THE★映画日記

映画(たまに漫画や文学)の感想と批評、映画を取り巻く風潮についての雑感など。

ホラー映画と、セックスに対する懲罰(『イット・フォローズ』)

 

イット・フォローズ(字幕版)

イット・フォローズ(字幕版)

  • 発売日: 2016/06/22
  • メディア: Prime Video
 

 

 コロナ騒ぎが起こる前の今年の初頭に『ミッドサマー』がTwitterでアホみたいな騒がれ方をしたことは記憶にあたらしいが、あの作品は単にフックとなる要素が多くてTwitterで映画作品をネタにして大喜利ごっこをしたがるタイプの人たちにウケたというところも大きかったが、それでだけでなくけっこう批評家ウケするタイプの作品でもあったようだ。

 わたしはTwitterでの騒がれ方があまりにムカついたので今後10年は『ミッドサマー』を観ることは避けようと決めてでも内容が気になるからあらすじだけネタバレサイトで読んでしまったのだが(映画作品に対して失礼なので普段はそんなことしないのだけれど『ミッドサマー』についてはあまりにムカついたので仕方がない)、女性主人公とその周辺の男性陣の扱われ方、そして主人公の恋人であった男性が彼女のことを軽んじた報いとして懲罰を受ける、という構図が"イマドキのジェンダー観を踏まえている"として評価点のひとつになったようである。そもそもフローレンス・ピューは女性としての可愛らしさや美しさをしっかり備えながらも声が野太かったり骨格ががっちりしているところに「男なんていなくてもウチらだけで充分だわよ」感もあるところにシスターフッドなオーラがあり(?)、フェミニズム意識の高い女性から評価されやすいタイプの女優であるようだ(そういう点ではグレタ・ガーウィグも同類かもしれない)。思い返すと、『ヘレディタリー/継承』にも、アリ・アスター監督のジェンダー意識の高さや批評家ウケ能力がしっかりとあらわれていた。

 そして、『ミッドサマー』に関する感想(ウケ狙いの大げさ感想や大喜利感想ではない真面目な感想)のなかで特に印象に残ったのが、以下のツイートだ。

 

 

 たしかに、ホラー映画においてはダメな女、というよりも"性的に奔放な女性"、もっと言ってしまえば"ビッチ"は作中に登場したら必ずどこかでモンスターや殺人鬼や幽霊に惨殺してしまう、というテンプレがある。……というか、「ホラー映画ではビッチは惨殺されるものだ」ということが、作品の作り手にも受け手にもどちらにも共有された「お約束」となっている。

 とはいえ、その「お約束」は知っていれども、実際にビッチが惨殺されるホラー映画を見たことがある人は意外と少ないのではないか、という気もする。ホラー映画というものは他のジャンル映画に比べてもメタ意識や自己批評意識がやたらと高いジャンルであり、評価が高くて良質な作品であればあるほど、素直に「お約束」を守りはしないものだ。たしかに『キャビン』ではビッチが惨殺されているがあの作品ではホラー映画の「お約束」を徹底的にパロディして反転させることが主眼になっていたし、『ハッピー・デス・デイ』シリーズも「ホラー映画ですぐに死ぬビッチ」を主人公に据えることで「お約束」に中指を突き立てることがテーマであった。メタ的な要素がない映画としても、たとえば『ミスト』であったり『クワイエット・プレイス』であったり『新感染』であったり、近年で評価されたホラー映画にはそもそもビッチ(というか、ホラー映画にありがちな"若者集団")が出てこないものであったりする。

 近年における欧米(や韓国)の映画にはジェンダーを過剰なまでに気にする風潮があることは言うまでもないが、ホラー映画もその例外ではない。むしろ、メタ意識や自己批評意識が高いという特性か、らこれまでの作品の差別的描写やステレオタイプについていちはやく反省をおこない、他に比べてもジェンダー化やフェミニズム化がすすんでいるジャンルであると言えるだろう。……だからこそ、いつものごとくそんな風潮はどこ吹く風で我が道を行くNetflixジャパンが放った『呪怨』が「ミソジニーで時代遅れだ」と批判されたわけでもある*1

