THE★映画日記

映画(たまに漫画や文学)の感想と批評、映画を取り巻く風潮についての雑感など。

『プロメア』:寒々しさが付きまとう“熱血”アニメ映画

 

プロメア

プロメア

  • 発売日: 2020/05/24
  • メディア: Prime Video
 

 

 突然変異して身体から炎を発火して操れるようになった新人類「バーニッシュ」の登場により人口の半分が亡くなる事件が起こってから30年後、バーニッシュへの対策が行われて文明がやや発展した世界における近未来都市、プロメポリスが舞台の物語。主人公のガロは、バーニッシュが行なう放火テロに対抗して消化活動や人命救助を行う消防隊「バーニングレスキュー」の隊員である少年だ。そんな彼がバーニッシュのテロ組織「マッド・バーニッシュ」のボスであるリオという少年と知り合い、いろいろとぶつかり合ったり闘ったりしたあとで、物語の黒幕であるプロメポリス司政官のクレイを倒すために共闘することになってなんかでっかいロボットを二人で操ることになる……というストーリー。

 

 独特な映像表現はかなり魅力的だ。バーニッシュの炎や熱を「三角形」で、それに対抗するバーニングレスキューの装備や特殊部隊フリーズフォースが使用する氷やクレイに関係する建物や設備は「四角形」で表現することが徹底しており、しつこいくらいに強調される三角形と四角形のデザインが他のアニメや映画ではこれまで見ることができなかったような絵面を生み出している*1。ちょっと『スパイダーマン:スパイダーバース』を連想させるような、カートゥーンっぽいポップなカラーリングやキャラクターデザインも悪くない。『スパイダーバース』が「縦」の奥行きを強調する作品であったのに対して、この作品はやたらと平面的であるのも対比としておもしろいところだ。

 

 しかし、映像やデザインが優れているのに比べて、ストーリーやキャラクター設定はお世辞にも魅力的ではない。全体的に、「熱血ものなロボットアニメをやりたい」という製作陣の目的や動機が先立っており、キャラクターもストーリーは製作陣の目的に引っ張られて不自然で無理のあるものになっているのだ。そのために、肝心の「熱血」展開が冷えきって寒々しくなってしまっている。

 

 監督の今石洋之や脚本の中島かずきは『天元突破グレンラガン』が代表作であるようだ。わたしは『グレンラガン』は観たことがないが、とにかく「熱血」を強調した作品であることは、当時に通っていた学校の同級生たちの会話から察することができた。だから、『プロメア』における「熱血」描写も、監督や脚本家のファンである観客たちが期待しているものであり、製作陣の方も「観客は、俺たちにはこういう熱血描写を期待しているはずだ」とファンサービスを考慮したところがあったかもしれない。

 しかし、物語における「熱血」展開とはキャラクターやストーリーが自然な流れで動いた末に到達するからこそ熱くなったり感動できたりするものであって(熱血に限らずどんな展開でもそうであるのだが)、熱血展開をしたいがためにキャラクターの性格をそれ用に設定したりストーリーをご都合主義的に動かしてしまうことは、本末転倒であるのだ。

 

 特にひどいのが、主人公であるガロのキャラクターである。ガロのキャラクター性は「炎のように熱い心を持った火消し」といったものであるが、彼がなぜ「熱い」人間になったかというバックボーンはロクに描かれていない(子供のころに火災現場からクレイに助けてもらって、それから火消しにあこがれてクレイを尊敬するようになった、というテンプレ的なエピソードは存在するが)。「熱さ」以外には性格面の特徴はほぼなく、その「熱さ」も悪い意味であまりにまっすぐでテンプレ的だ。ふつうの物語であれば、最初は「熱い」だけであった主人公であってもやがて挫折を経験したりショボンとなるような切ない出来事が起こることで成長したり屈折を抱えたりするようになって人間的な深みを持つようになるものだが、この作品ではそういうことはなくて、ガロは最初から最後までただ「熱い」だけの人間である。

