THE★映画日記

映画(たまに漫画や文学)の感想と批評、映画を取り巻く風潮についての雑感など。

Twitterにおける映画感想がダメなものになりがちな理由

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 昨日はノア・バームバック監督の『イカとクジラ』を観た。映画自体は大したものではなかったしむしろ不愉快なくらいの作品であったが、上記の記事で書いたように、この映画に関する「みんなのシネマレビュー」の批評を眺めているとなかなか面白い意見に出会うことができたので、そこに関しては僥倖だった。

 

 わたしが自分ひとりで映画館に行くようになったりTSUTAYAでVHSやDVDを借りて映画を観るようになったのは高校2年生の頃からで、西暦にすると2005年〜2006年からだ。その頃には当然ツイッターというものはなかったし、プロの映画批評家たちがブログをやるということもあまりなく、素人の映画感想ブログの絶対数も少なかったように思える。映画に関する感想や評価や点数が体系的にまとまっているサイトもあまりなかったために、わたしは友人から教えてもらった「みんなのシネマレビュー」をもっぱら愛用していた。当時はmixiが流行っていたが、mixiは映画についての情報を調べるうえではあまり役に立つサイトではなかったように思う。

 いまでは「みんなのシネマレビュー」もすっかり廃れた…と思いきや、2020年公開の新作に関しても細々と感想をアップし続ける人が残っており、たまに訪問してみるとほっとした気持ちになる。なによりも、みんな他人の目を気にせずに自分の思ったことを素直に書きこんでいる感じが心地よい。10点満点で点数が付けられてみんなが付けた点数の平均値が見れることが「みんなのシネマレビュー」の強みではあるが、よっぽど数多くのレビュワーが集まった作品でない限り、この平均点数は映画選びの参考にならないことが多い。基本的にみんな辛口な点数を付けることが多いので、その中で7点以上の高い平均点を得られている作品はたしかに名作や良作が多いのだが、6点以下の低い平均点の作品でもいざ観てみると面白いものが多かったりするからだ(さすがに、4点台以下となると駄作であることが大半であるが)。

 また、わたしは2ちゃんねる(現在では5ちゃんねる)の掲示板に書き込まれる映画の感想もけっこう信用している。2ちゃんねるに掲載されているナマのスレッドはノイズが多くて不便であることが多いが、以下のようなまとめサイトにおける個別作品の感想スレまとめはなんだかんだで参考になるし、読みものとしても楽しい。「みんなのシネマレビュー」と同じく、2ちゃんねるの映画感想からも「素直さ」が感じられることが多いからだ。

 

www.movient.net

 

「素直さ」の理由は、2ちゃんねるも「みんなのシネマレビュー」も匿名性が高いサイトであるからだ(後者はいちおうは記名性であるが、レビュワーの名前をいちいち記憶してそのレビュワーのレビューをずっとフォローする人は稀であるように思える)。だから、他人の目を気にしたりこれまでの過去の発言との整合性を気にしたりすることなく、余計な要素抜きで「自分の思ったこと」を率直に言えるのだ。

 本来、映画に限らずフィクションの感想とはそういうものであるべきだろう。しかし、たとえばわたしのようにブログで映画感想記事をアップし続けていると「自分が行う映画感想のブランドイメージを保ってやろう」という権威主義的な見栄や欲がついつい生じてしまい、「この映画を褒めているのにこの映画を貶すとセンスが悪い人のように思われるかもしれない…」などなどの不安を感じたりしてしまうものだ。わたしは職業的な映画批評家でもなんでもないので、結局は好き勝手に感想を書き散らしているつもりであるが、しかし無意識なところでは見栄や欲から逃げ切れていない部分もあるかも知れない。

 これが批評を書くことで金銭を受け取るプロであったら、ひとつ作品を批評するうえでも作品の背景にある社会的事情やキャストやスタッフのこれまでの経歴について下調べしたりする必要があるだけでなく、自分がこれまで行ってきた批評との整合性を保つことにも腐心しなければならないし、知識や見識が足りない人だと思われないように幾重にも予防線を張らなければならない。だから、映画批評家が書く批評や感想というもの、は参考になるものであったとしても、歯切れが悪くて面白さも感じられないものになったりするのだ。

