THE★映画日記

映画(たまに漫画や文学)の感想と批評、映画を取り巻く風潮についての雑感など。

映画作品の「良さ」と、視聴者の「共感」について

 

ユー・キャン・カウント・オン・ミー (字幕版)

ユー・キャン・カウント・オン・ミー (字幕版)

  • 発売日: 2013/11/26
  • メディア: Prime Video
 

 

 

 いまは失業中で時間があるので、これを機会にHuluやdTVなどの普段利用しないサブスクリプションサービスの無料期間を利用しつつ、映画をたくさん見ている。しかし、失業中の状態で中身のないアクション映画やSF映画ばかり見るのはあまりに「時間を無駄にしている感」があってイヤだ。

 たとえば最近は『プレデター』を高校生ぶりに再視聴したが、昔はキャッキャッと楽しめたこの作品も、いま見てみると登場人物や演出の安っぽさや間延びした展開などに嫌気が差してしまい、見終わった後には「時間を無駄にしてしまった…」という罪悪感しか残らなかった。『プレデター』よりは高く評価された作品である『エイリアン』にしても同様の感想だ。モンスターものやサスペンスものの全てが時間の無駄だというつもりはなく、たとえば『ジョーズ』は改めて見ても作品の優れた出来栄えに感心することができたのだが、そういうのは例外である。

 だから、映画を見るにしても、なるべく「中身のありそう」な映画を選んで見ているつもりだ。時間や精神や気力の余裕のある失業中の状態のうちに、その映画の内容や「良さ」をじっくり味わうように試みているつもりなのである。労働を再開して時間や気力の余裕がなくなると、地味な映画や細かな表現に力が入った映画の「良さ」に気付くことが難しくなり、ちゃんと味わうことができなくなる恐れがあるからだ。

 そして、「中身のありそう」な映画を選んでいくと、ひっきょう「ヒューマンドラマ」ジャンルの映画から選ぶことになる。西部劇や恋愛やコメディなどの他のジャンルから名作を選ぶこともあるが、それらのジャンルの名作は数が限られているので、既に見ていたり最近に再視聴したりしている可能性が高い。掘り出し物を探すにはやはり「ヒューマンドラマ」からだ。そしていくつかの掘り出し物を実際に発見していて、「まだまだ知らない作品があるんだな」という喜びを感じたりもしている。…とはいえ、サブスクリプションサービスではその性質上「地味」な作品の数は限られてしまうし、また1980年代以前の作品はほとんど配信されていないという点も歯がゆいのではあるが。

 

 さて、地味な代わりに設定や物語や人物造形にリアリティがあって、会話や描写などの「繊細さ」が魅力であるタイプのヒューマンドラマ系の作品を鑑賞することにも、それはそれで問題がある。

 というのも、そのような作品の登場人物の大半は仕事をしていて家庭を持っているのだ。

 なかには仕事をしておらず家庭を持っていない登場人物も出てくるが、その場合にも「仕事をしていないこと」や「家庭を持っていない」ことがほかの人物と対比したその登場人物の明確な特徴として描かれるし、多くの場合は改善すべき「問題」として描かれているのである。または、改善が不可能なのでその登場人物が付き合わなければならない「宿痾」として描かれている場合もあるが、いずれにせよネガティブな扱いであることには違いがない。このような登場人物に対しては他の登場人物に比べると共感がしやすいが、このような登場人物に対して共感をしてしまうこと自体に色々と思うところが生じてしまう。

 そのために、失業中であり家庭も持っていない30歳過ぎの身の上でヒューマンドラマを観ることには、居心地の悪さや不毛さのような感覚が付きまとう。なにしろ、一部の例外を除けば、画面のなかの登場人物たちは私と違って立派に仕事をしているし、家庭も築いているのだ。こういう登場人物たちに対して「共感」をすることには、障壁が存在する*1

 もちろん、映画というものはその作品の出来が良ければ良いほど、立場の違う視聴者であっても登場人物に共感することができるつくりになっている。脚本や描写や演技の技術を駆使しながら、立場を超えた登場人物への共感を可能にする…ということは、映画というもののイデアの一つであるだろう。そして、実際に、私だって大半の場合には仕事をしている登場人物や家庭を築いている登場人物への共感を抱くことはできる。

 しかし、登場人物に共感してその登場人物の物語について感心したり感動したりしたとしても、やっぱり「本当に自分はこの登場人物の物語に感情移入できたのか?」という疑問が拭えない。自分では感情移入したり物語が理解できたと思っていても、本当は理解できていないのかもしれない。また、もしも私がちゃんとした仕事に就いていたり家庭を築いたりした状態で視聴した場合には、ずっと「深い」感情移入ができていたかもしれない。

 

