THE★映画日記

映画(たまに漫画や文学)の感想と批評、映画を取り巻く風潮についての雑感など。

ひとこと感想:『風の谷のナウシカ』、『若おかみは小学生!』、『さびしんぼう』

●『風の谷のナウシカ

 

 

風の谷のナウシカ [Blu-ray]

風の谷のナウシカ [Blu-ray]

  • 発売日: 2010/07/14
  • メディア: エレクトロニクス
 

 

 リバイバル上映で安いので、新宿ピカデリーで鑑賞。高校生くらいの頃にテレビで放送したのを観て以来だから、まあだいたい10年以上ぶりの鑑賞だ。 

 友人と遊んでいるときに会話の流れでノリで見にいくことに決定したのだが、チケットを予約した次の瞬間からお互いの間に「でもいまさら劇場で2時間かけてナウシカ観るのダルいな…」という空気が流れはじめた。いざ観てみると思ったよりかは楽しめたが、ダルさがなかったと言えば嘘になる。

 独特な世界設定はいいのだが、主人公であるナウシカが良い子ちゃん過ぎて感情移入できないし、他の登場人物もナウシカの味方側は全てナウシカの引き立て役で魅力がないし(大半が老人か子供だであるし、唯一の若者男性であるアスベルもモブキャラみたいな見た目だ)、クシャナやクロトワはそれなりに魅力のあるキャラクターではあるがいかにも「魅力ある悪役です」って感じの造形があざとくて鼻に付いてしまう。

 世界観に関しても、腐海とか王蟲とかそのほかの虫たちにはファンタジーらしい絵面の面白さはあるし、幼体をさらわれた王蟲が暴走するシーンなどはなかなかの迫力だが、全体的に設定過多で薄っぺらい感じが否めない(はるかに内容が濃い原作ありきの作品だから仕方がないかもしれないが)。ナウシカならなんでも解決できちゃう御都合主義にもしらけちゃう。

 アニメーションの作画など自体はさすがによかった。戦闘機や戦車がやたらと描きこまれているところもすごいと思ったし、蟲たちの造形も素晴らしい。巨神兵王蟲の群れに向かってレーザー的なものを放つシーンの迫力も凄かった。こういうアニメーション部分を堪能できたという点では劇場で見た価値があったかもしれない。

 

●『若おかみは小学生!

 

 

若おかみは小学生!

若おかみは小学生!

  • 発売日: 2019/03/15
  • メディア: Prime Video
 

 

 なんか公開当時の2018年にやたらと流行った記憶がある。「児童労働を肯定している」云々でも話題になったものだ。

 しかし、ストーリーとしては児童文学のフォーマット通りという感じで、女子小学生である主人公の織子が温泉旅館の若女将として働く展開も「まあそういうものだから」と思ってスルーすることができた。小学生をこき使っておきながら偉そうに説教するおばあちゃんは、ちょっと異常者感があったが。それに、監督のコメントにはさすがにギョッとするしキナ臭いものを感じる*1

 ウリ坊や鈴鬼などの幽霊・妖怪連中は見た目が汚くて不愉快だったが、織子や真月などのメインキャラクターは可愛らしい。占い師のグローリーさんも、セクシーなお風呂シーンなどは「小学生向けの作品にこういう描写を入れていいの?」とは思ったが、美しくて魅力的なキャラクターとなっている。

 交通事故で両親を亡くした織子が、その事故の加害者の立場の人たち(といっても彼らの過失もあまりないのだが)を接客した後にその事実に気がついて過呼吸っぽい状態になるシーンはエゲツない。直前の、「内臓に問題があって食事に制限のある人を満足させる料理を出すにはどうすればいいのか」という『美味しんぼ』的な展開やその問題を解決するために織子が真月に協力を仰いで敵対関係が氷解する、という展開にアニメ的な面白さがあるぶん、ギャップによってさらに印象が強くなるところも上手だ。…このエゲツない展開が苦手だという人も多いようだが、全体的に「いい話」なエピソードが単調に連続するだけであったこの映画の雰囲気を大きく転換させる要素となっているし、このエピソードがあるかないかで作品の価値は段違いに変わるだろう。「被害者が加害者を赦す、という物語をつくること自体が赦しの強制みたいで抑圧的だ」という意見はあるだろうし、主人公が小学生であることを考えるとその意見も一理あるかもしれないが、まあ「修復的司法」のような考え方を表現できることもフィクションの価値のひとつとは言える。

