THE★映画日記

映画(たまに漫画や文学)の感想と批評、映画を取り巻く風潮についての雑感など。

『ズートピア』

 

ズートピア (字幕版)

ズートピア (字幕版)

  • 発売日: 2016/07/11
  • メディア: Prime Video
 

 

 ピクサーの作品にうんざりしていたところで『塔の上のラプンツェル』を見て「やっぱりディズニー本家はひと味違ったレベルの高い作品を作るなあ」と感心していたところだが、ラプンツェルの監督(バイロン・ハワード)も共同監督している『ズートピア』も、やっぱり面白くてレベルの高い作品だった。物語の奥行きや世界観の練られ具合が段違いな気がするのだ。

 

「あきらめない」ことが特徴な少年漫画の主人公気質なウサギの女性警官・ジュディは動物としての可愛らしさと女性としての魅力を併せ持つなキケンなキャラクターであり、素晴らしい主人公だ。相棒であるキツネのニックは一見するとワルで世間擦れしたニヒルな男だが、実は繊細さや弱さを抱えているという複雑なキャラクター性をしている。『塔の上のラプンツェル』ではラプンツェルとユージーンとの恋愛描写が魅力的だったが、恋愛関係にはならずあくまで「バディ」の関係にとどまるジュディとニックとの友情も気持ちのいいものだ。

 登場人物が全員動物であるために大半は可愛らしいし、各動物の特性を活かしたコメディシーンも豊富で、見ていて飽きない。「人型の動物が現代的な社会を営んでいる」という設定はフィクションではありふれたものであるだろうが、この作品はディティールの凝り具合やシーンの豊富さが際立っている。マフィアのボスであるネズミがシロクマを部下にしていたりとか、肉食動物であるライオンやオオカミよりも草食動物であるヒツジの方が恐ろしい悪役になったりとか、ちょっと「ずらし」を加えた描写が絶妙だ。

 また、「田舎の若者女性が都会に上京して夢を叶えようとする」という設定の作品であることも地味に重要だ。主人公の両親は助けや心の支えとなる有難い存在である一方で、主人公の夢をやんわり否定したり落ち込んでいる主人公の気持ちを察することができなかったり、主人公が悪役から隠れている場面という最悪のタイミングで電話してきてピンチに陥らせたりと、「夢を持つ若者にとって田舎の家族は無理解な邪魔者である」という描写もしてくるところはなかなかスパイスが効いてる。

 

 一方で、この作品のテーマや世界観について深く考えてみると、手放しで肯定できない部分が多々あることは否めない。

 

 まず、作中における草食動物と肉食動物という「生物種」の違いに基づいた差別を描くことで、現実の社会における「人種」の差別を間接的に表現する…という手法には根本的な問題点が存在する。

 たとえば、作中の後半において、ジュディが「肉食動物は生物学的に攻撃的で凶暴になる素質がある」ということを言ってしまいニックが傷付く、というシーンがある。その後にジュディは「草食動物だって凶暴になることがあるんだ」という事実を知ってニックに謝罪を行い、二人はめでたく仲直りする。……だが、『ズートピア』の世界観において肉食動物と草食動物を平等で同質な存在だと見なすことには、あまりに無理がある。

 というのも、現実の世界では黒人だろうが白人だろうが黄色人種だろうがその身体に性質レベルの違いはない。背丈や筋肉量の平均値は異なるかもしれないが、黒人が鋭い爪を持っていたり白人が強靭な牙を持っていたりするわけではないのだ。しかし、『ズートピア』の住民たちはみんな二足歩行をしているとはいえ、その体躯には元の動物のものが反映されているし(ゾウは大きく、ネズミは踏んづけてしまいそうなほど小さい)、草食動物が持たない牙や爪を肉食動物は兼ね備えている。草食動物のなかにもゾウや水牛のように大きい体をしていて暴れたら危険な住民がいるとはいえ、牙や爪でいつでも他人を傷付ける可能性のある肉食動物の方が、潜在的な危険性が圧倒的に高いのだ。……つまり、現実世界における人種差別とは違って、『ズートピア』世界では草食動物が肉食動物を危険視する物理的な根拠が存在するのである。

 そもそも、主人公のジュディは自身の努力により種族の垣根を超えた活躍を実現した例外的な存在であるとはいえ、あまりに行動が遅すぎて事務仕事しかできないナマケモノや群れで同じ仕事をするレミングなど、自分の動物としての特性に一致した「身の丈に合った」生き方をすることの方が『ズートピア』世界では普通だ。生物学的な原因による先天的な身体的特徴や行動的特徴の「生物種」間の差が激しすぎて、努力や意識変革ではどうにもならない要素が多過ぎるのである。……そのため、身体的特徴や行動的特徴に生物学的な原因の「人種」差がほとんど存在しない現実の社会における人種差別をテーマとするには、『ズートピア』の世界設定は不適切に過ぎるのだ。むしろ、人種差別を正当化しかねない世界観であるのだから。

 

 もうひとつ、この作品のところどころに垣間見える「ネオリベ」っぽさも気になるところだ。主人公のジュディの特徴が「あきらめない」ことや努力家であるところも、裏を返せば、普通なら他の動物から軽んじられるウサギである彼女が周りから認められたのは彼女の「能力」ありきだ、ということになる。警察署長が就任初日のジュディに交通整理を命じることが悪行のように描かれているが、それも、警察学校を首席で卒業した彼女の「能力」が正当に認められるべきだ、ということが前提となっている。『ビリーブ 未来への大逆転』を観たときにも思ったが、性差別の克服のために能力主義が取り入れられる、というのはなかなか世知辛い話である。

 この作品における「多様性」讃歌にも、やはり資本主義と能力主義ありきな雰囲気が感じられる。あるいは、ニューヨークや東京などの現実の都会における「多様性」も所詮は資本と労働力を前提にしたものに過ぎないかもしれない。そういう点ではファンタジックなヴィジュアルからは想像できないほどのリアルさを描けている作品であるかもしれないが、この作品で描かれている価値観を手放しで称賛するわけにはいかないこともたしかである。