THE★映画日記

映画(たまに漫画や文学)の感想と批評、映画を取り巻く風潮についての雑感など。

『ジョーカー』:主演もいいし画面もいいが、ストーリーや展開には難あり、テーマは描けていない

 

ジョーカー(字幕版)

ジョーカー(字幕版)

  • 発売日: 2019/12/06
  • メディア: Prime Video
 

 

 去年に劇場で見たばっかりだが、もうNetflixでの配信が開始されたので、改めて鑑賞。

 

 公開当時にはかなり話題になり、評価も上々だったためにわりと期待して見にいったのだが、いざ見てみると「こんなもん…?」と肩透かしを食らった思い出が強い(ついでに言うとその時はマッチングアプリで出会った初対面の女の人と見に行ったのだが、チケット代を立て替えておいたら返してもらうのを忘れていたうえにその人と以後会うこともなかったので、3800円かかった計算になる。『ジョーカー』はどう贔屓目にみても、1900円の価値はあったとしても3800円の価値がある作品ではない)。

 

 今回に改めて見てみても、そこまでの名作という印象は持てない。しかし、主演のホアキン・フェニックスの演技はやはり素晴らしいし、この映画を通じてホアキン・フェニックスの存在を本格的に認知してそのあとに『インヒアレント・ヴァイス』『ドント・ウォーリー』などで彼の役者としての魅力をさらに確認して、それから改めて『ジョーカー』を観てみると以前には見えなかった良さもわかるようになった。

 また、多くのシーンにおいて印象的な構図が用いられていてツボを押さえた画面作りがされていることはたしかだ。劇場て観たときには、主人公のアーサー・フレック=ジョーカーが本格的に「狂気」の側にイってしまった後にも期待していたほどの飛躍が起こったり大惨事が起こったりしなかったことが不満だったのだが、「この映画で描かれる出来事は(ジョーカーという大物ヴィランを扱った映画にしては)地味で小粒なものである」ということを承知したうえで見ると、ピエロとしての格好や立ち振る舞いの異質さを充分に活かしたシーンが多いと言える(階段での有名なダンスシーンやそのあとに駅で警官から逃げるシーン、マレー(ロバート・デ・ニーロ)殺害後のジョーカーがクリームの「ホワイトルーム」をBGMにしながらパトカーで連行されるシーンとそのあとに暴徒たちに崇められるかたちで復活するシーン、ラストシーンの血の足跡と施設の職員との追いかけっこ、これはジョーカー化する前であるが冷蔵庫のなかに入るシーン、などなど)。

 

 ……しかし、それでも、ジョーカー化するまでの「タメ」が長い割にジョーカー化した後の飛躍や爆発が思ったほどすごくない、というのが映画として致命的ではある。階段でのダンスシーンはいいのだが、そのあとにジョーカーがテレビ番組でマレーと言い争ってくどくどと持論を語るシーンはかなり小物っぽい。狂人になった後のはずなのに、なる前に抱いていたマレー本人や社会に対する正論も混ざった恨みつらみを自分の口から語っちゃうというのは実に言い訳がましくてみっともないのだ。アーサーは小物でみっともない人間として描かれているからこういうことをやってもいいが、ジョーカーになってからこれをやっちゃダメだ。劇場で見ていたときにも、このシーンでかなり冷めてしまった記憶がある。そして、パトカーから解放されて暴徒に祭り上げられるシーンでは「ようやく本領発揮するかな」というワクワク感が少しあるのだが、この映画はそこでだいたい終わっちゃうのだ。

 途中でいくつかのシーンがジョーカーの妄想であることが判明するシーンがあったり、ラストシーン直前は精神病院でジョーカーが笑いながら事件について語るという場面になっていることから、「作中の出来事はすべてジョーカーがでっち上げた作り話だった」とか「実はあのシーンも妄想だしこのシーンも妄想で、それを知らせる伏線もしっかり描かれている」などといった「謎解き」が公開当時には盛んに行われていた記憶がある。しかし、そういう「謎解き」に自分も参加してどこが妄想だとか真実はどうだとか頭をひねりながら見たくなるほどの吸引力があるような映画ではない。

 

 ところで、ジョーカーといえば「格差社会インセルの問題を描いたポリコレ的な映画だ」と評価されたかと思えば「ポリコレによって無視されがちな白人男性(キモくて金のないおっさん)に寄り添って、ポリコレ的な建前をコケにした映画だ」と評価されたりもした。また、物語の前半における転機である「電車内で女性に嫌がらせをしていた数人の白人男性を、アーサーが撃ち殺す」というシーンが、バーナード・ゲッツ事件をモチーフにしておきながら被害者の人種を黒人から白人にしたことがホワイトウォッシュであり「人種」というファクターを重要視しているからダメ、みたいな批評もある。この批評は「なんでも人種化」のきらいがあって微妙だと思うが…。

 それはさておき、バーナード・ゲッツ事件をモチーフにしておきながら被害者を白人男性にしたこと、それもこの映画で暴徒たちが反抗の対象にしているらしき「金持ち」や「エリート」の白人男性にしたことは、はからずとも、この映画の政治的テーマの描き方のちぐはぐさやぎこちなさにつながっている。