 児童労働の件もそうだが、児童文学の主人公って「児童」ではいられなくて、大人が主人公の物語でないと「児童」は描かれない…という逆説が感じられる。つまり、物語の主人公というものはいろんな成長や経験や責任や加害や被害を背負わなくではならないのであり、労働や辛い経験から保護されるべき「児童」は主人公にはなりえないのだ。なので、主人公は児童の皮を被った大人や青年なのである。

 と、まあまあ面白くて考察できるところも多い作品ではあるが、所詮は児童文学のアニメ化であり、クライマックスのエゲツない展開をのぞいたら他はテンプレ的で通り一遍な作品であることも否めない。作画などの映像面でも特筆すべき点はなく、どう考えても「すごい」タイプの作品ではない。せいぜい佳作といったところだ。なので、「2018年のベスト映画は『若おかみは小学生!』!」と言っていたタイプの人は、さすがにもっといろんな映画を見た方がいいとは思う(とはいえ、おなじく2018年に公開されて同じく大絶賛されていた『リズと青い鳥』よりかはよっぽどマシな作品でもあるのだが)。

 

●『さびしんぼう

 

 

さびしんぼう

さびしんぼう

  • 発売日: 2013/11/26
  • メディア: Prime Video
 

 

 

 ゴミ。同じ大林信彦監督の『異人たちとの夏』は演出の過剰さやキャラクター造形のリアリティのなさや全体的なダサさがありながらも、切なさとか意外なストーリー展開とかがあってそれなりに楽しめるところがあったが、この作品に良いところはない。『異人たちとの夏』と違って主人公が学生になっているせいで「青春」や「友情」が強調されるのだが、当時に上映されていた青春アニメのノリをそのまま実写化したかのようなキャラクター造形や演出がとにかく寒くて痛々しすぎる。BGMも効果音もダサいし、主人公のナレーションもダサすぎる。ヒロイン(富田靖子)はさすがに美人だが、主人公(尾美としのり)の芋くさくてのっぺりした顔や髪型(そして、自己陶酔的なナレーションとブサイクな顔のギャップ)が不愉快極まりない。「キンタマ」に関するギャグがてんどんで出てくるところも下品でレベルが低すぎて見ていて情けなくなる。

 昔の映画だということを考慮しても、たとえば1960年代や1970年代の日本映画の名監督はこんなダサくて痛々しい作品を作らない。1980年代の日本映画を代表する監督が作った作品がコレ、というところが問題なのだ。いつも書いていることだがわたしは1980年代のカルチャーに世間で評価されているほどの価値を見出せず、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』を代表とする1980年代のアメリカ映画ですらも他の時代のアメリカ映画と比べたら価値が低いと思っているのだが、それにしたってこの作品はひどい。バブルの真っ最中で金が余りまくっていて最も恵まれていたはずの時代にこんな文化的価値が皆無の作品しか残せられなかったことが、その後の日本の文化的凋落につながっているのであろう。

*1:

https://www.waka-okami.jp/movie/comment/


"この映画の要諦は「自分探し」という、自我が肥大化した挙句の迷妄期の話では無く、その先にある「滅私」或いは仏教の「人の形成は五蘊の関係性に依る」、マルクスの言う「上部構造は(人の意識)は下部構造(その時の社会)が創る」を如何に描くかにある。

主人公おっこの元気の源、生き生きとした輝きは、春の屋旅館に訪れるお客さんに対して不器用ではあるが、我を忘れ注がれる彼女の想いであり、それこそがエネルギーなのである!
ある役者が言っていた。役を演じている時に生きている実感があり、家に帰りひとりになると自分が何者か解らなくなると。詰り自分では無い何かになる。他人の為に働く時にこそ力が出るのだと!"

実際問題、「自分」ばかりを強調する個人主義的な考えは本人の幸福にはつながらず、社会貢献したり共同体に溶け込んだりする方がけっきょく本人も幸福になる、というのは心理学や社会学における幸福研究でもよく指摘されるところだ。「他人の為に働く時にこそ力が出る」もまあそうだろうと思うし、頭だけで考えた合理主義やイデオロギー的な個人主義によって労働と共同体の価値が見失われがちな昨今の風潮にカウンターをくらわせたい、という気持ちはわからなくもない。織子が「わたしは織子ではなく、若おかみです!」という旨のセリフを吐くところも個人主義としてはありえないシーンではあるが、自己表現よりも社会的立場を選択した方がよいという場面はたしかにあると思う。事故でトラウマを負った主人公のセラピーという点にも関わってくるだろう。…だが、それはかなり保守的なイデオロギーに寄った価値観であることも自覚するべきだし、特に主人公が"女子"で"小学生"な作品でこれをやられると、なかなかのヤバさが漂うところである。