THE★映画日記

映画(たまに漫画や文学)の感想と批評、映画を取り巻く風潮についての雑感など。

価値づけとしての批評と、その楽しさ(読書メモ:『批評について:芸術批評の哲学』)

 

 

批評について: 芸術批評の哲学

批評について: 芸術批評の哲学

 

 

『批評について:芸術批評の哲学』は2年ほど前に図書館で借りて読んではいたが、今年になってからこうして映画ブログをはじめて「批評」活動をはじめたということもあって、改めて読み返してみた。

 まず、重要だと思うところをいくつか引用しよう。

 

すでに遠回しに示唆されたことかもしれないが、こんにち提出されている批評理論の多くは、主に解釈(interpretatiton)の理論である。こうした理論は芸術作品から意味ーーここには兆候として示唆されるような意味(symptomatic meaning)も含まれるーーを引き出そうと努めており、そこでは解釈こそが批評の主要課題だとみなされている。一方わたしは、価値づけ(evaltuation)こそが批評の本質だと、それもとりわけ、芸術のカテゴリーやジャンルに照らし合わせながらなされる価値づけこそが、批評の本質だと主張する(批評は芸術作品をカテゴリーやジャンルに属する一作品としてあつかうのだ)。

(p.6)

 

わたしのいう、批評家の第一の仕事は、芸術作品を骨抜きにすることではない。むしろわたしの仮説によれば、ふつう鑑賞者たちが批評家に求めているのは、当の作品の中の見出しづらい価値を発見できるよう助けてくれること、である。一般読者は批評家に、ある芸術作品のどのような点に価値があるのかについてガイド・解説してくれることを期待している。批評家はわたしたちに向けて価値や重要性を指摘しようとし、わたしたちはそれを把握したいと思う。たしかに批評という語にはしばしば否定的なニュアンスが伴うものの、じっさいのところわたしたちがなぜ批評を読むかと言えば、それは主に、批評家が作品の価値を示してくれるからだ。

よって、わたしの主張はこうだ。ふつうの読者は、批評家を次から次に作品をけなしていく人だとは考えていないし、むしろ基本的には批評家は、文学であれ絵画であれ彫刻であれ、それぞれの専門分野において作品の質を見抜くことができる人だとみなされている。つまり批評家はそこでは、単に作品の価値づけができる人というだけではなく、その氷結を支える根拠=理由を見出すことに長けている人だとされているのである。

(p.19-20)

 

価値づけ含みの批評は、ストライクやファールをコールしているのではない。仮に芸術の適切なルールがあるとしても、それは芸術家たちに属するものである。そのようなルールは作品制作側に属するものなのだ。受容者側からしてみれば、価値づけの対象となるのはやはり効果・結果(effect)であるし、その価値づけは、ある種のルールにしたがっているかという観点からなされるのではなく、むしろ、感動的かとか、面白いかとか、知見をもたらしてくれるかといった観点からなされる。その効果・結果がある種の定石にしたがって生み出されているかどうかは、問題ではない。批評家が気にかけているのはプリンの味であり、そのプリンが定められたレシピ通りに作られているかどうかではない。

(p.36)

 

だが批評とは、ある芸術作品について価値のあるなしをただ宣言するだけのことではない。批評はその価値づけを、証拠や理由によって支える。批評を構成する他の作業ーー記述、解明、分類、文脈づけ、解釈および/または分析ーーは、最終的にたどりついた価値づけを支えるための、証拠や理由を提出する手続きなのである。

(p.62-63)

 

いつも否定的なことを書いている批評ーー欠点や醜悪な点を飽きずに指摘しつづけるやつだーーはあまりに不毛なので、そうしたやり口は長続きしないだろうとわたしは思う。わたしたちが批評に最終的に期待しているのは、価値あるものに出会わせてくれることなのだ。それがなければ、批評を読む意味はほとんどない。

(p.66)

 

何かについて、それには価値がある(もしくは単に評価すべきところがある)と言うことは、それは良い特徴を持っているとか、あるべき姿をしている、などと主張することである。もちろん先の章で指摘したように、批評家はそうした主張を自分自身のために行なっているのかもしれない。つまり、批評家は、芸術作品に対する自分の反応をはっきりと説明する批評文を書くことで、自分の反応を明確化したいのかもしれない。マルクスが、わたしたちはユートピアではそうしたことを行いながら午後を過ごすだろうと述べたとき、彼はおそらくこの種の批評を思い描いていた。

だがわたしたちの文化においては、この種の批評はそう一般的なものではない。批評はふつう、他人に提示するものとして行われる。批評家は鑑賞者のために、芸術作品の価値ある部分(もしくは価値のない部分)を特定し、その価値がどのようなものであるのか、また、その価値がどこに由来しているのかを、鑑賞者に理解させようとする。