  映画感想ブログにアフィリエイト広告を張ったりして金儲けを企もうとする人の場合は、タイトルや文字数や見出しなどにSEO的な工夫を行ってより多くのコンバージョンを稼げるようにがんばらなくてはならない。もちろん、そんな小細工を凝らせば凝らすほどに肝心の感想の内容は浅くしょうもなく自分の本心から外れたものになっていく。noteで販売されている映画感想がトリビア的な情報過多で不自然な内容になっていることが多いのも、売らんがための金銭的欲求が先立った文章になっているためなのだ。

 つまり、「金銭」や「承認」、あるいは「権威」や「見栄」への欲求は、物事の感想を述べたり物事を批評したりするうえでは退けるべき天敵なのである。それらの欲求にとらわれればとらわれるほど、感想は作為的になって素直なものでなくなり、批評は的外れになって本質的なものでなくなってしまうのだ。

 

 ところで、映画やフィクション全般に関するネットの意見のスタンスというものが、10年前と現在とではかなり異なっているように思える。その大きな原因が、Twitterの隆興だ。人々は自分が観てきた映画や現在視聴中のドラマやアニメなどの感想をTwitterに書く。しかし、Twitterにおいて映画やフィクションの感想を書くことには「不純」な側面がある。もちろん普段は何も考えずに純粋に思ったことをつぶやいている人が大多数ではあるだろうが、大量にFavがされて何百回何千回もRTされて私のところまでまわってくる感想ツイートを見てみると、そこにある種の「作為」や「欲」が感じられて気色悪く思えたりうんざり感を抱くことがある。目にした瞬間に元のツイート主をブロックしてしまうことも多い。

 これは、Twitterがコミュニケーションツールであること、さらにRTやFavやフォロワー数という「得点」が付くタイプのコミュニケーションツールであることが原因だ。大半の人はRT数やフォロワー数を気にせずに利用しているとは思うが、一部のユーザーはRT数をフォロワー数を稼ぐことを至上の目的としてTwitterを使用している。漫画家や文筆家などのフリーランサーや企業に紐付いたアカウントなどの場合はRT数やフォロワー数は自分たちの金銭的な利益に関わってくるために、それはもう血眼で得点を稼ごうとするだろう。金銭的な利益が関わらなくても、自分の承認欲求を満たすためにRT数やフォロワー数を誇る奇特な人がいる。そして、普段はフォロワー数やRT数のことを考えずに生きている人であっても、ときには「ここでこんなツイートしたらRTめっちゃ稼げるやろなぁ…w」と魔が差してしまうことがあるのだ。

 これはコミュニケーションに「得点」を課してしまうTwitterというメディアにおいては、構造的に不可避の問題である。つまり、ユーザーの誰しもが「うまいこと言ってやろう」という欲にとらわれる可能性があり、そしていちど「うまいこと言ってやろう」と思い出したらそこから逃げるのはかなり困難なのである。

 Twitterのユーザーたちが内包している「うまいこと言ってやろう」という欲がデマやフェイクニュース、人種差別や性差別、政治的対立や党派間の分断をもたらしてしまうことはすでに様々なメディアで散々に指摘されている。そして、差別や政治の問題に比べると深刻な問題でないとはいえ、フィクションの受容の仕方をも不自然な形に歪めてしまうという問題も存在するのだ。

 

Twitterにおける映画感想の傾向や特徴」と私が見なすものを書き出してみると、以下のようになる。

 