 特に映画というメディアでは、小説に比べると対象とする視聴者(読者)が「広く浅く」になりがちだ。これには、映画を製作することには小説よりもずっと多くの資金が必要となるから、元を取って利益を出すためには視聴者の層を広げる必要がある、という実利的な理由もある。また、メディアとしての性質の違いも大きい。小説では登場人物の内面や独白ばかりを描くことも可能ではあるが、映画の場合には一定数以上の登場人物を出して登場人物同士の会話ややり取りを通じて物語を進めていくことが基本になる。…このため、映画作品の登場人物は小説作品の登場人物に比べると概して社会的な存在になるのだ。とはいえ、小説の場合でも、やっぱりちゃんとした仕事に就いていたり家庭を築いていたりする登場人物が大半であるのだが。

 このようなことを考えていくと、視聴者である私自身も「人並み」の存在になった方が、より多くの映画作品のなかのより多くの登場人物に共感したり彼らの立場や考えをより正確に理解することが可能になって、映画作品の「良さ」をより理解できるようになるのではないか、と思わざるを得なくなるのだ。

 逆に言えば、ちゃんとした仕事をしなかったり家庭を築かなかったりすることには、実生活において様々な不都合やリスクを生じさせるという現実的な問題のほかにも、映画や小説などのフィクション作品の「良さ」に対する総合的な「理解」や「没入」を妨げてしまうという影響もあるのではないかと思えてしまう。つまり、ずっと中途半端に生きてきて「人並み」にならずに半人前であり続けることには、現実の社会に疎外されるだけでなくフィクションや芸術からも疎外されてしまう恐れも存在するのだ。

 

 こういう考えに対しては、以下のような反論が想定できる。…映画作品の「良さ」とは、視聴者とはあくまで独立して存在するものだ。視聴者は自分の立場や人生がどうであれ鑑賞の技術や経験を通じて作品の「良さ」を理解することができるものである。そもそも、映画作品の「良さ」を理解するために登場人物への「共感」が必要とされるとしたら、ある人が「良さ」を理解できる作品の数はごく少数に限られてしまうだろう。

 また、ただ単純に映画の「技術」に着目して、それを最重要視して映画を視聴するという鑑賞の仕方もある。つまり、登場人物への共感はさておいて、画面の構成や撮影の技術に注目したり会話や演技や脚本の妙味に注目したりする、という鑑賞の仕方だ。

 実際のところ、映画を鑑賞するという行為には、登場人物への共感や作品全体の道義的メッセージなどを重視する「情」の部分と、作品を成立させる技術や映画史全体の流れにおける作品の批評的立ち位置などを重視する「理」の部分との両方から成立する行為であろう。素人であってもある程度は「理」の部分にも注目しているはずだし、批評家だって「情」の部分は無視できないはずだ。そして、「情」と「理」のどちらを重視するかは「人それぞれ」であるかもしれない。

 私はどうしても「情」の部分を重視した映画鑑賞をしてしまう性質なので、だから登場人物に共感できるかできないかについて気をもんでしまうのだろう。…しかし、映画の「良さ」の本質はやはり「情」の方にしか存在しない、という考えも捨てたくない。登場人物への共感や、登場人物と照らし合わせて自分の人生についてあれこれ考えるということから切り離された「映画鑑賞」行為は、ひどく浅薄で空虚なものであるだろう。

 

 上記のようなことをあれこれと考えながら、今夜も『ユー・キャン・カウント・オン・ミー』という地味なヒューマンドラマ映画を見ていた。同じ監督の『マンチェスター・バイ・ザ・シー』が傑作であったのに比べて『ユー・キャン・カウント・オン・ミー』は全体的にぐっと心を掴んでくるところがなくて「まあまあ」という感じだったのだが、それはそれとして、登場人物の描写のリアルさはたしかに優れていた。子供の頃に両親を失って孤児として育って成人した姉と弟の二人が主人公なのだが、マーク・ラファロが演じる弟の方は典型的なアダルトチャイルドであり無責任で未成熟で人生に失敗した無職の男という設定であり、『男はつらいよ』の寅さんのネガティブな部分だけをリアルにした感じなのだが、観ていて気が気でなかった。「こんなに映画ばっかり観ているヒマがあるなら、さっさと真っ当に働いて成熟した責任を持つ人間になった方が身のためだよなあ」と思わされてしまうのである。

 

*1:同様の発想は「部活もの」や「スポーツもの」の漫画に対しても抱くことがある。「青春もの」や「恋愛もの」に対しても多かれ少なかれ同じような思いを抱くが、青春ものや恋愛ものの場合は「誰もが理想的な青春や恋愛を経験してきたわけではない」ということを前提にした作りになっていることも多いのでまだマシだ。