THE★映画日記

映画(たまに漫画や文学)の感想と批評、映画を取り巻く風潮についての雑感など。

わたしが「続きものドラマ」が嫌いな理由

 

 

 

 

 このブログでは以前に『となりのサインフェルド』『そりゃないぜ!?フレイジャー』を紹介したことがあるし、他にも『フレンズ』などのシットコムは好きである*1。また、10代の頃には『刑事コロンボ』にハマって旧シリーズ45作は全て視聴した。メインのキャラクターたちが共通しているが毎回異なるエピソードが展開して一話ごとに起承転結が明確に描かれている「一話完結」ものドラマについては、どのように楽しめばいいかということがわかりやすい。それぞれの作品ごとにどのエピソードでも共通する作風や特徴があるとはいえ、基本的には30分なり1時間なりの短時間でお話の出だしから終わりを視聴できる。要するに、映画の短い版という感じだ。

 現在ではNetflixAmazon primeなどの配信サイトのおかげでレンタルビデオ屋などに通わずとも何百何千もの映画作品の選択肢が常に存在するが、選択肢というものは多ければ多いほど一つに決める気力を失わせる効果があるものだ。一本の映画を観るためには短くても90分で長い場合には150分もかかったりするものだから、つまらない作品を観てしまうと時間を無駄にしたという感情や精神的ダメージがキツい。それを回避するためにと事前に多少は情報を仕入れて面白そうな作品をふるい分けするとしても、その作業自体がなかなか労力がかかって負担である。…一方、ドラマの場合、最初に二つか三つのエピソードを見てみてそれが面白かったら「この作品ならどのエピソードでも一定以上の面白さはあるだろう」という安心感が得られる。そして、選択の負担がかかることもなく、「観るものがなければとりあえずこの作品の新しいエピソードを見よう」とか「ちょっとだけ時間が余っているからあの作品のエピソードを一つだけ見てみようか」とか、気軽に観ることができるのである。配信サイトのおかげでいつでも映画が見られるこの時代におけるドラマの強みとは、「手軽さ」と「安定感」であるだろう。

 

 しかし、一話完結でない「続きもの」ドラマの場合、手軽さや安定感という利点はなくなる。10話とか24話とか、作品によってはシーズンをいくつもまたいで50話以上かけてひとつの物語を描く作品の場合、ところどころで物語の起伏を与える展開や視聴者の注意を惹くための衝撃展開などが挟まれているとしても、ひとつのエピソード内にてそれ単独で起承転結を持って完結する物語が描かれているとは限らず、基本的には長尺な物語の一部を切り取ったものを視聴することになる。そのため、作品においても重要な転機となるエピソードであったり怒涛の伏線回収などが行われるエピソードを視聴しているときは楽しめるとしても、序盤における設定説明・伏線回収に終始するエピソードであったり中ダルみしているエピソードにぶつかった場合には楽しむことが難しい。一話完結ものであれば「ハズレ回」は潔く早送りしたり視聴を諦めたりすることもできるが、続きものではそうもいかないだろう。

 特に最近では重厚長大な作品が好まれるようであり、ひとつのシーズン丸々を世界観やキャラクターの説明や伏線をまき散らすことだけに費やす作品もあったりする。わたしの印象では『ゲーム・オブ・スローンズ』がそうであるし『ウエストワールド』もそうだ。わたしはこの二作はどちらもシーズン1で視聴を止めてしまった。設定開示の出し惜しみやもったいぶった伏線描写にイライラさせられたし、キャラクターが大量に登場するだけで物語自体には大した動きが起こらないし、陰気で深刻ぶった世界観に神経を逆撫でさせられたというところもある。 先日にドラマ版『ウォッチメン』を観たときにも思ったが、「あの描写やあの意味深なセリフはこういうことだったのか!」となるのはその作品に惹かれて没頭している場合に限る。そもそも、伏線や設定やキャラクターに隠された秘密などで観客の興味を持続させようとすることは物語の技術としても二流のものである。魅力的なキャラクターや鮮やかな展開を最初に魅せることで観客の興味をぐいっと引っ張るほうが一流なのだ。

ゲーム・オブ・スローンズ』は最終シーズンがファンを失望させるような内容のものであったという話を聞いた。また、ちょっと前までには「奇抜な設定と衝撃の展開の連続と嵐のような伏線の連続で鳴り物入りで始まってシーズン1〜3までは視聴者を夢中にさせたが、途中からは衝撃展開のためだけのちゃぶ台返しを繰り返したり視聴者の意表をつくためだけにメインキャラクターを退場させたりすることが目的化してしまって、根本となるお話がグダグダになってしまい伏線もなかったことになって終わる、という作品の話をよく聞いた(『LOST』とか『ウォーキング・デッド』など)。ドラマをよく観る人であるほど、「最初は面白かった作品が途中から面白くなくなって当初にあった良さも全てなくなって時間を無駄にさせられて裏切られた気持ちになる」機会が多いはずである。よくそれで懲りずに新しい作品にチャレンジし続けられるものだ。

 そして、どれだけ大金を投じて作られた作品であっても、映画と比べて妙に安っぽい。気合いを入れて作られた映画であれば全ての画面の構図や撮影の仕方に製作者の意図や狙いが入っているものであるが、ドラマにはそれは期待できない。俳優陣たちだって、中年であろうが若者であろうが男性であろうが女性であろうが、映画の世界で活躍している俳優たちに比べると地味でパッとしなくて華がない人が多いのだ(あるいは、俳優の魅力を引き出すような映像の作り方がドラマではされていないのかもしれない)。コメディ作品なら華のなさがそれはそれで親近感や愛着につながるかもしれないが、シリアスな作品ではキツい。何時間もかかるドラマでは尺が余っているために、脇役も含めた個々のキャラクターに割ける時間が多く、特に物語的な意味のない雑談シーンや生活シーンを平気で描くことができる。…だが、それが作品としての面白さや完成度につながることはほとんどないし、キャラクター描写を深めたり観客の感情移入を誘ったりすることにつながるとも限らない。優れた映画とは「描写すべき登場人物」と「描写する必要のない登場人物」を冷静に見極めて、前者についてもほんのちょっとした会話や場面でその人物の人間性や魅力を最大限に示すことが理想とされる。「取捨選択」を前提とした映画には芸術としての妙味や完成度が感じられるが、ドラマ作品にはそんなものぜんぜん期待できないのだ。

「続きものドラマとは映画と比べて完成度の低い二流芸術である」という社会的合意が成立していれば問題ないのだが、最近ではHBO的な重厚長大路線やNetflix的な"価値観のアップデートされた"ポリコレドラマが目立つようになっているために、続きものドラマも一流の芸術作品であったり社会的意義のある作品であったりすると勘違いして主張する声が大きい。しかし、そういうことを言う人間はみんな間違っている。続きものドラマを観るにしても、いま自分が観ているものは間延びした薄味の安っぽいダラダラした華のない物語を延々と流して観客の時間を奪う粗悪品である、ということを理解して観るべきであるのだ。

*1:とはいえ、薄味過ぎて笑いどころがどこにあるかわからない『ブルックリン・ナインティナイン』や『グッド・プレイス』などは面白さがさっぱり理解できなかったし、『ビッグバン★セオリー』も「オタク」や「理系」要素の強調がうっとうしくて苦手だ。