  1. 甘口で無批判な感想ばかりがつぶやかれる傾向。Twitterにおいて、これが最も基本的かつ最大の傾向である。つまり、自分が好きでない作品にわざわざ興味を抱く人はあまりおらず、ある作品に興味を持つ人の大半はその作品に好意的な感想を持っていることが多い。そのため、ある作品について好意的な感想を書くだけで、その作品について興味を持っている人からRTやFavをされる確率が高まる。一方で、辛口で批判的な意見を書いたところでそれがRT数を稼ぐチャンスは少ない。むしろ、その作品が好きな人にリムーブされてフォロワーが減ってしまうリスクの方が大きい。だから、甘口で無批判な感想を書くことは得点を稼ぐうえでは「得」であり、辛口で批判的な感想を書くことは基本的に「損」だ。その結果、大したことのない駄作であっても甘やかして好意的に解釈する感想ばかりがつぶやかれることになる。
  2. 「この作品は叩いていい」と認定された作品に対してだけは、過剰に辛口で批判的な感想が量産される傾向。コミュニケーションツールでもあるTwitterでは、なんだかんだで「叩く」ということが娯楽になる。みんなが叩いていないものを叩いても同意が得られずに「損」となるが、みんなが叩いているものであれば話は別だ。通常の場合であればある作品に興味を持つ人の大半はその作品に好意的な感想を持っているが、「ある作品が叩かれている」という情報を知ってから興味を持った人であれば、その作品に対して否定的な感想を持つことになる。この場合、より辛辣な感想をうまいこと表現できればできるほど、稼げる得点が増すことになる。そのために「叩く」ことはゲーム化・競技化して、さらにヒートアップする。
  3. 紋切り型や定型句の氾濫、ボキャ貧。映画の感想や批評を書くこと、ひいては文章を書くという行為全般が、本来であれば「自分の思っていることを最も適切に表現できる言葉を発見する」という行為であり、定型句などを使わずに探り出した"自分の言葉"で表現すべきものである。…しかし、"自分の言葉"で"自分の思っていること"を表現しても、RTはなかなか稼ぎづらい。大半の人は他人がどんなことを思っているかなんてことには興味を持っておらず、それよりも「うまいこと」や「気の利いたこと」を言っているように見える文章を読みたがっているものだからだ。そして、ツイートに紋切り型や定型句が含まれていればいるほど、文章の内容や意味について考えずとも理解した気にさせやすくなるので、反射的なRTが稼ぎやすくなる。だから、どの映画を見ても「マジ最高でした」とか「5億点!」とかしか書かない人で溢れてしまうことになるのだ。
  4. オーバーリアクションな漫画による感想。定型句的な文章を書くだけでなくそこに絵をつける方がさらに理解が早くなり、反射的なRTが稼ぎやすくなる。映画そのものの内容について特に語ったり論じたりすることができなくても、試写会や劇場に行って映画を見て感動していたり興奮していたりする自分の姿を漫画として描けば、それだけでなにか感想が描かれているように錯覚する人が多い。だから「映画感想系日常漫画家」が量産されるのであり、そのような漫画家の一部は実のところそこまで映画が好きなわけでもなければ志や矜持もなく承認と金銭に対する欲求だけが強い連中であったりするために恥も外聞もなくステマに加担するのだ
  5. 映画内のキャラクターや、俳優に対するフェティシズム的な画像や写真の氾濫。Twitterでは漫画やアニメのキャラクターの性的なイラストを描いて投稿したり、キャラクター間の恋愛や日常エピソードを妄想した同人誌的な画像を描いて投稿する人が多い。アメコミ映画や漫画原作映画などの二次元と三次元の中間に位置する作品についても、同人誌的な画像や性的なイラストが投稿されるのを目にすることはある。そして、映画の外の存在である"俳優"に対しても"推し"と称しながらフェティシズム的な関心を抱いて、仕事中の彼らが衣装を纏っている姿からオフの状態でのスーツ姿や私服姿の写真までをも投稿する人が多い。また、特に欧米の俳優や韓国人俳優に対しては、彼らのプライベートなエピソードやポリコレ的な政治的発言を取り上げてカリスマ的に崇めたてる人もちらほらといる。これに関しては出羽守的な外国信仰と属人的なフェティシズム、さらにはルッキズムとの合わせ技であるだろう。…しかし、"キャラ萌え"にせよ"俳優推し"にせよ、映画を成り立たせる一部の要素に過剰に注目してしまうことで映画全体の出来の良し悪しに関する判断を鈍らせてしまう悪影響があることは、言うまでもない。
