの熟した魅力が発揮できる役柄ではないのだ。

 

 ……とはいえ、「愛は地球を救う」という古臭いクライマックスは今時なかなか見かけないものであるために、逆に新鮮で感動してしまった。MCUの「ポリコレ性」も「性愛中心主義」に対する批判にまでは届いていないということだが、面白い物語をつくるためにはそれでいいと思う。

 作品の公開前から監督のクロエ・ジャオが『幽遊白書』のファンであるということが話題になっていたが、そうでなくても、全体的に「マンガ感」の強い作品だ。霊丸やかめはめ波を思い出させるキンゴ(クメイル・ナンジアニ)の戦闘描写やドラゴンボールのセルのように敵を吸収するたびに変化して強くなるディヴィアンツの設定はもちろんのこと、自分に自信がなくて秘めたるポテンシャルを自覚できていない主人公のセルシのキャラクター性や、チーム内にカップルが何組かいたり三角関係にもなっちゃったりする恋愛描写の多さなども、なんだか「ひと昔前のバトル漫画」っぽい。また、クライマックスは思いっきりエヴァンゲリオンだ。ついでに言うと、エターナルズとアリシェムとの関係性は最近の『キン肉マン』における超人と超神の関係性にそっくりである。

 同じ監督の『ザ・ライダー』や『ノマドランド』が地味で退屈であったために期待していなかったが、バトルシーンのアクションは派手であるうえに各キャラクターの能力がきっちりと機能した目まぐるしい集団戦を描き切れているし、なにより、セレスティアルズたちのスケール感を活かした映像表現が素晴らしい。『デューン』じゃなくてこちらをIMAXで見ればよかった、と激しく後悔してしまったくらいである。

 現代パートの序盤はセルシにスプライト(リア・マクヒュー)にイカリスにと湿っぽくまじめ腐ったメンバーばかりのためにやや退屈になってしまうが、キンゴとその付き人(ハーリッシュ・パテル)が登場してからはコメディ描写も増えていって、一気に楽しくなる。魅力的なギルガメシュがあっという間にやられてしまうのはもったいないし、「悪堕ち」をにおわせていたドルイグ(バリー・コ―ガン)がかなりあっさり仲間になってしまうのもどうかと思うけれど、科学者キャラのファストス(ブライアン・タイリー・ヘンリー)は個性が強くてよい。「地球の一般人代表」としてエターナルズと一緒に行動するのが、ほかの映画なら若い女性となりがちなところを、インド人のおじさんである、というところも気が利いていて楽しい。また、最終決戦の前にキンゴが離脱して、「いいタイミングで助太刀にくるんだろうな」と思っていたらほんとに最終決戦には参加しないままで、すべてが終わった後にとくに気まずそうにすることもなくふつうに仲間と再会して会話している、というのもかなり珍妙な展開であるが、まあ「多様性」をウリにしているエターナルズなのだから決戦に怖じ気ついて参加しないやつがいてもいいかなと思う。

 

 二時間以上の長さのためにダレるところは多いが、キメるべきところはきっちりとキマっているし、「群像劇」という形式がゆえにこれまでのMCU作品とは明確に違った味を出せている(同じく群像劇の『ガーディアンズ・オブ・ザ・ギャラクシー』とはシリアス/コメディとで差別化できているし)。「マンガの実写化」という観点から見ても、キャラクターの設定からバトル描写まで、MCU作品の平均値よりもクオリティはだいぶ高いだろう。一緒に観た人との会話はかなり盛り上がったし、反芻できるポイントも多くて、なかなかおススメできる作品だ。

 ……しかし最後に文句を言うと、人間の文化や文明の進歩もエターナルズのおかげでした、というのは人間の知恵や学問の発展の歴史や自由意志をナメられているような気がして、どうにも気が食わない。エンディングクレジットで世界各国の神話や宗教に関するモチーフが描かれて、「これらの神話や宗教もぜんぶエターナルズ由来でした」と匂わされるところも、監督が白人だったら批判されたり炎上させられたりしていた可能性があると思う。

 

『ザ・ベビーシッター』&『ザ・ベビーシッター ~キラークイーン』

 

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ザ・ベビーシッター』のほうは、たしか2017年くらいに「エッチなシーンあるかなあ」と思って序盤に早送りしたけれどエッチなシーンはなさそうだったから見るのやめた。今回はハロウィンということで、『~キラークイーン』とあわせてちゃんと鑑賞した。

 

 一作目に関しては、お気楽なホラー・スプラッター版『ホーム・アローン』という感じで、まあくだらない。映画好きなオタク少年(コール・ジョンソン)がイケイケの女子高生だか女子大生だかのビー(サマラ・ウィーヴィング)に憧れていて、意外なことに彼女も映画好きだったので打ち解けて性的な面以外のところで絆ができて、でもビーは悪魔崇拝かなんかのカルト教団の一員で主人公は殺されそうになるんだけれどなんやかんやあって窮地を脱してやり返して、死ぬ間際にビーとの「絆」を思い出してしんみりする……というところがポイント。

 処女ではなく「童貞」が無垢の血を狙われる展開とか、ホラー映画では真っ先に死ぬタイプのイケイケ女子がボス敵になるところとか、なにより「年上のお姉さんに対する性的な憧れ」が無化される構成とか、ところどころに批評性は感じなくもない。でもまあ、昨今のホラー映画では批評性なんて標準装備だから大した評価点にはならない。

