THE★映画日記

映画(たまに漫画や文学)の感想と批評、映画を取り巻く風潮についての雑感など。

『一人称単数』:「こういうの書いたらお前ら喜ぶんでしょ」というやる気のなさが強い、創造力を枯らした老人の短編集

 

一人称単数 (文春e-book)

一人称単数 (文春e-book)

 

 

 村上春樹の最新刊。Amazonほしいものリストからいただいたので、ありがたく読んだ。

 わたしは高校生時代から村上春樹のファンで、このブログやnoteなどでも何度か村上春樹について言及している*1

 しかし、2000年代の終盤、「はじめて三人称による大長編小説に挑戦した」と本人が息巻いていた『1Q84』が大失敗したあたりから村上のことは見限ってしまった。『1Q84』はストーリーのグダグダ感とか、「村上春樹のことだからこういうテーマが描きたくて、このファンタジー要素はこれこれこういうことを象徴しようとしているんだね、わかるわかる」という読者やハルキストたちの共通認識に甘えきったクソみたいな設定やファンタジー描写がひどかった。しかし、それ以上に、往年の村上の文章にあったキレやテンポが完全に失われてしまっていたことに悲しくなったものである。特に『BOOK 3』の文章は「下手くそ」としか表現できないレベルのものであったのだ。

 そのあとに『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』とか『女のいない男たち』などの小説が出版されても興味が持てず、数年間放置していた。一昨年にそれらの小説をようやく手にとってみて(図書館で借りれるようになったりBOOK OFFに100円で売られるようになったりしたから)、『多崎つくる』は出てくるエピソードが過去のエッセイで語られていたことの使いまわしであったりするところに「もう人生において新しい出来事も起こらなくなったし創造力も枯れているんだな」と思ってしまったが、『女のいない男たち』は存外に面白かった。村上春樹作品の昔からの特徴のひとつが、女性の人間性や主体性を認めずに完全に客体やモノとして扱う強烈なミソジニーであるのだが、短編集でありながらもどの作品でもそのミソジニーが全面に表現されているる(村上春樹自身がミソジニーをどれだけ自覚的に「描いている」か、それとも自覚せずに「漏らしている」かはよくわからないのだが)という趣向に、新奇性や独創性が感じられたのだ。

 

 しかし、今回の『一人称単数』には新規性や独創性もない。『騎士団長殺し』も「いつもの村上春樹」感が強すぎて退屈であり上巻で止めてしまったのだが、『一人称単数』も「お前ら、俺のファンなんだから、こういうのが好きなんだろ?俺にはこういうのを書くのを求めているんだろ?じゃあお望みどおりそれを書いてやるよ」という、やる気のなさが強く出てしまっているように思えた。

 収録されている作品はいずれも過去の村上作品のどこかで見たことがあるようなお話ばかりであるが、文章だけは、昔に比べてきっちりヘタになっている。村上春樹の魅力であった会話文の分量が減っていて、地の文がダラダラと長く続く。そして、同じく村上春樹の魅力とされている比喩表現についても、自己模倣というか縮小再生産というか、「昔はこんな比喩がうけたよなあ、こういう比喩を書いておけばみんなキャッキャッとよろこぶんだよなあ」という惰性というか甘えに基づいて書いたものとしか思えない。

 とくに、「あるときには記憶は僕にとっての最も貴重な感情的資産のひとつとなり、生きていくためのよすがともなった。コートの大ぶりなポケットの中に、そっと眠り込ませている温かい子猫のように。」(「ウィズ・ザ・ビートルズ」)という表現にはゾワっとした。70歳の老人がコートに子猫なんていれても可愛くねえしキモいんだよ、という拒絶反応が出てしまったのだ(よく考えたら30歳や40歳の中年男性が書いていたとしても相当キモい表現であるのだが)。

 村上春樹自身の経験や思い出に基づいている(という設定の)リアリズム的な作品が続いたと思ったら、突如として「品川猿の告白」でマジック・リアリズム的な作品を突っ込んでくるあたりも、本人は「やってやった」と思っているかもしれないが読者としては「またそれ?」といううんざり感の方が強いのだ。

 この短編集に収録されている作品のなかでいちばんミソジニーが強いのは「謝肉祭」であるだろう。貶したり否定したりする文脈ではなく褒めたり肯定したりする文脈であるとはいえ、自分の知人である(という設定の)女性の「醜さ」をやたらと強調するところは、端的に失礼で無神経だ。「醜さ」こそがこの女性の人生や存在を定義する性質だと勝手に決めつけてアイデンティファイしているところも、女性蔑視の典型である。この女性と主人公(村上春樹)との交流の描写も、相手を女性どころか人間としても扱っていないフシが感じられて、そら恐ろしいものがある。

 

 収録作品のなかでまだしも面白さが感じられたのは「ウィズ・ザ・ビートルズ」と「石のまくらに」であるが、前者は「死んだ恋人」についての話のであり後者は「若者時代の一夜の相手」についての話であり、これらの話はいままでの村上作品で散々読まされてきたものである。だから読んでいていて「あーこういう話読むのも久しぶりだなあ、なつかしいなあ」とは思うのだが、同じ題材を扱った過去の作品に比べてとくに優れているというわけでもない。「クリーム」や「ウィズ・ザ・ビートルズ」で関西弁が強調されるところはちょっと新鮮味を感じたし、「ヤクルト・スワローズ詩集」でこれまでは避けられていた父親との思い出話が語られる箇所にはしんみりする感じもあったが、まあそれだけ。

 

 ところで、「石のまくらに」を読んでいて、童貞であった高校生の頃に『ノルウェイの森』を読んで「へえ東京で一人暮らししていたら不特定多数の女性とこんなにセックスできるのか、いいなあ、大学生になったら東京に出たいなあ」と考えていたことを思い出した。けっきょく学生の頃には東京に出られず、社会人になってから東京に出てきたのだが、言うまでもなく『ノルウェイの森』みたいな性生活が繰り広げられることはなかった。一夜の経験みたいなものも多少はあったところで、期待していたほど楽しいものでもなかったし(『ノルウェイの森』を読み返してみると、不特定多数の女性と経験することの虚しさもしっかり描かれているのだが、高校生や大学生の頃にはそこの描写は無視して「いいなあ」としか思っていなかった)。

 しかし、70歳を過ぎても若い頃の性経験をここまで重要視したり偶像化して何度も何度も物語に仕立てる村上春樹も、考えてみると色々とおかしいところがあると思う。「それってそんなに重要な経験か?」という感じだ。死んだ昔の恋人のことについても、それは本人に深刻な影響を与えた大きな経験ではあっただろうけれど、もういいでしょ、と思ってしまう。

 村上春樹自身も、自身のセンチメンタルで甘酸っぱい思い出にすがった物語ばかりを量産することに限界を感じていた時期があり、『ねじまき鳥クロニクル』のあたりから「社会」を志向した大きな物語を描き出そうとしていたのだが……『1Q84』のあとに『騎士団長殺し』が出てきたということは、本人も『1Q84』でのチャレンジは失敗したと自覚して、「おとなしく自分の得意とする領域に戻って安パイをとりつづけよう」という風に舵を切ることにしたということであるのだろう。そう考えると、なかなか悲しいものがある。