THE★映画日記

映画(たまに漫画や文学)の感想と批評、映画を取り巻く風潮についての雑感など。

『インサイド・ヘッド』

 

インサイド・ヘッド (字幕版)

インサイド・ヘッド (字幕版)

  • 発売日: 2015/09/25
  • メディア: Prime Video
 

 

 ミネソタ州にライリーという名前の女の子が生まれたとき、彼女の内側には最初にヨロコビが、すぐ後にカナシミが誕生した。そのあとにもイカリ、ムカムカ、ビビリが誕生していき、この5人の感情はライリーの頭の中にある「司令部」で協力し合いながら、ライリーを幸せな人生に導こうとしてきた。ただし、明確な役割が定まっている他の4人に比べて、カナシミの役割だけは不明なままであり、本人も自分の存在意義が見出せていなかった。

 ライリーが11歳の時に両親の事情によりミネソタからサンフラシスコへ引っ越したことを経緯に、それまではおおむね幸せであったライリーの人生の歯車が狂いはじめる。それと同時に彼女の内側でも異変が起きて、「特別な思い出」がヨロコビの黄色からカナシミの水色となったり、ヨロコビとカナシミが事故によって司令部の外に飛び出てしまったり、ライリーの人格を形作っている「性格の島」が崩壊したり、などの様々な危機が到来するのだ。

 ヨロコビとカナシミはライリーの「空想の友達」であるビンボンの助けも借りながら司令部へ戻ろうとするが、内面世界ならではの様々な障壁が立ちふさがる。そして、ポジティブな感情を一任するヨロコビが司令部にいないために、ムカムカやイカリがいくら頑張ってもライリーを喜ばせることはできず、思いつめたライリーはついに家出してミネソタ州に戻ることを決心してしまうのであった…。

 

 感情の擬人化を通じて一人の女の子の心の内側の葛藤と成長を描く、という発想は「学習まんが」とか保健体育の教材のソレだろう。感情以外にも記憶なり夢なり空想なりにまつわる様々な要素が擬人化されて、ライリーの内側に一つの街のような社会空間が形成されている、という設定や世界観も実に学習まんがっぽい。しかし、ピクサーならではのエンタメ性をしっかりと健在だし、最後に「カナシミ」の役割が明らかになる下りはなかなか感動させられる。アクションでも感動シーンでもアレンジが映えるテーマ曲も実に素晴らしい。

 ピクサー映画はディズニー映画に比べてドタバタ劇に割く尺が長くて中盤あたりからダレやすくなるという悪癖があり、この映画でもその悪癖は見え隠れするのだが、いつものピクサー作品と違って悪役不在の物語であるためにドタバタ劇やアクション要素の展開もいつもとはちょっと違ったものになっている。悪役から追われたり隠れたりの要素がないうえに目的地も明確なので、目標へと一直線に向かいつつファンタジックな世界観を活かしたアスレチック要素も豊富な、シンプルで爽快感のあるアクションを楽しめるのだ。また、途中でヨロコビたちが"抽象化"されて二次元の存在になるところはこの世界観でしか描けないような絵的な面白さがあったし、ライリーが寝ているときに見る「夢」の撮影スタジオに関するシーンや、「空想の彼氏」がクライマックスで思わぬ活躍をするところもかなり面白い。

 全てにおいて前向きであるが悪気なく人を傷付けたり粗末にしてしまう「ヨロコビ」と見た目通りにネガティブな「カナシミ」のキャラクター造形もなかなか優れており、二人とも実際の人間としても存在していそうな性格の奥行きが感じられる。「感情」を擬人化させた存在でありながら、記号的なキャラクターになっていないところが見事だ。ただし、彼女たちの冒険に途中から同行するビンボンは見た目が気持ち悪いし言動も鬱陶しいしで不愉快なキャラクターになっている(『アナと雪の女王』のオラフを思い出させるお邪魔虫だ)。

 ライリーの母親と父親の頭のなかの「司令部」が駆け引きするシーンや、様々な人物や動物たちの頭のなかにある「司令部」が次々と描かれるエンディングは実に楽しい(妙齢の女性はみんなブラジル人のパイロットに憧れている、というジョークもかなり笑える)。

 

 一発ネタであって続編の制作は不可能に思われそうな設定だが、映画の終盤で「思春期」のスイッチが登場することが伏線となっている通り、ライリーの成長に合わせて続編を作っていくこともできるだろう。今作では両親同士のやり取りでしか描かれなかった「司令部」同士の駆け引きも、掘り下げて描くと面白くなると思われる。

 メッセージ性やテーマ性に欠けていて、ディズニーよりもアクションや悪役との戦いを強調した作品が多いピクサー作品のなかでは、かなり異色の作品である。わたしはピクサーのなかではこの作品がいちばん好きであるかもしれない(とはいえ、ビンボンが登場する中盤のあたりからはやっぱりダレてしまうのだけれど)。