 ビーのキャラクターはあまり気に食わないのだけれど、脇役の描かれ方はおもしろい。ノリが良くて人も良さそうなアフリカ系のジョン(アンドリュー・バチェラー)はホラー映画にあるまじき恐怖のなさだけれどそれが個性となっている。そして、ムキムキの体育会系であり、主人公の少年を殺そうとするのと同時に「男らしさ」を身に付けて成長することを応援するマックス(ロビー・アメル )は、はっきりいってビーより遥かに個性的で魅力的だ。

 しかし、せっかく脇役が魅力的であり、そして『ホーム・アローン』的な設定であるのに、ソーニャ(ハナ・メイ・リー)をのぞけば敵役たちの「撃退」の仕方にはまったく工夫がない。逃げ惑ったりもがいたりしているうちに相手の方が事故によって勝手に死ぬ、なんてなにもおもしろくないでしょう。エンディングで少年が両親に「もうベビーシッターはいらないよ」と言って「成長」を示すことが作品のポイントであるのだから、もっと意識的に困難に立ち向かわせて逆境を打破する展開にすべきであった。

 

 二作目は『 ~キラークイーン』は前作に多少存在した魅力も打ち消されて、さらに台無しな作品となっている。なんといっても、可愛らしい清純派のメラニー(エミリー・アリン・リンド)が悪役にさせられて、ポット出の量産型サブカル女のフィービー(ジェナ・オルテガ)が代わりにヒロインとなっているところが最悪。ホラー映画にありがちな「清純派が正義でビッチが悪」という構図を逆手に取って批評性を示したつもりだろうが、何度も言うように、昨今のホラー映画ではそのタイプの浅薄で取って付けたようなフェミニズム的批評性は標準装備となっているので、当たり前のものとなっているのだ。

 それにあわせてビーが「いいやつ」にされることにより、前作で彼女が罪のない人間を何人か殺していたことも不問にされて、倫理観もあやふやで筋が通っていない作品になっている。主人公とヒロインがセックスすることが事態を解決するきっかけとなるのも、「セックスしたら死」というホラー映画のお約束を逆手に取っているつもりなんだろうけれど、その程度の工夫なんていまどきのホラー映画なら……(以下略。

 キャンプ地という開放的な舞台にしたがゆえに『ホーム・アローン』的な舞台設定の妙も失われてしまい、また、複数の男キャラが巻き込まれて無惨に死んでいるのにそれについて作中で問題視されないというのも居心地が悪い。いちおうブサイクな女キャラをひとり出して殺しているところは評価できるけれど、基本的には、「女性キャラは慎重に扱わなければ批判されるけれど、男はいくら殺しても文句言われない」という21世紀版のアップデートされた「お約束」に甘え切った作品であると思う。むしろ、その「お約束」に切り込まなければ、真に批評性のあるホラー映画は作れないはずだ。

 

『LEGO ムービー』+『レゴバットマン ザ・ムービー』

●『LEGO ムービー』

 

 

 2014年の大晦日にDVDを借りてみて以来なので、およそ7年ぶりの鑑賞。内容はもうきれいさっぱり忘れていて、『フリーガイ』と冒頭がほとんど同じであること(オマージュだよね?)やテーマが似通っていることはおろか、クライマックスで実写になることすら失念していた。

 公開当時から映画好きから大絶賛されるタイプの作品だけれど、わたし的には『フリーガイ』は生涯ベストになりえる作品に比べて、『LEGO ムービー』はそこそこ。所詮は子供向け映画であるからアクションシーンやキャラクター描写は書き割り的だし、レゴであることを活かしたギャグや画面の工夫もまあ「うまいことやっているね」と感心はするけれど感動するほどではない。おもちゃ(ゲーム)の世界とそれで遊ぶプレイヤーの世界との二重構造を描きながら「普通の人」が「出口」を見つけて「主役」となる有り様を描く、という(胎界主的な)展開も、『LEGO ムービー』だと「子供の自由な想像力」や「大人と子供の対比」といった感動できてはあるがありきたりなところに回収されるので、フリーガイに存在していたようなダイナミズムが感じられないのだ。

 

●『レゴバットマン ザ・ムービー』

 

 

 こちらも映画好き大絶賛だがわたし的にはそこそこ止まりな作品だ(とはいえ、『LEGO ムービー』よりかは『レゴバットマン ザ・ムービー』の方が高評価)。

 孤独で偏屈に生きてきたバットマンが自分の弱さを認めながらも「家族」を作るという展開は、たとえば自律と依存の対比みたいなケア倫理的な見方もできるかもしれないし、それなりに良いテーマであるだろう。ジョーカーとのライバル関係を露骨に同性愛的な「恋愛」になぞらえながら話の主軸にするところも、「ジョーカーとの宿命」というバットマン作品としての定番なトピックをギャグに昇華しつつも描き切っているし、実写版映画では違和感がありすぎて無理でアニメ映画(レゴだけど)じゃないとできない描き方なので、まあ賢いし批評性もあると思う。

 クリストファー・ノーランザック・スナイダーのせいでとにかく重苦しい映画にしか出演させてもらえず、MCU的なギャグや他ヒーローとの活き活きした掛け合いもさせてもらえなくて常に神妙な面を強制されていたバットマンが、のびのびとギャグを言ったり下品な言動をさせてもらえていたりするところには新鮮味がある。過去のバットマン映画のシーンをレゴで再現した挙句に1960年代の実写映像を持ってくるギャグは面白い。

 クライマックスにおける、崩壊しかけのゴッサムシティをレゴならではのギミックで復元する演出は劇場で見た当時にはいい意味でバカバカしくて笑ってしまったし、数年後まで覚えていられるくらいには印象的だ。 