 

「惨殺されるビッチ」問題に話を戻すと、わたしはいわゆる「B級ホラー」を自分から積極的に見たがるタイプではないのだが、高校生の頃にそういう作品ばかり見たがる友人がいたせいで、そいつの家に遊びに行ったときにはいつも強制的に見させられていた。それらの作品では、たしかに、ビッチはよく惨殺されていたような記憶がある……。しかし、大半の場合は、「ビッチが惨殺されるシーン」は正確に言うと「セックス中(前後)の若い男女が惨殺される」という展開であったはずだ。つまり、ビッチだけでなく、その相手の男も殺されていたのだ。「ホラー映画ではセックスをする男女は殺されるものだ」という"お約束"は、「ホラー映画ではビッチは惨殺されるものだ」という"お約束"に内包されたものであったのだ。

 つまり、ホラー映画では、セックスこそが殺されるに値する罪となっており、怪異や恐怖やモンスターはセックスに対する「懲罰」としてあらわれるのだ。

 

 エンターテイメントにおける「お約束」というものの多くは、それが人間をワクワクさせたりスカッとさせたりなどあるいは驚かせたり怖がらせたりなどの、快感や刺激をもたらすからこそ成立している。

 快感や刺激には生物的なものや本能的なものもあれば、道徳的なものもあれば社会的なものもあり、知的な快感もあればアイデンティティに由来する快感もある*2。エロ描写による興奮やホラー描写による恐怖はかなり原始的な刺激であるだろう。「人を騙したりする殺したりする悪い敵役がやっつけられる」ことや「これまで周囲からバカにされても自分の信念を貫いていた主人公が最後に報われる」ことに大半の観客はなんらかの快感を抱くが、それは、そのような展開が「悪いことをしたらひどいことがあるべき」「正しいことは報われるべき」という人間の素朴な道徳観にマッチしているからだ。また、たとえば『ハッピー・デス・デイ』では「これまでのホラー映画のお約束を脱構築した」という知的な要素に注目して楽しんだ人もいれば、"ビッチ"である主人公と多かれ少なかれ同じ属性を持った人が「いままでないがしろにされていたわたしたちのような人間が主人公として活躍している」ということを嬉しく思った人もいるはずだ。こういう観客のアイデンティティに関わる刺激や快感も無視できないものであろう。

 もしかしたら『ミッドサマー』にもそういうところはあったかもしれないが、フェミニズムや女性に焦点をあてた映画では「女性による男性社会への復讐」という展開が描かれることが多い*3。復讐ものというのはどちらかというとかなり素朴な種類の道徳的快感を追求したタイプの作品になるものだが、そこにアイデンティティ的な快感をプラスしたのみならず、近年には「女性による男性社会への復讐を描くことは、正しく、洗練されていて、批評性に富むものだ」とされる風潮があることを利用して知的な快感もプラスして、"素朴"な作品であることを覆い隠しているところも重要だろう。ホラーに人種問題の要素を加えたジョーダン・ピールの監督作品にもそういう要素はある。たとえば『ゲット・アウト』や『アス』は単なるホラーではなくて「アフリカ系アメリカ人が常日頃から感じている恐怖をホラー映画のかたちで表現した作品」であったり「人種や差別の問題とつなげてああだこうだと考えられるホラー」であったということが、作品に刺激や快感をプラスすることになっていたのだ。ホラーに限らず、映画というものは時代を経るにつれてどんどんハイコンテクストになっていき、社会的な要素や批評的な要素がプラスされ、そちらの快感に焦点が当てられるようになっていく。

 

