THE★映画日記

映画(たまに漫画や文学)の感想と批評、映画を取り巻く風潮についての雑感など。

『ストーリー・オブ・マイ・ライフ/わたしの若草物語』

 

若草物語 (福音館文庫 古典童話)

若草物語 (福音館文庫 古典童話)

 

 

若草物語』はわたしにとってもちょっと思い出深い作品である。なぜかというと、アメリカ文学専攻であった大学生時代、三年生のときのゼミで前期まるまるをかけて『若草物語』を扱ったからだ(ちなみに後期には『アラバマ物語』を扱った)。もちろん邦訳版だけでなく原著も読んだし、数名の班で何章めかを訳して何らかの発表を行ったような記憶もある。そのゼミは自分を除けば女子ばっかりで最初は楽しかったが何人かと仲良くなったといえれどゼミに打ち解けられたわけではないから特に意味なかったし、ついでに言うとギャルっぽい女の子たちばかりだったので彼女たちが『若草物語』に感銘を受けていた様子もあまりなかったような気がする。作品について詳しく話したわけじゃないから実際のところは知らないけれど。

 しかし、原著を読んだり発表やレポートのために研究書も読んだりした『若草物語』だが、今回あらためて映画版を見てみると、四姉妹のキャラクターや作品の時代背景はかろうじて覚えていても作品の詳細な内容はまったく覚えていないことに気が付かされた。ついでに言うと『アラバマ物語』だって内容をぜんぜん覚えていない。これはわたしが少女文学に偏見を抱いているからというわけではなく、アメリカ文学における記念碑駅な少年文学として同時期に読んだはずの『ハックルベリー・フィンの冒険』だって、一部の場面を除けばまったく記憶に残っていない。

 けっきょくのところ、100年だか200年だか前に少年少女向けに書かれた物語を大学生になってから「お勉強」として読んだところで、なにか感銘を受けられたり有意義な知識や経験や記憶が残ったりするとは限らない、ということなのだ。……じゃあアメリカ文学を専攻して四年以上かけて学士号とった意味って何なんだったのということになるが、わたしはいまでも学部時代に受けさせさられたゼミとか英書講読とかの授業の意義がわからないままだ。

 

 それはともかく、内容をすっかり忘れているとはいえ『若草物語』という言葉を聞けば「なつかしいな」と思うくらいの愛着はある。それ以上に、今回はグレタ・ガーウィグが監督しているのだ。わたしは彼女が主演兼脚本をしている『フランシス・ハ』を観てから彼女に釘付けになったし、同じく主演兼脚本である『ミストレス・アメリカ』も楽しく観ることができた。ただし、彼女の初監督作品である『レディ・バード』については以前にprime videoで無料だった時に観てそれなりに面白いとは思ったが、グレタ・ガーウィグの存在を知る前だったのであまり集中せずに流し見してしまった。

 そして、彼女が関連している作品を映画館で観るのは今回が初めてだ(監督に徹しており出演はしていないのだけれど)。3月公開予定だったところがコロナ騒動で延期になってしまっていた今作も今週になってようやく公開したので、満を持して観にいったというわけである。

 

 マーチ家の次女であり主人公のジョーを演じるシアーシャ・ローナンと、四女であり準主人公であるエイミーを演じるフローレンス・ピューは、どちらもかなり活き活きとしていて充実した演技を見せてくれる。マーチ家の長女であるメグがエマ・ワトソン、母親がローラ・ダーンで叔母さんがメリル・ストリープ、隣家のローリーはティモシー・シャラメと脇役も錚々たる俳優陣だ。

 一方で、マーチ家の三女であるベスは、物語に占める役割も役者であるエリザ・スカンレンもどちらもちょっとパッとしないものになっている。また、せっかくエマ・ワトソンというカリスマを採用した割にはメグの出番もすくない。原作では二人とももうちょっと出番があったような記憶があるのだが、この映画版ではジョーとエイミー、そしてローリーに焦点があてられている感じだ。

 

 ジョーとエイミーは二人とも他の姉妹よりも気が強く自己主張が激しくて芸術家志向であるが、より我が強いぶん芸術家としては成功したが恋愛面では不器用なジョーと、姉に対する芸術家としての嫉妬(そしてローリーとの恋愛におけるジョーへの嫉妬)に悩まされるエイミーとのキャラクターの描き分けや、ときに対立しつつも根は姉妹としての信頼で繋がっている二人の関係性が絶妙だ。

 特に、子供時代には姉妹のなかでももっとも無邪気かつ利発であったのが成長してからはひとり姉妹から離れて遠い異国に行くことになって叔母さんの薫陶を受けつつ"現実的"な考えを叩き込まれて、「わたしが家計を支えるために金持ちの結婚をしなくちゃ」と責任感を抱くようになったりしつつもジョーへの敗北感やコンプレックスに悩まされてしまうエイミーのキャラクターは、この映画のなかでも最も複雑で魅力的なものとなっている。

 エイミーが女性としての現実を背負う存在であるのに比べると、ジョーは紆余曲折がありつつも自立した女性としての理想を体現する存在として描かれている。ローリーとの恋愛では不本意ながらエイミーに譲るかたちになってしまったが、フレデリックルイ・ガレル)との恋が芽生えて傘の下で抱き合って結ばれる……と思いきや、そのオチは「女性が主人公なら最後は結婚してハッピーエンドでなければ売れない」と言い張る編集者の要求に応じてジョーが渋々ながら付け足したシーンであった、という「ちゃぶ台返し」な演出は、この映画と原作との最大の相違点であり、今作の"現代的"で"フェミニズム的"なメッセージを最も強調したところであるだろう(Wikipediaにもそう書いてある)。

 そのこと自体に文句を付ける気はないのだが、わたしはジョーがフレデリックを駅まで追いかけて傘の下で抱き合うシーンに普通に感動してしまっただけに、ちゃぶ台返しによってちょっと肩透かしを食らってバカにされたような気持ちを抱いてしまったことは否めない。これはわたしに限ったことではないようであり、上映後の他の観客達の会話からも「あの傘のシーンで感動したのに…」という声がチラホラと聞こえた。

 

 それはそれとして、絵本のように素敵なパンやお菓子で溢れるマーチ家の食卓や、様々な季節における草原や森や海などの自然のなかで四姉妹たちが戯れる風景、クライマックスにおける空想的なパーティーシーンなど、多幸感溢れるカラフルな画面作りは素晴らしい。アレクサンドル・デスプラによるサウンドトラックも貢献している。四姉妹同士が常にスキンシップを取り合っているところとか、ジョーとエイミーとの小突きあいにローリーとのじゃれ合いなども、少女もの的な魅力がたっぷりだ。過去のエピソードを描く画面では明るい暖色が強調されている一方で、ニューヨークの出版社でジョーが編集者と交渉している画面を筆頭とする現在のエピソードは暗くて寒色な画面になっているところも、お伽話と現実との対比という意図がわかりやすくてよい。総じて、細部にまで監督の情熱とかこだわりとか執念とかが込められていることが伝わってくる作品である。