 とはいえ、ちょっとメタ要素が多過ぎるということもあり、このストーリーにのめり込んで感動するというわけにはいかない。いくら世界観が違うとはいえ、実写だと人を殺しまくっている悪人連中と共闘されたところでアツさや感動はないものだし、わたしはハリーポッターロードオブザリングも観ていないからゲスト出演したヴィランたちにもテンションがあがらない(エージェント・スミスキングコングくらいならわかるけれどあんまり活躍しないし)。DC映画もけっこう作られてヒーローたちへの共感や親近感が抱けるようになった後では、バットマン以外のDCヒーローたちの小物っぷりや扱いの悪さも気になってしまうところだ。

 あとロビンが声の高さも顔もやたらとキモくて(半ズボンを見せつけてくるところとかマジでキモい)、こいつの存在だけで評価がひとつ下がる。バットガールとの恋愛描写も、バットマンならもうちょっとクールに恋愛するものじゃないの?と思ってしまう。

 

 しかしまあ、この二作では、所詮はレゴは子供のおもちゃであり、レゴで作った映画も多かれ少なかれて子どもだましなものとなる、ということが悪い意味で示されているだろう。

『モーリタニアン:黒塗りの記憶』

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 上映規模は小さいし、主役はベネディクト・カンバーバッチでもジュディ・フォスターでもなくてよく知らんアラブ系の俳優だし、カンバーバッチのでてくる政治サスペンスってこのあいだ『クーリエ:最高機密の運び屋』で観たばっかりだし、そもそも「いまさらグアンタナモ収容所?」って感じだしで期待せずに観にいったのだけれど……これが、かなり面白かった。

 役柄的には、弁護士と検事というそれぞれの立場から「法の正義」を追求するジョディ・フォスターとカンバーバッチのほうが、タハール・ラヒム演じる主人公のモハメドゥ・サラヒよりも印象に残る。物語のドラマチックさやおもしろさの観点からすれば、モハメドゥは準主人公にしてジョディ・フォスター演じる女弁護士を主人公にするほうがいいかもしれない。とはいえ、弁護士や検事はあくまで脇にまわして、監禁されて苦難を経験していた当事者であるモハメドゥを主人公にすることは、この映画のメッセージ性をふまえると不可欠ではあるだろう。まずはモハメドゥをはじめとする収容者がグアンタナモ収容所で受けた違法で非人道的な仕打ちを克明に描写して伝えることが、この作品の第一の意義であるからだ。

 とはいえ、依頼人が有罪であるか無罪であるかに関係なく依頼人の権利を守ることが弁護士の使命であり、容疑者を告発するための証拠に問題があったり不当な尋問が行われていたりすれば告発を取り下げる義務が検察官にはあるという、「法の精神」や「デュー・プロセス」がこの映画の第二のテーマとなっており、物語面でのおもしろさはやはりこちらにある。とくにカンバーバッチはアメリカ軍の利益を代表して悪どく容疑者を死刑に追い込もうとする検事であると思っていたばかりに、彼の苦悩が描かれるだけでなく告発を取り下げるにまで至るとは予想できずに、新鮮な驚きがあった。ジュディ・フォスターも老獪な弁護士としてのプロフェッショナリズムをガッツリと感じさせる役柄であり、経験の足りない「甘ちゃん」な弁護士であるシェイリーン・ウッドリー演じるテリーとの対比も活きていて、意外と出番が少ないながらも魅力的であった

ブリッジ・オブ・スパイ』でもなんでもそうだけれど、欧米の映画って「正義感とプロフェッショナリズムを両立させた弁護士(法曹)」を描くのが実に得意であるし、現代におけるヒーロー像を最もうまく象徴させられるのはカウボーイでも刑事でも軍人でもなくて弁護士であると思う。

 そして、モハメドゥは言うまでもなくイスラム教徒であり、冒頭のモーリタニアにおけるダンスやお祭りのシーンに収容所でのお祈りシーンやコーランなどの「イスラム的」な要素を様々に描きながら、カンバーバッチ演じる検事の「キリスト教精神」も描くことで、ほとんど接点のない二人の登場人物の共通性を示すだけでなく、キリスト教圏の観客に「同じ神」を信じるもハメドゥに感情移入させやすくする…といった構成もかなり上手なものだ。

 また、比較文化論的なことはあまり言いたくないんだけれど、法の精神やデュープロセスを守る意志って理性だけじゃ難しくてキリスト教的(宗教的)な使命感やモラルも必要であるかもしれない…とも思わされた。

 昨今のインターネットでも「悪い人間」と目された相手に対するネットリンチや誹謗中傷は耐えない。『モーリタニアン』を観ている間は、終始、Twitterにおける諸々の揉め事を思い出してしまった。デュープロセスの必要性を「頭」ではなく「心」で感じさせてくれるという点で、貴重な作品である。

 

 ところで、グアンタナモ収容所で何が行われていたかっていうことは諸々の本で読んでそりゃ知っていたけれど、映像にして改めて示されると、マジでえげつないしひどいし非人道的である。それだけでなく、「どう考えでもこんな拷問で得られる証言って無意味だし、いちど拷問をはじめちゃうとサンクコスト効果とかも影響してどんどん過激になって引き際を判断できなくなるに決まっているし、無意味であることはやる前からわかるっしょ」と思わされてしまう。無意味な拷問ってほんとひどいし、功利主義的な小理屈を並べ立てたところで拷問が正当化できるわけがないことがしみじみとわかった。

