THE★映画日記

映画(たまに漫画や文学)の感想と批評、映画を取り巻く風潮についての雑感など。

外在批評の映画ファン/内在批評の漫画ファン

 

 

グリーンブック(字幕版)

グリーンブック(字幕版)

  • 発売日: 2019/10/02
  • メディア: Prime Video
 

 

 

 今年のアカデミー賞作品賞は『パラサイト 半地下の家族』が受賞したが、元々の『パラサイト』の世評が高かったのとアカデミー賞で初のアジア映画(外国語映画)の受賞ということで世間では満場一致で肯定的に受け止められており、文句を付けているのは私くらいのものだ。しかしそれは今回の記事の本題ではない。

 

 映画というメディアを小説や漫画などの他のフィクション作品から分ける特徴として、世間の潮流や社会規範の変化の影響を受けやすい、というところがある。もちろん小説や漫画などもそれらの影響を受けないことはないのだが、前提となる価値観や信念をほとんど変えることなくずっと同じ作風で書き続ける作家は多いし、世間や批評家による評価においても基本的には作品自体の完成度や面白さが最も重視される。しかし、映画の場合は、世間の風潮や社会規範を意識しているかどうかが厳しく問われるし、作品として完成度が高かったり面白かったりする作品であってもそれが「時代遅れ」なものであれば評価は下がってしまいがちだ。

 たとえば、Twitterや匿名掲示板などで漫画ファンたちと映画ファンたちをそれぞれフォローしていると、二つのグループの価値観や作品の評価基準がかなり異なっていることに気付かされる(もちろん漫画も映画も両方好きという人は多数存在するのだが、どちらのメディアについてより頻繁に語っているか、属しているSNS上のクラスタなどから、大雑把に「漫画ファン」と「映画ファン」とに分けてしまうことはできる)*1

「映画ファン」の特徴は、海外などのメディアで唱えられている潮流や規範の存在に意識的であり、自分たちが映画作品を評価する際にも「世間」や「外」の評価基準を意識することが多いことだ。つまり、映画ファンは「外在批評」をすることが多い。一方で、「漫画ファン」たちの間ではもっぱら「内在批評」が主流だ。彼らにとっては世間の潮流や規範などに基づいて漫画作品を論評したり批判したりすることは、作品の純粋性を汚してしまう無粋で野暮な行為でしかないのである。

 映画が外在批評をされがちであり漫画が内在批評されがちという違いは、それぞれのメディアが「社会的」なものであるか「個人的」なものであるかという違いに由来していると思われる。企画立案から制作から配給までにとにかく大量の人が関与する映画というメディアでは、監督であっても作品の内容を決定する権限には制限が課せられているし、一つの作品が完成するまでにかかる金銭や時間的コストを考慮するとあまり好き勝手はできない。「この作品を世に出したときにちゃんと評価されて人気が出て、採算がとれるか」ということを意識せざるを得ないのであり、世間や社会の方にチラチラと目を向けながら作られることになるのである。そのため、完成形の作品にも「社会」や「世間」が否応なく存在する。

 漫画作品の制作にも編集やアシスタントをはじめとした多数の人が関わっているとはいえ、映画に比べるとその数は少ない。そして、漫画作品の内容も、編集の影響は多いとしても基本的には漫画家個人のコントロール下に置かれている。映画に比べると漫画は「作家性」がずっと出しやすいのだ。そして、個人の裁量が大きい漫画作品では、漫画家本人の価値観や規範意識もダイレクトに反映されやすい。世間で大ヒットしている漫画の作品内で「昰」とされている規範意識がかなり古臭いものであったり、特定のジェンダーに対する露骨な差別的表現を含む漫画が十数年にわたってヒットし続ける、というものはよくあることだ。言ってしまうと、「社会」や「世間」に目を向けなくても面白くて売れる漫画を制作することは可能であるし、また漫画ファンたちも漫画作品が社会や世間に目配せすることを望んでいないのだ。

 

  映画ファンが外在批評に偏りがちな傾向も漫画ファンが内在批評に偏りがちな傾向も程度問題であり、良し悪しである。漫画ファンは外在批評に対して反発をし過ぎな面があることは否めないし、数年前のゆらぎ荘問題とか最近の宇崎ちゃん問題などは世間や社会に対して目を向けることを怠り続けたゆえに生じた問題であると言えるかもしれない。だが、映画ファンたちは映画ファンたちで、「世間」や「社会」の評価基準を意識し過ぎるがあまりに本人たち自身の評価基準や美意識や感情というものが上書きされてかき消されてしまっているんじゃないか、と思わないことはない。ここでいう世間や社会とは現代日本のことではなく、理想化されたリベラルでグローバルな欧米的社会のことだ。「欧米の評価基準に基づいて絶賛されている作品は、欧米の評価基準に基づいて絶賛する」というイタコ的存在と化している人すらもいるように思われる。

 私自身としても、外在批評の必要性を理解しているつもりではあるが、作品に向き合うスタンスとして共感できるはやっぱり漫画ファンたちの方だ。私は邦画はほとんど見ないしごく一部を除いて大半の邦画は好きではないが、それでも、アカデミー賞韓国映画が受賞したことを契機として「グローバルスタンダードに追いついていない日本映画」をdisり始める一部の層には辟易してしまう。

 また、昨年のアカデミー賞では、『ブラック・クランズ・マン』が作品賞を逃して『グリーン・ブック』が作品賞を受賞したことに関する「人種問題」的な観点からの批判ツイートが日本のTwitterでも散見された。しかし、問題なのは、昨年のアカデミー賞が発表された時点では『ブラック・クランズ・マン』も『グリーン・ブック』も日本では公開されていなかったことである。つまり、『グリーン・ブック』の受賞を批判していた大半の人は、当の『グリーン・ブック』も『ブラック・クランズ・マン』も観ていなかったはずなのだ。…作品を観ずとも「社会的な背景」に関する情報だけから問題を分析して云々することも可能ではあるが、本来ならフィクション作品を愛するファンのやることではないのである。

*1:小説ファンについては私はほとんどフォローしていないので、彼らの価値観がどうなっているかは知らない。