 というのも、1980年代のニューヨークにて黒人少年を強盗扱いして発砲したバーナード・ゲッツが一部の市民から英雄視された背景には、当時のニューヨークの治安悪化の状況と「黒人の多くが犯罪をしている」というステレオタイプが背景にあったからだ*1。……一方で、金持ちやエリートの男性が地下鉄で女性に嫌がらせをするという行為については、そりゃそういうことをする奴もいるだろうが、すくなくともステレオタイプ的な行為ではない。金持ちやエリートというものはもっとお上品であったりボロを出さない連中なのであり、貧困層が金持ちやエリートに対して反感を抱くのも、彼らがお高くとまっている偽善的な存在であることに対してだ。バーナード・ゲッツ事件は当時のニューヨークにおけるある種の典型的状況に対する反抗と見なされたからこそ象徴的意味を持ったのだが、アーサーが地下鉄で目撃したエリート男性による女性への嫌がらせは、典型的な状況ではないのである。だから、アーサーが彼らを射殺したことが、金持ちやエリートに対する反抗や暴動の契機となる、という展開は不自然であるし、うまくないのだ*2

 また、上の段落では「金持ちやエリートに対する反抗」と書いたが、実のところ、正直言って映画を見ていても暴徒たちが何に対して怒っているかがよくわからないままだった。金持ちであるトーマス・ウェインに対する反発が強まっていること、また外でデモが起こっている状況であるのに高級なホール内でチャップリンの映画を見る金持ちたちの姿が皮肉的に描かれていることから格差対立みたいなものを描こうとしている感じはするのだが、ゴッサムシティという架空の街が舞台になっているうえに映画の時代設定が1980年代頃になっていることもあり、この映画の世界で経済格差や階層間の対立が具体的にどうなっているかはよくわからない。福祉予算が削られてアーサーが服用していた精神薬を得られなくなったことがジョーカー誕生の遠因とはされているが、ここの描写にも白々しさを感じた。『パラサイト』と同じく、あくまで物語の設定や展開の都合のためのスパイスとして「格差社会っぽさ」を付与しているのに過ぎないのだ。

 地下鉄内での射殺シーンのほかに劇中でジョーカーによる殺人行為が明確に描かれるのは、白人女性である母親の殺害シーンと、嫌味な白人男性である同僚のピエロの殺害シーン、そして同じく嫌味な白人男性であり権力者でもあるマレーを射殺するシーンだ。エンドシーンでは黒人女性の精神科医(医者ということはある種のエリートとも言える)を殺害したことを示唆する描写があるが、ここは「匂わせ」にとどまっている。……つまり、エンドシーンを除けば、ジョーカーは基本的に白人男性しか殺していないのである(母親は特殊な関係なので例外ということにしておこう)。ジョーカーの同僚のピエロには小人症の男性もいるが、彼はジョーカーに優しくしてくれたからということで見逃される。一方で、ジョーカーが殺意を向ける対象はそもそも「白人男性」や「金持ちエリート」や「強者」などというカテゴリによって設定されているわけではない。ただ単に個人的な怨恨と行きあったりばったりで殺しているだけだからだ。

 このあたりの被害者の「属性」を設定するうえでのバランス感覚は、この映画の内容を深刻にさせ過ぎず後味の悪いものとしない効果を挙げている代わりに、政治的で危ない部分を避けた無難な作品に着地させてしまう結果をもたらしてもいるのだ。

 ……というわけで、この作品も、テーマ的な部分だけを見るなら、白々しい「格差社会映画」の一例であるようにしか思えない。そして、マレーに対して恨み言を述べるシーンのせいで、ジョーカーのヴィランとしての強さとかカリスマ性とかオリジナリティとか一貫性も失われていることから、アメコミ映画としても評価するべきところはない。あくまでも「『タクシードライバー』を2019年のスタンダードやクオリティでやって見ました」というくらいの作品であり、評価すべき点はホアキン・フェニックスの演技とか画面作りとかの方にあるのだ。

 

 

*1:たとえば、Wikipedia「ニューヨーク市の歴史」の「犯罪都市ニューヨーク」の項目を参照。いちおう訂正しておくと、ここでは「バーナード・ゲッツは1984年"サブウェイ・ヴィジランティ"と呼ばれるギャング集団に対する発砲事件で有名となった。1989年4月19日、セントラルパーク・ジャガーと呼ばれた黒人少年の集団は女性を暴行・レイプ。」と書かれているが、"サブウェイ・ヴィジランティ"は黒人少年たちではなくゲッツに付けられた呼称であるし、セントラルパーク・ジョガーたちは冤罪であったことが明らかになっている。とはいえ、そのような冤罪や偏見自体が、当時のニューヨークでは黒人による犯罪がとりわけ問題視されていた、ということを示しているだろう

*2:そもそも地下鉄でアーサーが射殺するシーン自体が妄想であるとの見方も多いようだが、それは置いておく。