 無罪になったのに数年も拘束を続けて親の死に目にもあわせないという嫌がらせも、明らかに国とか軍隊とかの「メンツ」の問題でそうやっっているとしか思えなくて最悪。ナショナリズムという名の部族主義の恐ろしさも、「軍隊」という組織が本質的に抱える暴力性や非道性も伝わってくる。軍隊を「警察」に置き換えれば、「グアンタナモ収容所事件のお話だからもう過去のことだ」ともならずに、昨今のBLMにもつながるアクチュアルさをもつ映画として観ることもできるだろう。

 そして、デュープロセスをテーマとしている映画であるだけに、「結局のところモハメドゥはテロ事件に関わっていたの?」という点には意図的に答えを出さずに、最後に役者ではないモハメドゥ本人の映像を出すというのはなかなか大胆だが見事なものだ。実際に有罪であるか無罪であるかはもはや問題ではなく、「国家」や「法」のプロセスが適切に機能していたかどうか、ということのほうが重要なのである。

『デューン:砂の惑星』:工夫ゼロのイマジネーション皆無

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 デビッド・リンチ版は学生時代に視聴したけれど、12年以上前なの全く内容は覚えていない。しかし、とにかくつまらなかったことだけはしっかり記憶していた。

 

 それで今作もあきらかにつまらなさそうだし、ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督は『ボーダーライン』や『メッセージ』はよかったけれど『ブレードランナー2049』は退屈だったし、ティモシー・シャラメは「しゃらくさいイケメン」を体現したような存在でぜんぜん好きじゃないし、「観なくてもいいかな」と思わせる要素が事前から目白押し。なにより、実際に観た観客たちがことごとく「退屈だった」「寝た」と証言していた。

 ……しかし、「ストーリーは退屈でも映像はすごい」ということも、みんな口を揃えて言う。ほかのIMAX対応映画と比べてもIMAXへの特化がすごいらしく、なにかよくわからないけれど、とにかく映像はすごいので映画館でIMAXでぜったいに観るべきだという評判に充ち満ちていた。そのため、映画としての面白さはもうハナから諦めて、「すごい映像とやらを体験してみようじゃないか」というだけの動機で、池袋のGTレーザーIMAX(どこがどうすごいかわからないけれど、ふつうのIMAXよりさらにすごいらしい)を初めて体験することも兼ねて、不安と期待が半々の状態で鑑賞した次第である。

 

 で、その結果はというと……映像すらすごくなかった。だって基本的に画面が暗いし、無機質な近未来空間かだだっ広い砂漠のどちらかがほとんどで飽きちゃうし、眼を惹かれるようなポイントがほとんどない。宇宙空間の表現も、同じくIMAXに特化したSF映画である『インターステラ―』のほうがずっとよかったと思う。また、ある種の「地獄めぐり」を映画板『インターステラ―』や『1917』では舞台や背景が画面によってガラリと変わることがポイントであり、水だけの星の次には氷の世界に行ったり、炎が煌めく闇夜の世界のあとにはお花畑が描かれたりするというバリエーションや「落差」によって映像の印象や鮮烈さを増してくれていたが、『デューン』はせっかくのスペースオペラだというのにそういう工夫が全くない。ひたすら、つまんない無機質な建物と同じような砂漠が続くだけ。ついでに言うとGTレーザーがふつうのIMAXとどう違うかもわからなかった。スクリーンの大きさが違ったのかな?

 

 最大のSF要素である「砂虫」ですら、ぜんぜん印象に残らない。砂虫は何度か登場するのだけれど、登場のパターンや描かれ方などが毎回ほとんど一緒なのだ。ぽっかり開いた口に細長い歯がいっぱいあるというヴィジュアルもまったく面白くなければ、ドデカいIMAXのスクリーンを使って巨大な存在感を描くための工夫もほとんどなされていない。口を開けて人間とか車とかを飲み込む描写ばかりじゃなく、直立したりとかスピーディーにうねったりとか、そういうことしてほしかった。

 よく指摘されることだけれど、ヴィルヌーヴ監督にはおもしろいSFやファンタジーをつくるためのイマジネーションが致命的に不足している。砂虫だけじゃなく、途中でちらっと登場する耳のでかいファンタジー鼠もまじでアニメやマンガやゲームで500回くらい目にしたことのあるようなファンタジー鼠そのまんまの造形で、あまりの工夫とセンスのなさに呆れてしまった。

 砂虫や鼠以上にひどいのが、敵の悪い軍隊のひとたち。アメリカのSF映画とかアメコミ映画って、なんで敵キャラや「悪の軍勢」をハゲとして描きたがるんだろう?とくに『デューン』のハゲ軍団は、「目が黒く濁っています」というポイントも含めて、既視感の塊でうんざりしてしまった。もしかしたら原作小説の時点でハゲていたり、ハゲていることに理由があったりしているかもしれないけれど、すこしでも独創性と羞恥心を持っている監督であれば、ここまでテンプレートなハゲ軍団を描くくらいなら原作を改変するものだと思う。

 

 ストーリーも、予想通り退屈。「貴種流離譚は物語の王道だ」とはよく言うけれど、貴種流離譚って工夫なしにストレートに描かれるとまったく主人公に共感できないうえに展開も予想できてしまうのでつまらない、ということを改めて認識することができた。思えばアメコミ映画でも貴種流離譚っぽいストーリーは繰り返されているわけだけれど、アメコミ映画では主人公に感情移入させる工夫をしたうえでプロットにひねりをいれて、さらにアクションや予想外の展開や諸々のコメディ・ギャグをたっぷり入れたりすることで観客を飽きさせないようにしてくれていたのだ。で、言うまでもなく、『デューン』ではそれらの工夫は一ミリもなされていない。

