THE★映画日記

映画(たまに漫画や文学)の感想と批評、映画を取り巻く風潮についての雑感など。

『寝ても覚めても』

 

寝ても覚めても

寝ても覚めても

  • 発売日: 2019/03/06
  • メディア: Prime Video
 

 

 大阪に住んでいる女が暴力性のありDV傾向もありそうな男に路上でいきなりキスされて惚れてしまい、しばらくベタベタしたりことあるごとにキスしたりしながら付き合うが、男の方は無責任なろくでなしのでふとしたきっかけで女の元を去る。その数年後に東京に移転して生活していた女が前の男のそっくりさんの男に出会って惹かれてしまい、やがて前の男どうこうではなく普通にお互いに好き合う男女関係になる。だが、肝心なところで前の男があらわれて女は衝動的に今の男のもとを去って前の男へとついていく。しかしそのうちに考え直して前の男はやめて今の男のところに戻り、今の男の方は「もうお前のことを信用することはできない」とは言うのだがなんのかんので元サヤに戻る、というストーリーだ。

 

 現代の邦画を観るのは久しぶりだが、ずっとアメリカ映画ばかり観ていると、男女の恋愛や交際の描き方にジェンダー感覚の違いみたいなものをかなり意識しながら観ることになってしまう。なんといってもこの映画のヒロインは依存的で、その生活や人生は男中心にまわっている。前の男があらわれたらどれだけ仲が良くても今の男を振ってしまうことができたり、その前の男からもいちおう自分の意志で改めて立ち去ることができるという点では多少の主体性があるとは言えるが、そもそもまともに主体性のある人間はこんな風に他人に左右されない。

 主人公は気弱でおずおずした性格であり(いちおう"芯は強い"ともされているが)、そして恋愛脳である。映画の後半では口数も多くなり長ゼリフも多くなるが、特にタイトルバックが出るまでの序盤では、ほとんど喋ることもなくずっとのぼせた感じで男のことを見つめているばかりである。後半の長ゼリフはいかにも映画的なので前半の描写の方がリアルといえばリアルであり、たしかに実際の日本社会でもこんな感じの女を見かけることはあると思うが、気持ち悪くてわたしは苦手だ(顔の造形も美人であるが不気味なタイプのつくりであるのが、気持ちの悪さに拍車をかけている)。「喋れや」って思うし、いい歳して恋愛脳をしているのもどうかと思う。

 実際の欧米社会がどうであるかは知らないが、すくなくともアメリカ映画にはこんな依存的な女は登場しないし、実際の欧米社会でもたぶんこういう女はほとんどいないと思う。「そういう風に従属的で自己表現をはっきりせずに男のことばっかり考えているのは前時代的でみっともない情けない女だ」という考え方が社会通念としてしっかり根付いていて、大半の女性たちもその社会通念を意識して生きているからである。良し悪しではあるし欧米と日本とのどちらが優れていると一概に言えるものではないとしても、多少は自己表現力や自立心をしっかり持ってくれないと関わっていてしんどくなる。

 

 前の男は明確に暴力的で自己中心的な人間であると描かれているが、いちおう「魅力的」な存在ということになっている。アメリカ映画なら作中ではもっと批判的な扱いをされて、主人公も前の男のことを見捨てて完全に吹っ切る、というストーリーになることだろう。しかしこの作品のなかでは前の男が「作中悪」とはされていないし、エンディングにおいても主人公にはもしまた前の男が再びあらわれたらまた今の男を捨てて前の男についていきそうな不安定さが伴ったままではある。

 ネットの男女論や非モテ男性論などでは、自分の周辺の恋愛関係や芸能界のゴシップや少女漫画などの女性向けフィクションで描かれる男性キャラクター像などを根拠にして「なんだかんだでけっきょく女は真面目で優しい男よりも不誠実で暴力的な男が好きなんだ」「女は自分に尽くすタイプの男にときめかずに、自分をないがしろに扱う男にときめくものだ」ということがよく言われる。そのテの意見が正しいかどうかはともかく、少なくともこの映画はそのテの意見に論拠を追加するものではある。

 実際、女性のみんながそうであるということはないとしても、暴力的で不誠実な男に惹かれてしまったり男に依存的に振り回されることにときめいたりロマンスを感じるというところは、けっこうな数の女性に多かれ少なかれ存在しているところではあるようだ。この映画は、女性のそういう部分にフォーカスを当てて鮮やかに物語化して描いたものである、と言うことはできるかもしれない。

 ティーンエイジャーの女の子が主人公のアメリカ映画では「暴力的で不誠実な男にときめく → その男に幻滅して真面目で誠実な男に目を向ける or 女同士の友情関係や自分自身の自立に集中する」という展開が定番化しているが、この展開もそれはそれでご都合的で鼻白むことは多い。昨今の風潮や社会的通念においては「不都合な真実」であっても、現に女性たちに依存的な傾向や特性が備わっているのだとしたら、それを描くことに価値があることはたしかなのだ。

 

 なおこの映画は「役者の演技が下手すぎでストーリーで台無し」という評価が多いようだが、そこは気にならなかった。というか、邦画の現代劇は仮に役者の演技が上手いとしても「こんな気の利いた言い回しや長ゼリフを実際に言うやついないだろ」などの違和感ばかり先立ってしまい、どんな内容であっても「お芝居」や「お話」という感じが強くなってしまうのである(これは映画ではなく演劇にも同様なことがいる)。欧米の映画や韓国映画であれば演じている人たちは外国人であり普段は画面の向こうにしかいない人たちなので違和感は抱かずに済むのだが。