THE★映画日記

映画(たまに漫画や文学)の感想と批評、映画を取り巻く風潮についての雑感など。

「格差社会映画」の白々しさ

 

 ずっと昔のイラク戦争のころ、爆笑問題太田光がなにかのエッセイで、ベトナム戦争のあとにあれだけ反戦映画を製作したのに懲りずにまた戦争を起こして、そしてイラク戦争のあとにまたまた反戦映画が作られる、という状況について批判していた。該当のエッセイの文章を見つけ出すことはできなかったが、2017年のラジオで同様の発言をしていたようなので、ラジオの文字起こし記事から引用する。

 

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太田光:(前略)…ワシントンの桜の木の話ってあるでしょ。お父ちゃんが大切にしていた桜の木の枝を折っちゃったわけだよ。折っちゃったけども、それを自分から、自ら反省して、名乗り出たって言ったら、怒られるどころか、逆に褒められたって。そんなことあるわけねぇじゃねぇかって。 

 


太田光:他で遊べって話じゃん。単なるそれだけの話なんですよ、日本人にしてみれば。それをずーっとやってんだ、アメリカは。

田中裕二:うん。

太田光:戦争やって…

田中裕二:反省して。

太田光反戦映画を作る。「申し訳ない。ダメでしたけど、本当は我々はこうです」って。で、また戦争をやる。ずっとベトナム戦争の時から、アイツら負けたことないから。 

 

太田光アメリカって国はね。それでハリウッドで「トランプこんなヤツでしょ」って言ってるけど、何言ってんだよ。アメリカ人がトランプを選んだんじゃねぇかって。「お前らの映画の効力、なんだったんだ?」って。恥じろよ、それを恥じろ!

田中裕二:はっはっはっ(笑)

太田光:お前ら、何そこでトランプ茶化して喜んでんだ。それで完結か?それでまたトランプがダメだって映画を作って、それで「こんな映画作りました。凄いでしょ?」って言うのか?「それで、軍備増強して、戦争をやるんだろ?」って。それしかないんですよ。 

 

 この太田の発言は、ハリウッドや映画業界、ひいてはエンタメ業界なりメディアなり全般の偽善なり矛盾なりを鋭く指摘しているような気がする。

 

 反戦映画は近年はさほどブームになっておらず、ちょっと前はフェミニズム映画やLGBT映画がブームになっていた。そして、最近では「格差社会映画」がブームだ。今年のアカデミー作品賞に『ジョーカー』と『パラサイト 半地下の家族』がノミネートされているのも、「格差社会を描く映画」の評価や需要が高まっているからだろう。

 しかし、「格差社会映画」やそれと類似カテゴリーである「反・資本主義映画」には、「反戦映画」以上の白々しさがつきまとう。

 反戦映画を作っている人たちや出演している人たちの大半はアメリカ軍とはあまり関係のない人たちであるし、ホワイトハウスなりアメリカ議会なりの意思決定に関与しているわけではないはずだ。そして、反戦の信念も多くの人たちが本心から抱いているだろう(というのも、現代のアメリカ社会において反戦の信念を抱くこと自体はそんなに大変なことではないからだ)。また、一部の作品を除いては、映画というメディアは普段から好戦的なメッセージを発しているわけでもない。だから、アメリカという「国」が戦争を起こしていること自体についてはその国の国民であったりその国の企業ではたらく映画関係者にも多少の責任はあるかもしれないが、その責任はさして重たいものではないように思える。

 

 だが、格差社会となると話は別だ。

 言うまでもなく、ハリウッドのメジャーな映画に出演できるスターたちの大半は大金持ちであるし、そういう映画を撮る監督やその他のスタッフたちも映画のコアに関わるメンバーであればあるほど金持ちであるだろう。そう言う連中が格差社会を描いたり資本主義の悲惨を描いたりする、まずこの時点で白々しい。