 ちょっと反省したのは、もしかして、「自分はMCU的なコメディやキャラ萌えがなければSF映画やファンタジー映画を観れなくなっているのではないか?」ということ。……とはいえ、考えてみれば、MCUが展開される前から『ロード・オブ・ザ・リング』的な重厚長大で重苦しいファンタジー作品は苦手だった。なんならRPGなどのゲームですらファンタジースペースオペラ世界が舞台になると大体の場合はストーリーに没頭できなくなる。自分とは縁のゆかりもない世界で、自分とは縁もゆかりもない人々が、自分とは縁もゆかりもない物事(王家の争いとか、世界の危機とか)について悩んでいるのに感情移入しろというのが無茶な話だ。だからハイファンタジースペースオペラを楽しめる人ってすごいなと思う。

 

 ティモシー・シャラメの顔面はなんどもドアップになるし、肌のホクロとかシミとかも目立っちゃうんだけれど、さすがにイケメンなので見苦しくなることはない。それはそれとして、彼が演じる主人公は感情移入できないということを除いてもキャラクターとしてつまらない。予知能力と超能力とかはぜんぶご都合主義的で萎えるし、うだうだ悩んでいるのもうっとうしい。ヒロインのデンゼイヤは本編に登場するのは終盤である代わりに主人公の予知シーンでなんども出てくるんだけれど、終始ドヤ顔しているかしかめっ面しているかのどちらかで、魅力がぜんぜん感じられなかった(とはいえ、この映画の登場人物の大半は常にしかめっ面なんだけれど)。

 オスカー・アイザックは好きな俳優なんだけれど役柄がつまらないし(面白い役柄なんてこの映画には存在しない)、ひげもじゃにされ過ぎていてせっかくのイケメンなマスクもあまり楽しめなかった。レベッカ・ファーガソンはおばちゃんだなあという感じ。ジェイソン・モモアが演じるキャラクターは唯一魅力的だったけれど、でもまあテンプレ的な「王子と仲の良いスゴ腕兵士」キャラであるなと思う。ジョシュ・ブローリン演じる兵団長も同じくテンプレ的(モヒカンになっていたからブローリンだとは気付けなかった)。

「『スター・ウォーズ』も『風の谷のナウシカ』も『デューン』の原作小説に影響を受けているのだから、テンプレを模倣しているのではなく、『デューン』がテンプレを作り出したのだ」みたいな言い分はあるかもしれないけれど、でも、2021年に上映して人様の貴重な時間(予告を入れたらほぼ3時間)とお金をいただくのだから(IMAXだから一人当たり2600円もしたんだぞ)、現代の観客が見て楽しめるくらいにキャラクターの描写を濃くしたりアップデートしたりしてほしいものだと思う。他の名作が映像化されたりリメイクされたりするときには、それくらいの工夫はなされているものだろう。あとわたしは『風の谷のナウシカ』もつまらないと思う。まだ『デューン』のほうがマシ。

 さらに言うと、3時間近くも付き合わされたというのに、固有名詞すらまったく印象に残らない。主人公の異名だか呼び名だかはもちろんのこと、主人公の国の名前も敵の国の名前も砂漠にすんでいる人たちの民族名もまったく覚えていない。劇場を出た後に覚えていた単語は「スパイス」と「サンドワーム」だけだった。

『最後の決闘裁判』:価値観を"揺さぶる"のではなく、価値観を"確認する"作品

 

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 まず書いておくと、この映画を観たのは公開の翌週の日曜日だ。そして、たった一週間とはいえ、(完成度の高い名作であり、人が言及したがる内容のために)Twitterで様々な感想が目に入ってしまい、明確なネタバレはなかったけれど「どういう作品であるか」ということの見当が付いている状態で観に行ってしまった。そのため、第一章の時点から、先の展開に予測が付いてしまう。2021年に、『羅生門』(藪の中)的な構造にしておきながら、フェミニズム的なテーマがメインであり、劇中で性暴力が起こる作品で……となると、そりゃこういう風に作るしかないでしょう。

 だから、前情報がなかったとしても、わたしくらいに映画の鑑賞経験と昨今のトレンド・風潮に対する知識が豊富な人間であれば、第一章の終盤かおそくとも第二章の後半にはどういうテーマの作品であってどういう展開やクライマックスになるか察しが付けられたようにも思える。「騎士道物語かと思いきや#MeTooの物語でした」という驚きやトリックが作品のキモであるのだが、やっぱり勘の良い観客ならわかってしまうんじゃないかなあ。

 

 ジャン・ド・カルージュ(マット・デイモン)、ジャック・ル・グリ(アダム・ドライバー)、マルグリット(ジョディ・カマー)、それぞれの視点から描かれる「真実」や、同じ場面でも語り手によって描かれ方はまったく違うという仕掛けはおもしろい。  

 自分が誉れ高い騎士だと思っているカルージュがル・グリの視点では厄介で世話が焼ける思い込みの激しい頑固者、というところは笑える。

 また、いちどル・グリの視点で強姦シーンを描いておきながら、マルグリットの視点では同じ場面で悲鳴や泣き叫ぶ姿が描かれることで、「性暴力」の恐ろしさを強調したり性加害者の「認知の歪み」を示す、という構造は優れている。……とはいえ、これも、ル・グリの視点による強姦シーンの時点で「マルグリットの視点だとぜんぜん違って描かれるんだろうな~」と予想がついてしまうんだけれど。

 作品の中核にあるフェミニズム的なテーマに関する描写ほど予想が付きやすい、というのはこの作品の根本的な問題であると思う。後半になるにつれて、フェミニズム批評で百点満点が与えられる描写や仕掛けをそのままやっているだけという感じが強まり、「お手本」みたいになっていくのだ。