 厳密に言うと、ガロが少なからず抱えていたバーニッシュへの差別意識がリオとの交流を通じて解消されたり、憧れの人物であったクレイの正体を知って幻滅したうえで乗り越えるという展開はあったりする。だが、それらもほんとうにテンプレ的で取って付けたような描写である。それに、ガロとリオやクレイとの関係性の変化は描けていても、ガロ自身の成長を描けているようには思えない。

 クライマックスの展開でガロがリオとともに地球を救うことになるところも、ガロの人間性や意志が寄与しているところはほとんどなくて、ただただご都合主義的な偶然の結果だ。ガロの「熱さ」こそが地球を救い、リオやクレイをも救う…という展開がやりたいことはわかるのだが、その説得力が全くない。

 だから、ドラマチックな音楽がガンガン鳴って濃くて派手な絵面がバンバン出てくるクライマックスの展開が、ひたすらサムく思えてしまうのだ。地球の命運をかけた戦いをしているところで「ロボットの名前が気に食わない」とか言いだしたり格好良さにこだわったりするところにも「ふざけてんのか」と言いたくなるし。

 

 2時間弱しかない作品であるのに、「ロボットアニメっぽさ」を出したいがためか、やたらとキャラクターが多いところも問題だ。特に、ガロの所属するバーニングレスキューの隊員が多すぎる。ヒロインのアイナや隊長であるイグニスには物語的な存在意義があるだろうし、怪力のバリスもにぎやかしとしてまあいいかもしれないが、メガネのレミーやメカニックのルチアや気持ち悪いネズミはいらないだろう。わざわざテロップ付きで紹介されて凝ったデザインがされているわりに、「隊員A」「隊員B」という程度の活躍しかしないからだ。そして、どのキャラクターも、やはりガロと同じく「こういうポジションのキャラクターだから、こういう見た目でこういう言動するんだよ、説明しなくてもお約束だからわかるよね?」と言わんばかりの、深みのない性格になっている。

 

 音楽も単体ごとに聴くとそれなりに格好いいのだが、クライマックスでは延々と鳴らされ続けるのでうんざりしてしまう。音楽に限らず、緩急をロクにつけずに「熱い」展開を連続させられるから、キャラクターの無理矢理さや設定に関するご都合主義に目をつぶったとしても、面白いと思うことはやはり難しい。

 なによりも、「観客は俺らにこういうものを求めているんだから、テンコ盛りにして出すのがサービス精神っていうものでしょ」という作り手と受け手との共犯関係が悪いかたちで発揮されていて、作品としての出来栄えや質を損なっているところがイヤだ。

「こういうのでいいんだよこういうので」という感覚は、作り手にとっても受け手にとっても、作品に対する感性を損なう致命的なものになりかねない。わたしが思い出すのは、『ゴジラ:キング・オブ・モンスターズ』である。あの作品も、ゴジラキングギドララドンをはじめとした怪獣たちの存在感やバトルシーンの映像表現こそは素晴らしかったが、ストーリーや人間たちのキャラクター性の描写があまりに適当でひどかったところ、そしてそれが「でもこれは怪獣映画だから、怪獣の描写や怪獣同士のバトルがテンコ盛りならストーリーやキャラクターなんて気にしなくていいんだよ」という風に肯定的に受け止められる風潮がとにかくイヤだった(ついでに言うと、メディアでのプロモーションなどにおける監督の寒々しい「怪獣オタク」アピールが肯定的に受け止められる風潮はさらにイヤだった)。

 

 ところで、『プロメア』の作中では"バーニッシュに対する差別"という現象がそれなりの尺を取って描かれている。リオは自分たちのアイデンティティにプライドを抱いている被差別者というキャラクターであるし、終盤では悪役であるクレイが実はバーニッシュであったという事実も明かされる。ピザ屋の店主による「テロリストになって人に迷惑をかける連中がいるから無害なバーニッシュまで差別されるんだ」というセリフ、そしてその直後にピザ屋の店員がバーニッシュであることが発覚して捕らわれるまでの一連のシーン、バーニッシュの間にもマジョリティ側につく裏切り者が存在するところ……などなど、いずれもが「差別問題を描いた作品」でよく見かけるようなものである。つまり、差別問題の扱い方や描かれ方自体が、お約束的でありステレオタイプ的でもあるのだ。