 しかし、それ以上に私が気になるのは、アメリカ映画というものは多かれ少なかれ格差を所与の前提としてた物語を描いていることだ。

「たまには人が死ななかったり爆発が起きなかったりする映画を観よう」と思ってヒューマンドラマや文学的な雰囲気のアメリカ映画を観ていて気付かされるのは、そのタイプのアメリカ映画はニューヨークが舞台であることがやたらと多いことだ。次点でカリフォルニアである。体感的にはニューヨークが7割、カリフォルニアが2割、その他の州が1割という感じだ。そして、ニューヨークが舞台にせよカリフォルニアが舞台にせよ、主人公をはじめとする登場人物は金持ちで恵まれていることが多い。たとえば「芸術っぽい」映画を観ようと思ったらまず主人公はニューヨークでそれなりに成功している芸術家であったり芸術家の関係者であったりして(つまり、金持ちでもあって)、デカい家にみんなで集まってデカいテーブルに並べられたおしゃれな皿に盛られた美味しそうな料理屋を食べて高価そうなワインを飲みながら会話をして、そのうち会話がこじれて揉めたり喧嘩になったり誰かが倒れたりする。また、芸術関係者でない登場人物たちも法律家であったり銀行家であったりと芸術家以上の金持ちである。学生の登場人物たちも大体はアイビーリーグとかのエリート校だ。そしてニューヨークのチケットが高価そうな演劇を見たり高価そうなレストランに行ったりする。肝心なのは、登場人物の着ている服装はもちろんのこと彼らが食べているものや彼らの背景にある建物や公園、登場人物の会話の内容から顔付きまで、すべてに「お洒落さ」や「センスの良さ」がまとわりついており、観客は映画の内容だけでなく「ニューヨークを舞台にした金持ちたちが登場人物の物語ならではのお洒落さやセンスの良さ」を求めてそれらの映画を観てしまうことである。

 ニューヨークやカリフォルニアが舞台ではない場合には「舞台が田舎であること」自体が映画の内容に大きく関わっている。田舎の温かみみたいなものが描かれる場合もたまにはあるが、多くの場合には、むしろ田舎は「脱出すべき場所」として描かれている。そこにいる登場人物は貧しいだけでなく愚かで保守的であり、主人公に敵対する者どもとして描かれているのだ。愚かで保守的な人たちに囲まれている中の数少ない理解者との友情なり恋愛なりが描かれたりすることも多いが。

 たとえばNetflixがここまで流行している理由は、なにしろ月々の料金が安くて、いちど料金を払ってしまえばそれ以降は金をかけずに無限に映画が観れることだろう。だから、貧しい人や田舎の人の多くもNetflixに入っているはずだ。しかし、Netflixって上質な映画を観ようとすると、先ほど述べたようにその大半は舞台がニューヨークで登場人物は金持ちだ。そういう映画をじゃぶじゃぶと浴びせられつづけていると自分のいる世界や自分の立場が否定されたような気がしてきてしまい、惨めにならないだろうか?私自身としても、そういう映画を観続けているとふと我に返って「なんでわざわざ金を払って金持ち共の恋愛やいざこざを観せられなきゃならないんだ…」と虚しくなることがある。

 

 ともかく、ニューヨークが舞台の芸術家兼金持ちたちの物語が成立するのは格差社会があってのことだ。アメリカ映画ではヒューマンドラマを描くことに関してはニューヨークの金持ちたちを「特殊」ではなくむしろ「基準」として描いてきており、他の州に住んでいる普通の人たちの物語をむしろ「特殊」なものとして描いてきていた。そして、普通の人たちが抱く都会や金持ちの憧れを商売のタネにしてきたのである。もし格差社会でなくなったらこれまでのようには作品を作れなくなるし、これまでのような商売もできなくなるだろう。

 この構造を考えると、たとえば以前にはニューヨークが舞台のお洒落な映画に出ていた俳優が急に泥臭い貧民を描いた格差社会映画に出演して、賞のスピーチなどで格差や資本主義についてのメッセージなどを語り出したとしても、「白々しい」という感想しか湧かなくなるものである。

 さらに、いまは格差社会映画が「ブーム」になっていることもポイントだ。ブームということは、そのうち過ぎ去るということだ。反戦映画の時の事例と同じく、あと数年もすればハリウッドは格差社会のことは忘れて、その時のブームになっている別のテーマの映画を作成しつつ相も変わらずニューヨークが舞台の金持ちたちの映画を作成しているに決まっているのだ。

 ハリウッドがいま「格差社会映画」に熱狂しているからといって、観客である私たちがそれに付き合う必要はない。むしろ冷水を浴びせるべきである。いま「格差社会」について物申している俳優なり監督なりの言葉をしっかり記憶して、数年後の彼らの言動と照らし合わせてやることも重要だろう。