THE★映画日記

映画(たまに漫画や文学)の感想と批評、映画を取り巻く風潮についての雑感など。

『ザ・スクエア 思いやりの聖域』:豊かな知識人による豊かな知識人のための「格差社会」映画

 

ザ・スクエア 思いやりの聖域(字幕版)

ザ・スクエア 思いやりの聖域(字幕版)

  • 発売日: 2018/09/21
  • メディア: Prime Video
 

 

 Netflixで視聴した。ヨーロッパ映画を見るのは久しぶりだ。Wikipediaを見たところスウェーデンデンマークなどの北欧で製作された映画のようだが、作中ではスウェーデン語(デンマーク語?)と英語との両方が使われている。北欧の社会における英語の立ち位置についてはよく知らないのだが、少なくとも英語が使われているシーンでは自分の耳で理解することができるので、全編がフランス語やドイツ語などで製作されている他の映画に比べるとすんなりと作品に入り込むことができてありがたかった。

 

 ストーリーを説明するのが難しいタイプの映画ではある。基本的には、現代美術館のキュレーターである主人公が巻き込まれる二つのトラブルが話の軸となる。一つ目のトラブルは財布とスマホを盗まれるという私的なものであり、主人公はスマホGPSで犯人のアパートを突き止めるが、犯人の部屋の位置まではわからない。そのため、スマホと財布を返却するように要求する脅迫状を大量に作成してアパートの全室のポストに投函するという作戦を実行する。この作戦は成功するが、それがまた別の問題につながる…。二つ目のトラブルは主人公の仕事に関わるものであり、作中の美術館で開催される現代アートザ・スクエア」の展覧会の宣伝プロジェクトをめぐるトラブルだ。目立つことばかりを重視する軽薄な若者に宣伝を任せた結果、悪趣味な宣伝動画を製作されてしまい炎上して、主人公はその責任を取らされる…。

 ただし、ヨーロッパ映画らしい知的で芸術的な映画なので、ストーリーよりも個々の場面の方が印象的だ。この映画の特徴は、芸術家へのインタビューが行われている最中に観客席に座っている男性がチック症の発作を起こして卑猥な言葉を何度も口走ったり、現代アートのパフォーマンスとして野生の猿の真似をするアーティストが客たちにちょっかいを出してそれがエスカレートして性的暴行をはたらいたり、などなどの居心地の悪く気まずいシーンが頻発することである。

 "芸術系"の映画で居心地が悪くような感じるようなシーンが描かれること自体はさほど珍しくもないのだが、描かれる「気まずさ」が私たちの日常生活でも遭遇するような現実的で想像しやすいレベルの「気まずさ」であることが、いい効果をもたらしている(アーティストが客に性的暴行をはたらくことはさすがに異常事態であるが、アーティストやパフォーマーがスベっているパフォーマンスを続けている場面に居合わせてしまった経験は多くの人にあると思う。また、講演会などの場で客が暴言を口走ったり奇行に走ったりすることも、よくあることだ)。

 

 邦題の副題は「思いやりの聖域」となっているが、副題から連想されるような暖かな映画では全くなく、かなり冷笑的で批評的な内容の映画である。特に、豊かであり知識人である「強者」たちが貧しい人々や物乞いや障害者などの「弱者」と向き合う態度が、批評の対象とされている。

 主人公をはじめとした、口では「弱者に救いの手を差し伸べる気だ」と言っていたり本人の表面意識としてはそう努めているつもりである強者たちが、自分にとって都合が悪い場面では弱者を冷遇したりみんなが笑っている場面では自分も弱者を笑ったり宣伝や自己利益のために弱者を利用したり、かと思えば上機嫌になると物乞いに気前よく現金をあげたり、謝罪をするときには言い訳を多用して自分の罪を軽く表現しようとしたり…などなどの首尾一貫しないご都合主義的な振る舞いをしていることが表現されているのだ。

 

 昨今の映画らしく、『ザ・スクエア 思いやりの聖域』でも多数のシーンにて経済格差の問題に関する描写がなされている。しかし、格差の上側にいる強者たちの欺瞞が「批評」されてはいるが、「糾弾」されてはいないことがこの映画のポイントだ。おそらく、この映画は製作陣も想定されている観客もどちらも格差の上側にいる人たちであり、それも知的な趣味がよくて自分自身が批評的対象になることに不快感を抱かないタイプの人たちだ。つまり、裕福で余裕のある人たちがこの映画を見て、自分たちの思考や行動の欺瞞や矛盾を指摘されたり描写されたりすること自体に愉しみを感じることをもともと想定したうえで、この映画は製作されているのである。

 この映画を視聴する人の大半はあれこれと考えたり討論することが好きな知識人たちであるだろう。映画を見て感じたことや考えたことを会話のタネにしたりエッセイの題材にしたりするだろうが、自分の生き方について真摯に罪悪感を抱かせられたり世の中に構造について怒りをおぼえさせられたりはしない。製作陣もそれを周知で作っている。格差問題を扱っているとはいえ、格差の下側にいる人たちに視聴されることを想定した映画ではないのだ。この映画に登場する物乞いや貧者などの弱者は(おそらく意図的に)ほとんど人格を感じられない舞台装置のような扱いになっていることが、製作陣の意図を示しているように思える。

 しかし、意図されたものとはいえ、豊かな知識人たちの「欺瞞」を指摘する映画を豊かな知識人たちが製作して、その映画を豊かな知識人たちが自分たちの間で話題のタネとして消費する…という構造は、かなりグロテスクで不愉快なものではある。

 

ザ・スクエア 思いやりの聖域』は、たとえばケン・ローチの『わたしは、ダニエル・ブレイク』のような「怒り」のこもった作品とは真逆のところに位置している。…とはいえ、いつもいつも文句の付けようのない直球の正論しか表現しようとしないケン・ローチの姿勢にも鼻白むところはあるし、彼のように安全牌な主張しか表現しない監督ばかりになってしまうと、映画というものの豊かさや芸術性が失われることも確かだろう。金持ちだらけのハリウッド連中が素知らぬ顔で「格差社会映画」を製作することの白々しさについては、以前に書いている*1。社会派映画やハリウッド映画が表現するような「正論」を相対化するような立ち位置にいる、このテのヨーロピアンな芸術映画はこれからも一定の存在意義を持ち続けることであろう。

 

 ところで、ヨーロッパを舞台にしているためか、ハリウッド映画ではあまり見かけないようなタイプの美女や美男が多数登場する点はよかった。現代アートや美術館を題材にしているだけあって、画面の構成自体に芸術性を感じるシーンも多い。話の内容は地味でありエンタメ的ではないが、視覚的にはなかなか楽しめる映画ではあるだろう。