 しかし、この作品が「差別問題」をテーマにしているかといえば、それは違うだろう。あくまで、ストーリーをテンポ良くすすめたりキャラクター同士の関係性のスパイスとしたり「熱さ」を演出するための"道具"として、差別問題が担ぎ出されているだけである。「『プロメア』の差別問題の扱い方は前時代的で稚拙だ」という批判は多く目にするところだが、そこに関しては「そもそも差別問題を描く気がなかったんだろうな……」と理解できて、気にならなかった(というか、他の部分がひどすぎるということもあるのだが)。「差別問題を描く気がないなら、そもそも差別問題を扱うな」と言われてしまうと、それはごもっともなのだけれども。

 

『プロメア』における差別問題の描き方に関する批判でも特に強いのが、「バーニッシュの発火能力の元となる存在(プロメア)が燃え尽きて地球からいなくなることで、バーニッシュが発火能力を失う」というエンディングの展開だ*2

 そもそも、現実の差別問題の多くは人種や性的指向や障害などの不可変的な属性が原因で起こることから、現実には「問題の原因となる"属性"が取り除かれる」ことでそれらの差別問題が解決するはずはないことを考えると、このエンディングの展開はいかにも安直だ。

 さらに、昨今ではそれ以上に、「被差別の原因となった属性は、取り除かれるべきものである」とも取られかねない描き方のほうが批判される。良くも悪くもアイデンティティ・ポリティクスが盛んな現代では、人種や性的指向や障害などは本人たちのアイデンティティやプライドの源泉となるものと見なされるべきなのであり、被差別の原因であってもそれらの属性を「取り除けるなら取り除いたほうがいい」ものと見なすことはご法度であるからだ*3

 しかし、現実における人種や性的指向についてはそれが被差別対象のものであっても「なくなった方がいい」とは思わないし思うべきでもないが*4、バーニッシュたちのあんな危なっかしい発火能力なんてなくなった方がいいに決まっている*5

『ズートピア』にのときに詳しく書いたが、現実の差別の根本的な問題とは「人種や性的指向などの"無害"な属性を理由にして不公平な取り扱いを行うことを正当化する」ことにあって、その属性が危険性を伴うものであったら、また話は変わってくる。先述したように『プロメア』はそもそも差別問題を描く気のない作品であったからいいとして、差別問題に正面から取り組んだ『ズートピア』であっても、「草食動物/肉食動物」という器質や機能に差異があり過ぎるキャラクターたちにおける問題に現実の人種問題を安易になぞらえてしまったことで、いろいろと無理や歪みが生じてしまっていたのだ。

*1:また、作品の終盤では「三角形」と「四角形」の共存を象徴するモチーフとして「丸」が強調されるようになる

*2:エンディングだけはうろ覚えでちょっと不安ではあるが、たしかこういう展開であったはずだ。

*3:また、わたしはまだ調べ切れていないが、プロメアの「三角形」の使い方はナチス政権下におけるユダヤ人差別や同性愛差別を想起させるものであり、だからこそその安直さが批判されている、という文脈もあるようだ。

note.com

*4:身体障害や精神障害についてはまた複雑で話が別だが、その話をここでするとややこしくなるので割愛しよう。

*5:話がずれるが、冒頭でリオたちがビルで大火災を起こしているのに死者をひとりも出さないこと、それはバーニングレスキューの功績というだけではなく中盤でリオが「火災テロを起こすときには、いつも死者は出さないようにしている」と発言するところは、かなり気になった。だって、「火」や「火事」のおそろしさは、その火を放った本人のコントロールを超えて無限に広がる可能性にこそあるからだ。揚げ足取りだと思われるかもしれないし、「リオが付けた火は死者を出さないんだよ、この映画ではそういうことになっているんだよ」と言われたら反論できないが、「火」や「消火」を主要キャラクターたちのモチーフとしている作品としてはけっこう致命的な問題にもなり得ると思う。