 そのため、フェミニズムや性に関してアップデートされた知識を持つ観客ほど、『最後の決闘裁判』を観て自分の価値観が揺さぶられたり、新しい価値観や「他者」に触れたりするということはなくなってしまう。百点満点のお手本であるこの作品でおこなわれているのは、中世フランスを舞台としておきながらも、21世紀(の主にアメリカ)の価値観の「再確認」だ。そのため、脚本のクオリティが高く、俳優も美術も豪華で金がかかっており、そして「性暴力」や「女性のモノ化」というテーマ自体は見事に表現できている作品でありながらも、わたしは劇場で観ていてちょっとシラケてしまった。どこが優れていたり各シーンにどういう描写があるかは頭ではわかるし、それを考察するのはおもしろいんだけれど、心ではなく頭にしか響かない作品になってしまっていたのだ。

 

中世フランスに現代の#MeTooを再現したこの作品では、『羅生門』(藪の中)でありながらもマルグリットの真実だけはテロップが表示される際にaccording toが抜けて「真実」が残り、カルージュやル・グリのそれとは違う「ほんものの真実」として特権的な地位が与えられる。……でも、意図は充分に理解できるけれど、これは明確にやっちゃいけないことだとわたしは思う。

 まず、フィクションの作り手には、テロップに仕掛けを施すという小細工じゃなくて本編の描写によって真実の「ほんものらしさ」を表現してやるぜ、という意気込みや矜持を持ってほしいものだ。しかも、『最後の決闘裁判』では、マルグリットの視点による第三章にはちゃんと「ほんものらしさ」が表現できているのだ。ル・グリの視点とマルグリットの視点それぞれによる強姦シーンを観たうえで、「どちらの真実がよりほんものであるかは藪の中だからわからないぜ」と言うやつは、よっぽどのアホであるかミソジニストであるかその両方であるだろう。だから小細工なんて必要なかったのだ。

 その一方で、現実の社会における#MeToo運動では、「告発」を無条件に「真実」とすることに伴う弊害や手続き面での正当性を無視したキャンセル・カルチャーの問題なども指摘されているところだ。そして、終盤におけるマルグリットの立場や周囲の人々による彼女に対する言動は、明らかに現代の#MeTooを連想させるような描写となっている。だからこそ、前時代的で歪なものでありながらも、いちおうは「裁判」を描いているこの作品で、テロップによってひとつの立場からの真実に特権性を与えて、ほかの立場からの真実については考慮しなくてもいいと暗示するというのは、かなり危うい。どれだけクソに思える人間であってもそいつの言い分は聞かなくてはいけないというのが現代の現実における手続き的正義であるし、そもそも女性が「モノ」であるために彼女たちの言い分が考慮されなかった時代の不当さに対するアンチテーゼであったとしても、本編における描写ではなくテロップでそれを表現するというのは行き過ぎだ。

 

……上述したような理由から、わたしはこの作品を「名作」とは評価しない。五点満点なら四点の評価だ。とはいえ、個々のシーンの描写や細かいポイントはさすがに上手であったり、おもしろかったりする。

 

 カルージュにせよル・グリにせよ、それなりに複雑であり、とくにル・グリは多面性を持つキャラクターである。話の構造とテーマ的に終盤は「同情の余地ナシ!」という風に評価を誘導されるし、クライマックスの「決闘」が騎士道やロマンスとは無縁の残酷で野蛮な殺し合いショーとして描かれることも予想の範囲内だけれど、それはそれとして、殺されて裸にされて吊るされるル・グリの姿は哀れである。

 また、ついついカルージュやル・グリがセクシストであったり「有害な男らしさ」を体現したりしていることが問題だという風に思ってしまいがちだが、個人ではなく社会のほうが歪んでいるためにロクでもない事態を引き起こしている、という点はきっちりと描写されている。悪気はないながらも友人であるル・グリを後戻りできない危険な状況に追い込んで死なせることになる、というピエール(ベン・アフレック)のキャラクターはおもしろい。また、「誇り」と「名誉」をなによりも重視してそのためには友情も財産も妻からの信頼や関係性を犠牲にすることを全く厭わないカルージュの行動は、「有害な男らしさ」ではなくむしろリチャード・ニスベットによる「名誉の文化」の議論を思い出した*1

 カルージュとル・グリによる視点の各章の冒頭では名もなく罪もない農民(?)たちが首を刎ねられて殺されていること、カルージュとル・グリが「死地」で戦う戦士であることも忘れてはいけないだろう。家父長制は、女性から地位や権利や尊厳を奪って「モノ」扱いするだけでなく、「消耗品」である男性たちを危険にさらして使い捨てにする制度でもあるのだ*2

 

 ル・グリの視点ではマルグリットが「色目」を使っていると思えなくもないように描かれる、というのは「男性は女性が自分に気があると都合よく思い込みがちである」というよく知られた心理現象をうまく表現できている。

 また、終盤まで、カルージュの母親が息子と一緒になってマルグリットを抑圧したり、姑として嫁をいじめたりするところもリアリティがある。当時の騎士の家の母親ならそりゃそうなるでしょ、という感じだ。そのぶん、終盤でいきなり自分の性被害経験を告白してマルグリットとの「連帯」や「シスターフッド」がちらっと示されるところは嘘くさくてくだらないと感じた。一方で、マルグリットの友人は完全に性悪であり、シスターフッド皆無で友人を裏切ることをなんとも思っていないところがよかった。

 脇役だけれどフランス王のアホっぷりはよい。彼が決闘の様子を嬉々として感染する姿には『シグルイ』を思い出す。一方で、王女のほうは決闘裁判を明らかに嫌がっていたりマルグリットにひそかに同情している、という対比もいい(これくらいの塩梅なら「シスターフッド」もリアルだ)。

