THE★映画日記

映画(たまに漫画や文学)の感想と批評、映画を取り巻く風潮についての雑感など。

『生きものの記録』

 

生きものの記録

生きものの記録

  • 発売日: 2015/04/22
  • メディア: Prime Video
 

 

 原水爆の恐怖に怯える老人・中島喜一(三船敏郎)は放射能から逃れるために全財産を投げ打って家族ごとブラジル移住を計画するが、息子たちからはその計画に反対されて、家庭裁判所に準禁治産の申し立てをされてしまう。家庭裁判所の調停委員である歯科医の原田(志村喬)は事件を通じて中島の恐怖に理解を示すようになるが、けっきょく裁判の結果としては息子たちの申し立てが通り中島の計画が制限されて、それを機に中島はさらに狂気に苛まれて突飛な行動に出るようになる…。

 最終盤に出てくる精神科医が言う「この患者を診ていると、正気でいるつもりの自分が妙に不安になるんです。狂っているのはあの患者なのか?こんな時世に正気でいられる我々がおかしいのか」というセリフが、まさにこの映画のテーマを差し示している。原水爆の恐怖を感じてそこから逃れようとする人間の狂気を描く作品として小説では『ニュークリア・エイジ』が有名だろうし、原水爆ではなくハリケーンとなるが『テイク・シェルター』という映画もそんな感じだった。そこらへんのスリラー小説やサスペンス映画でもいかにもありそうな題材というか、創作のネタとしてはわりと一般的なものであるだろう。しかし、原爆の記憶がまだ最近のことである1950年代の日本で作成されたというところが、生々しさや真剣さを与えている。また、準主人公である原田の「家庭裁判所の調停員」という立ち位置が絶妙だ。一人の市民として客観的に中島の言動について考えていくうちに、彼はそこに含まれている本質的な正当さを理解するようになっていくのだ。

 主人公である中島の恐怖は明らかに常軌を逸しており狂気として描かれているが、作中で主人公の意見を真に受けずに主人公の言動を批判する彼の息子たちは父の財産にすがることばかりを考えた俗物である。準主人公の原田や若い妾など、主人公から距離を取っており彼に対して依存せずに対等に接する人間の方が、彼の主張を真剣にとらえる。精神病院に送られた主人公を訪ねる二人を映したラストシーンは画面の構図からしてかなり印象的だ。主人公の言っていることが作中是とされているわけではないが、少なくともむげに否定される意見ではない、ということは明確に示されている。ここらへんのメッセージ性のバランス感覚が優れた作品である。

 また、原水爆という「リスク」に対する恐怖や個人間での危機感のギャップ、というテーマは現代にも通じるものがある。たとえば、昨今ならウィルスや疫病に対するリスク感覚は充分に作品のテーマのとなり得るだろう。ちょっと前までなったら「リスク」を過大評価して恐れて怯えて過剰な反応をする人は嘲笑や揶揄の対象であったかもしれないが、いつの間にか「リスク」を過小評価してタカをくくって楽観論を唱えていた人たちが見当外れで無責任な口だけ人間として批判される時代になってしまった。『生きものの記録』のなかでもそのような人たちは「何よあんたは偉そうに口先ばっかり!何も本気で考えたこともないくせに!」と批判されている。小賢しいクリエイターによる「風刺」的な作品であればリスクに怯える人は滑稽で間違った存在としか描かれないだろうが、リスクを等閑視する人たちの愚かさや無責任さも鋭く指摘している点は、さすがヒューマニズムを意識し続けた黒澤明の映画であるというべきかもしれない。