 しかし、わたしたちの意識がどれだけ高くなって、知的な刺激や批評的な快感が得られるようになったところで、素朴で原始的な刺激や快感は根強く求められるものだ。そもそも、最近の"意識の高い"ホラー映画についても、その意識の高さをキャッチできるアンテナを張っていて知的・批評的に楽しむことのできる観客はあくまで一部に過ぎないだろう。多くの観客たちは、ホラー描写によってびっくりさせられたりゾクッとさせられたりするという原始的な刺激を求めたり、「悪人や社会のルールを守らない人や俗物が呪いや祟りでひどい目にあう」という描写から得られる素朴な道徳的快感を楽しみにして、ホラー映画を見にいっているはずなのだ。

 そして、これまでのホラー映画で描かれてきた「セックスに対する懲罰」も、社会的・道徳的な快感の一種類である…とわたしは考えている。特にB級ホラー映画でやたらと「セックス中(前後)の若い男女が惨殺される」シーンが多いことについては、ただ単に「エロ描写」による性的な刺激や快感だけを狙ったり、あるいはエロシーンから恐怖シーンに急遽転換させることによるギャップやショックを狙ったりするためにそのようなシーンが挿入されているという側面はあるだろうが、それだけではないはずだ。私たちは多かれ少なかれセックス自体を"罪"な行為であると感じており、だからこそセックス中の男女が惨殺されるシーンは「悪人が呪いや祟りでひどい目にあう」シーンと同様に"罪"に対する"罰"がくだされた場面だと感じられて、道徳的な快感を得ることができるのである。

 ここでわたしが想定しているのは、たとえばキリスト教では婚姻外の性交渉が悪だとされているから欧米映画の作り手や観客にはキリスト教的な道徳規範が無意識のうちに影響を与えている……という社会構築的なはなしではない。また、ホラー映画は日本でも欧米でも作り手や観客はモテないオタクの男が多くてインセルミソジニーだからセックスできる男女の両方に対して嫉妬を抱いていて……というはなしでもない。もっと普遍的で、原始的なレベルでの「道徳観」のはなしだ。

 たとえば、『野蛮な進化心理学:殺人とセックスが解き明かす人間行動の謎 』という本では、キリスト教のような宗教における性的規範は一夫一妻的な配偶戦略の効果を高めたり正当化したりするために構築された、という議論がなされてた(つまり、宗教によって道徳観が構築されたのではなく、もとからある道徳観を後付けで正当化するために宗教が構築された、ということだ)。セックスに対して人間が抱く諸々の刺激や感情は、進化の歴史上で繁殖戦略が最適化されていくうちに備わっていったものであるだろう。そして、繁殖戦略の効果とは相対的なものであり、「自分が結果を出す」のと同じくらいかそれ以上に「他人に結果を出させない」ということも重要だ。人間には「自分は、できるだけ多くの相手とセックスしたい」という欲望があるのと同時に、「他人には、自分とは関係のないところではできるだけセックスをさせたくない」という欲望もあるのだ。ホラー映画における「セックス中の男女が惨殺される」シーンが娯楽として成立するのも、あるいは"ビッチ"が惨たらしい目にあう展開が定番化するのも、「他人の繁殖行動はできるだけ抑制させるべきだ」という生来的な道徳観にマッチしているからなのだ。

 逆にいうと、それらのシーンが娯楽として成立してしまう原因は、「家父長的・保守的・宗教的な社会規範を反映されているから」や「製作者のミソジニーや性差別やセックスに対する嫉妬心が反映されているから」とは限らない、ということである。本来、セックスを"罰"が与えられるべき"罪"だとみなすこと自体が、性的な自己決定権を認める現代的な価値観とはそぐわないものである。しかし、わたしたちに生来的に備わっている価値観とは、そもそも、近代的ではなく原始的なものであるのだ。

 ホラー映画はメタ化・自己批評化してハイコンテクスト化するから傾向があるからこそ、知的・批評的=現代的な刺激や快感を味わえるジャンルでもあるが、それと同時に、「恐怖」や「因果応報」という原始的な刺激を追求するという点で前時代的な傾向も必然的に備えている。ある意味では自己矛盾というか自己分裂を抱えたジャンルでもあるのだ。だから、批評的・知的には面白いホラー映画ほど肝心のホラー描写はあんまり怖くなくて「ホラー映画としてどうなの?」と思わされてしまうことも多かったりする…*4