 

 上述したように、この時代における女性もモノ扱いっぷりはひどいし、まず財産扱いで法的地位を持たないというのがひどいし、「カルージュが決闘に負けたら虚偽の告白の罪でマルグリットも処刑されます」というのもひどいし、自分の名誉を守る一心でマルグリットの承諾なく決闘することを決定するカルージュもマジでひどい。強姦されたことを打ち明けた妻を全くケアすることなく「あいつが最後の男になるのはイヤだから」という理由でセックスを強要するのも最悪。男性の視点から見ても、素朴に、「こんな結婚生活を送っていてなにが楽しいんだコイツ?」と思っちゃう。まあ時代的に後継ぎが大切なのであって、結婚生活が楽しいかどうかは重要でないんだろうけれど。

 また、カルージュやル・グリの視点では強調されていなかった「家畜」がマルグリットの視点ではフィーチャーされて、同じく家父長制によってモノ扱いされる存在としての境遇を重ねあわして描いたり、マルグリットだけが家畜に対する同情や慈しみの気持ちを持っていることが描かれる点は、なかなか珍しい表現であるだけにかなりおもしろかった。キャロル・アダムズなどのフェミニズム動物倫理やエコロジカル・フェミニズムの議論を思い出し、もしかしたら製作者もそのあたりの議論を意図しているのかもしれない*3

『コブラ会』の男らしさ

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theeigadiary.hatenablog.com 
コブラ会』、実に面白いのでシーズン3まであっという間に見てしまった。

 シーズン2からは、登場人物たちのしょうもない三角関係や、会話や情報伝達が不足によるくだらない誤解による大騒動と悲劇、映画だったらすぐに解決しそうな問題をシーズンの最後まで持ち越してそれでも解決させない……といった、連続ドラマにありがちな欠点も目立ってくる。物語を引き伸ばすために大問題の解決は後まわしにしつづけながら、間を持たせるために小事件は常に起こしつづけなければいけない、という構造上、トラブルメーカーの役割を担わされて観客から嫌われる登場人物が目立ってくるのも、なんというか実にアメリカン・ドラマという感じ。
 ホークやトリーもなかなか厄介だが、とくにサムがひどい。男を二股にかける自己中心的な性格をしているのに正論を語り、騒動を起こしてはミゲルやディミトリがケガをする原因を作りつつ、自分はすぐに被害者ぶって周囲の大人から甘やかされる、と視聴者の感情を逆撫でしてばっかりの実にストレスフルなキャラクターだ。Googleのサジェストで「嫌い」が出てくるのも納得である。
 とはいえ、サム、そしてその父親ダニエル・ラルーソーの「偽善」や「独善」が強調されるのは、もともとの『ベスト・キッド』では「悪役」だったジョニーを主役に据えたこの作品においては必然性のある描写だともいるだろう。
 
 ティ―ンエイジのかわいらしい男の子・女の子やイケメンが多数登場する作品であるが、『コブラ会』の最大の魅力は、ジョニー・ロレンスという主人公の造形にある。世間の流行どころかインターネットやスマホやパソコンすらまったく使い方を知らない「おバカ」でありながらも、ミゲルやその他のいじめられっ子が立ち上がる武器として空手の技術を教えるだけでなく、彼らが非行にはしりそうになったときにはどうやってモラルを教えて更生させられるかをひとりで考えて悩みながら実行する彼の姿は、実にいじましくて素直で、好感が抱ける。感情表現がヘタであったり言葉足らずであったり直情的で近視眼的であったりするために様々な失敗を犯し、弟子は過去の師匠に奪われて恋愛はまわり道で実の息子のロビーとの関係もうまくいかなくてと失敗続きであるところも、むしろ共感の対象となる。これほど「不器用」なキャラクターは昨今では珍しい。そしてジョニーの最大の魅力は、「偽善」や「正論」とは無縁であることだ。ダニエルとはちがい、彼がミゲルやロビーに説教をしたり教えを説くときには、その言葉が借りてきたものではなく悩みながら自分の頭で必死に考えたものであることが伝わってくる。世間的な権威や正論とは無縁なジョニーであるからこそ、何十歳も年下の子どもたちと対等の立場からメッセージを発して、それが受け止められるのだ。……まあそのメッセージが間違っていることもあるために余計なトラブルや惨事が起こったりもするのだけれど。
 