  6. ファンダムの意見が力を持ちすぎることにより、特定のシリーズものやジャンルものが全肯定される雰囲気。愛着やフェティシズムの対象が単体の作品やキャラクターなどを飛びこえて、その作品が属するシリーズやジャンル自体を無批判に受容する「ファン」になってしまう人が多くいる。そして、ファンたちは相互にフォローとRTとFavをしあってTwitter上にファンダムを築き、それが結果としてファンダムの外にある冷静で中立的な意見を締め出すという効果を生じさせてしまうのだ。たとえば、映画として明確に破綻しており何一つ面白くなくて褒める要素が皆無であった『ファンタスティック・ビーストと黒い魔法使いの誕生』がハリポタファンに絶賛されたり、ファンタスティック・ビーストほどひどくはなくてもやはり映画としての完成度はお世辞にも高くない『ミスター・ガラス』がシャマラン監督ファンから絶賛されたりして、それらの作品に対する妥当な意見がファンダムによる絶賛意見に埋もれてしまう、という事態が生じるのである。そのため、それらのシリーズやジャンルのファンでない人がファンダムの意見を一般的意見と勘違いして期待して作品を観にいって時間と金を無駄にして後悔する、という悲劇が後を絶えないのだ(わたしは未見だが『HiGH&LOW』シリーズに関して同様の被害にあった知り合いもいる)。
  7. 「うまいこと言ってやろう」の過剰により、作品とは無関係な文脈や作品の本質とは外れた文脈が付与されて、その文脈によって作品が消費されてしまう傾向。「『ピーターラビット』は実質ヤクザ映画」とか「『すみっこぐらし』は実質『ジョーカー』」とか「光のスマホ使いと闇のスマホ使い」とかああいうの。
  8. B級映画や低俗なジャンル映画、マイナー国家の映画ばかりを見る人ができあがってしまう事象。いろんなジャンルの映画をまんべんなく見てそれぞれの映画について感想をつぶやくよりも、特定のジャンルや特定の国の映画に"特化"した方が、他の人があまり見ていない映画について感想を書く機会が増えるしそのジャンルに関する知見も増すから通っぽいことも書きやすくなる。これは、 「得点稼ぎ」という目標から逆算すればおそらく最善の戦略であるだろう。しかし、言うまでもなく、「よりRTされてよりフォロワーが増えるような感想を書くために映画を観よう」とは本末転倒である。…実のところ、Twitterがなくても実生活においても友人たちの間や映画感想サークルのなかで目立とうとするための「キャラ作り」として「B級映画ファン」になる人を目にしてきたことがあるのだが、そういう人を見るとわたしはいつも気の毒になっていた。他人の目を気にするあまりに自分の興味の対象を意図的に狭めて名作や良作に触れる機会を自ら失わせてしまう本人のことも気の毒だし、そのような人間のしょうもない承認欲求のために利用される映画の方だって気の毒だ。
  9. ポリコレ的なコードや外在的な事情、社会的潮流に振り回されて、作品そのものの評価ができなくなってしまう問題。これに関しては過去にも二つの記事で論じている*1Twitterはやはり「ポリコレ」に振り回されてしまいがちなメディアなので(「ポリコレ」自体が「得点稼ぎ」と密接に結びついているためであるが)、この問題が顕著になりやすい。
  10. 文字数制限のために感想が個条書きでぶつ切りになる問題。そもそも140文字で書けることなんてたかが知れているし、連投ツイートで書こうとしてもぶつ切りになる。それにあまりツイートのツリーを伸ばしても全部読んでくれる人はそんなにいないので、みんな短い文字で言葉足らずな感想を書いてよしとしてしまう。あるいは、個々のポイントについて個条書きで感想を書き散らすかだ。もちろん、それでは議論を展開するということはできない。みんな自分のブログを持ってそちらに映画の感想を長文で書いてリンクを貼ればいいのにと思うのだが、リンクを貼ったところでわざわざブログに飛んで文章を読んでくれるフォロワーも少ない。そんなことやっていたらRTやフォロワーなどの得点を稼ぐこともできない。だから、みんな即時的で単発的に感想をちょろっと書いて、それで満足してしまうのである。

 

 さて、この記事にオチというものは特にない。あえて最後になにか書くとすると…「みんなのシネマレビュー」を見始めたのと同時に読んでいた本として、松本人志の『シネマ坊主』というシリーズがある。松本が『大日本人』で映画デビューする前後まで雑誌に連載されていた映画評論を書籍化したものだ。『シネマ坊主』における彼の映画批評は鋭いときもあれば的外れなときも多かったが、いずれにせよとにかく「素直」で、素人の映画感想における承認欲求の臭みもなければプロの映画批評における権威主義も感じられず、実に理想的なバランスであったように思える。10年以上前にブックオフに売って処分して以来、読み返したことはないのだが、現在でもわたしの心のなかでは映画やその他の感想を書くうえでのひとつの理想として残り続けているのだ。まあ大した内容の本ではないのだけれども。

 

 

松本人志のシネマ坊主

松本人志のシネマ坊主

  • 作者:松本 人志
  • 発売日: 2002/01/31
  • メディア: 単行本
 

 

 

シネマ坊主2

シネマ坊主2

  • 作者:松本 人志
  • 発売日: 2005/06/23
  • メディア: 単行本