 

 というわけで、デヴィッド・ロバート・ミッチェル監督の『イット・フォローズ』だ。この作品では、"出現するたびに異なる姿の人間のかたちをとった「何者か」に追われ続ける(捕まったら死ぬ)"という"呪い"が"他者とセックスをすることで、移したり移されたりする"、という設定がキモとなっている。この設定は明らかに性病のメタファーとなっているように思えるが、それ以上に、「セックスは罰が与えられるべき罪である」というホラー映画のお約束自体を脱構築したものでもある。

 主役のジェイ(マイカ・モンロー)がふしだらな"ビッチ"であることは間違いないだろうが、終始ジェイの視点で物語が描かれることで、観客もジェイの感じる恐怖を追体験してジェイに同情や共感を抱くことになる。なので、仮にジェイが「何者か」に追いつかれて殺される展開になっても観客は快感を得ることはできず、後味の悪い嫌な思いをすることになるだろう。また、話のキモとなっているだけあってこの作品ではセックスがかなり重大なものとして扱われており、好きな人であるジェイを助けたいと思う一方で彼女が自分以外の男とセックスしていることを否が応でも知らされて悶々とするポール(キーア・ギルクリスト)の感情が生々しく描かれているところも面白い。

 カメラワークや画面の構図も凝っているし、ホラー映画にふさわしくないカラフルな色彩にもなかなかのオリジナリティがある。"呪いの対象になった経験のある人間以外は「何者か」の存在が見えない"という設定から、ジェイが呪いの存在を周囲に信じてもらえずに孤立したり狂人扱いされたりするというストレスフルな展開になることを予測してしまったが、そうでもなくて普通に周りの友人たちがジェイのことを信じて「何者か」の妥当に協力する、という展開になるところも見ていて気分のいいものだ。プールに招き寄せて撃破を試みるという終盤の展開も、透明なモンスターに対抗する手段としては合理的でよかった。

 この作品の数年後にデヴィッド・ロバート・ミッチェル監督が撮影した『アンダー・ザ・シルバー・レイク』はいかにもトマス・ピンチョン的な消費社会がどうこうポストモダンがああこう精神分析がそうこうみたいな思わせぶりで批評家ウケしそうな要素がてんこ盛りで、その「勿体ぶっている」感がかなり鼻についたのだが、小ぢんまりしていて設定も明確な『イット・フォローズ』では、若者たちの繊細な感情や青春感がくどくならない程度に表現されていていいと思った(「ヤリまくっているくせに繊細ぶんなよ」と思わされることもあったが、それはともかく)。

 ただし、メタ・ホラー的な設定や繊細さの表現に重点を置いたことが災いして、ホラー映画としてみると単調であるし、怖くもない。映画自体を楽しむというよりも、こうやって、ホラー映画のジャンルとしての性質とかホラー映画を取り巻く風潮とかと照らし合わせながらうだうだと考えて議論するタネにした方が楽しめるタイプの作品であるかもしれない。

*1:個人的には、もう日本はガラパゴス戦略で海外の風潮を一切気にしない方向に振れたほうが比較優位のメカニズムがはたらいてむしろいい作品が作れるんじゃないか、と思わなくもないところだ。

*2:この記事でいう「道徳的」とは、倫理学ではなく心理学でいうところの「道徳的」である。理論に基づいた規範的な「道徳」ではなく、人間の社会性や協調性を成立させるものとしての事実的な「道徳」だ。たとえば、「公正世界仮説」は一歩引いた立場から見てみれば過剰な懲罰や弱者救済の軽視などのおよそ"道徳的ではない"結果をもたらすが、それにもかかわらず、大半の人間の"道徳観"には「公正世界仮説」が強く作用しており、物語から得られる刺激や快感にも関わっているはずである。

*3:

theeigadiary.hatenablog.com

*4:『ヘレディタリー/継承』は批評性を備えておきながらもホラー作品としてもめちゃくちゃ怖い、という点で稀有な作品ではあったかもしれない