 シーズン3における、(ジョニーによる教えが一因ともなりながら)学校での乱闘の果てにケガをして車いす生活を余儀なくされることになったミゲルの「リハビリ」をジョニーが手伝うくだりは、とくに感動的だ。現実にやったら問題になること間違いなしの根性論でスパルタなリハビリによってミゲルが回復する過程にリアリティはまったくなく、「エロ本で(文字通りに)釣って立ち上がらせようとする」場面などのバカバカしさもすごいものだが、ジョニーの善意とそれをミゲルが受け止める様子が実に暖かなのだ。ミゲルが「お返し」をするようにファッションやデートなどについてジョニーにアドバイスするところも好ましい。
 ジョニーとミゲルの関係は、ジェンダー論者が喜びそうな「男性同士のケア」関係でもある。しかし、理想的なファンタジーであることは間違いなくても、彼らの関係性の描かれ方に偽善性や押し付けがましさは不思議とない。ひとつは、先述した通りおバカであり、『ベスト・キッド』が公開された1980年代からファッションセンスも知識も価値観もほとんどアップデートされておらず、まったく「コレクト」でないジョニーのキャラクター性によるものだろう。無知であり余計なイデオロギーや思い込みを持たないからこそ、目の前の問題を直視して相手に対して素直に関われて、まわり道をしながらもミゲルを救済したり治癒したりするなどの「正解」にたどり着けるという点では、『刑事コロンボ』と同じくジョニー・ロレンスもアメリカの反知性主義の伝統を正しく受け継ぐキャラクターなのだ。
 もうひとつは、「男性同士のケア」を「師弟関係」や通じて描いていることだ。男性同士のケアがありうるとしても、それは友人同士や同輩などの横並び関係ではなく、「メンター/メンティー」や「先輩/後輩」など「縦」の関係のほうで成立しやすい、というのはよく言われることである。女性は男性と比べて同列の同性に対してはつい張り合ったりマウントをとってしまったりして本音を明かせないが、縦の関係ならその傾向が緩和されて、上の側にいる男も下の側にいる男も本音を打ち明けやすくなる、ということだ。これはわたしも大学時代のサークルや職場のことを思い出すとうなずけるところがあるし、部活をしていた人にも心当たりがあるのではないだろうか。考えてみれば、同じく「男性同士のケア」を描いた『幸せへのまわり道』も基本的には「メンター/メンティー」という関係であった。そういう点で、ジョニーとミゲルの関係は、バカバカしいファンタジーでありながらもある種の「リアリティ」を含んでいるといえるのだ。
 
「空手」という格闘技を題材としており、ティーンエイジャー同士の喧嘩や乱闘が何度も繰り返される『コブラ会』では、必然と「有害な男らしさ」という問題も関わってくる(トリーをはじめとする女子も喧嘩に加わるが、まああんな血の気の多い女の子ってリアルだとほとんどいないし、ストーリーの都合上女子にされているだけで彼女もほとんど男子みたいなものだ)。ジョニーやダニエルやクリースなどの師匠たちも、ミゲルやロビー(やサム)などの準主役の弟子たちもそれぞれに「有害な男らしさ」の問題を抱えているが、とくに印象的なのはホークの扱いだ。彼は、空手を習って暴力を手に入れるだけでなく髪を派手なモヒカンにしたり入れ墨を入れたりするなど全方位に「男らしさ」を獲得することで、いじめられている状況から脱出して周囲を見返して子分とガールフレンドもゲットするが、こんどはその「男らしさ」が仇となって子分もガールフレンドも友人も失い、いじめっ子が空手を習ったことでせっかく身に付けた暴力も役に立たなくなってしまう。
 ……とはいえ、ホークというキャラクターの顛末には、「男らしさ」は有害であるとともに有益なものであることも示されている。結局のところ、まず彼は「男らしさ」を身に付けていなければ、なにもゲットできないじめられっ子のままでありつづけたのだ。同様の経緯はミゲルもたどっているし、過去にダニエルやジョニーがたどったものであり、これからクリースがたどるものでもあるだろう。要するに、男の子である以上は「男らしさ」に振り回されてもダメだけれど「男らしさ」をまったく持たないわけにもいかない、ということだ。空手を習うなどしながら、中庸に着地させる道を見つけるしかないのである。
コブラ会』においては、アマンダ・ラルーソーやミゲルの母などの「母親」たちは、ダニエルとジョニーの不毛な張り合いや子どもたちの無益な争いからは距離をとったりそれを諫めたりする、賢明さや良識を体現する人物たちとして描かれている(シーズン3でアマンダがクリースにつっかかることでその構図も崩れてしまうけれど)。しかし、ホークがいじめられっ子であった時代の回想シーンで、彼の母親が「いじめを止めてもらうように学校に連絡する」というおそろしく無意味で逆効果な(でも"良識的"ではある)手段をとったように、母親的・女性的な「賢明さ」が男の子の問題を解決する上では無力であることを描いている点も優れている。
 男らしさなりマッチョイズムなりの問題は、フェミニズムジェンダー論が登場する遥か以前から男として生きる人々には否が応でも気付かされてきたことであり、男性がつくる男性を主人公とした物語のなかでは様々なかたちで描かれつづけてきたことだ。そして、たいていの物事や事象がそうであるように、「男らしさ」には功罪の両方が存在する(同様に、「母性」や「良識」や「ケア」にだって、功罪の両方があるはずなのだ)。物語はそれが良質であればあるほど、「功」と「罪」の両方を見つめて描くことができるものなのである。
 
 というわけで、『コブラ会』は人によってはポリコレドラマとして受け止められて、人によってはアンチポリコレドラマとして受け止められているようだ。『マッドマックス:怒りのデスロード』ですらフェミニズム作品であるか否かをめぐって解釈が割れているように、よい物語とは多義的な解釈を許すものである。
 日本人や沖縄人がほとんど不在のなか白人男性たちが空手を教えあう設定に対して必然的に出てくる「文化の盗用」という批判を、おバカなジョニーに「なんだそりゃ?」と言わせることでスルーする、という豪胆さはすごい(実際、もともとの『ベスト・キッド』の時点でオリエンタリズムありきな作品なんだから、そこを掘り下げても誰も幸せになれない。そういう点ではシーズン3でダニエルが沖縄に行くくだりは余計でしかなかった)。シーズン1の大会で"意識の高い"が少年が被差別者たちのために黙とうするシーンもギャグでしかない。
 ……とはいえ、反ポリコレな作品であるかというとまったくそうでもない。結局のところ、自分が少年時代に犯したいじめをはじめとする男らしさの「罪」をジョニーに直視させつづけて、ミゲルたちへの指導やクリースとの対峙を通じて彼に「贖罪」をさせることが、この物語の最大のテーマであるためだ。