(p.73)

 

芸術家が何を意図していたのかを知ることでーーつまり彼/女がどのフィールドでプレイしようとしてたのかを知ることでーー批評家は一連の予測・期待をすることになるし、その予測・期待は、批評家やその読者の作品理解を助けるものとなる。また、芸術家の意図を知ることは、その芸術家の作品が奉仕している目的を知ることにもつながるーーこれによって批評家は、目下検討中の作品の達成を測定するための、ひとつの重要なゴールポストを理解することになるのである。

(p.94)

 

作家の意図について語る批評家の説明が、作家本人の言葉よりも明快でありうるからといって、批評家が作家の意図を代弁することはできないということにはならない。批評家は、作家の意図をより率直かつはっきりと説明しうるし、もしかしたらそれは批評家にしかできないことかもしれない。さらに批評家は、自分は作家の言っていないことを言っているわけではないということを保証するために、作家の意図についての仮説を、芸術家本人もほとんど苦労なく理解できる言葉で、かつ芸術家がその意図を自分のものとして承認できるような言葉で、述べるよう努力すべきだ。

(p.199-200)

 

美を主観的な快の経験とみなす考え方は、批評家を趣味人(person of Taste)とみなす描像へとスムーズに移行した。というのも、芸術作品に結びつけられる快の感覚を、「外的」感覚器官に由来する快の感じと類比的に考えることは、さほど不合理なことだとは思われなかったからだ。だが、批評は美の探知のみをやっているわけではない、ということをひとたび認めるならば、批評家には趣味(Taste)以外にも多くの重要なことがある、ということも認めなければならない。

(p.223)

 

ここで求められている、批評の推論のための切符(critical inference-tickets)はどこで手に入るのか。わたしたちがその切符を手に入れる場所としてしばしば期待しているのは、芸術作品の多種多様なカテゴリーに結びついている目的や期待のところである。というのも、芸術作品が属する(諸)カテゴリーには、ある種の目的や期待がたくさん備わっているからであり、その目的・期待を満足させるような特徴は、価値生成要因(value-makers)とみなされるからである。

(p.234)

 

作品のカテゴリーを同定することで、批評家は、その作品の要点や目的をあるていど把握できる。そして作品の目的や目的の幅を知ることで、批評家は、その作品が作品固有の条件に照らして成功しているのかどうかを分析し始めることができる。さらに、その種の作品の要点や目的を知ることで、批評家は、その作品への評価を根拠づけるために記述・分析せねばならない特徴に目を向けるようになる。ステーキナイフの目的を知ることが<鋭さはその種の食器の卓越性である>という事実に結びついているのと同じように、批評家は<宗教画の目的は畏敬の念を植え付けることだ>と知っているからこそ、鑑賞者に息をのませるような作品の特徴ーーたとえば大きさや仰角ーーを、その作品の美点として記述・分析できるのである。

(p.246-247)

 

 引用ばっかりしていたら記事としてダメなので、わたしからもいくつか、思ったことや考えたことを付け加えよう。

 

 いまやインターネットで誰もが漫画や映画やドラマやアニメについて語っている時代であり、そういう意味では「一億総批評家時代」になっていても良さそうなものである。

 しかし、よく指摘されることであるが、本邦のインターネットでは思いのほか「批評」が発達していない状態にある。特にSNSでは、あれだけ多くの人たちが自分の鑑賞した作品のことについて日々つぶやいているというのに、批評は壊滅的なまでに存在しない。

 その理由は様々であるだろう。

 たとえば、「自分には、批評行為をおこなう前提となる知識や言語能力や鑑賞能力は備わっていない」という自信のなさから来るところもあるかもしれない。

 批評家という単語につきまとう「イヤなヤツ」なイメージも、人々を批評行為から遠ざける大きな要因になっているはずだ。特に日本の若者が「批判」を嫌うことはよく指摘されており、作品についてあれこれと分析して美点だけでなく欠点もあげつらう行為に対しては抵抗感を抱いている人も多いはずだ*1

 自分自身としては批評や批判に対してそこまで悪いイメージを抱いていなくても、批評行為をおこなうことでフォロワーから「イヤなヤツだ」と思われたりすることや、自分がある作品について分析して欠点を示してしまうことでその作品を好きな他の人が傷付いてしまう事態を避けるために、批評行為を自覚的に封印している人もいることだろう。

 そして、とりわけ目立つのは「批評をしてしまうと、作品が楽しめなくなる」という風潮である。いわゆる「頭を空っぽにして観ることがいちばん楽しい」的な価値観だ。この価値観は、数日前のTwitterでバズっていた下記の画像に象徴されている。

 

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引用元:

オロチュリオン on Twitter: "映画を楽しめない人と楽しめる人… "

 

 上記の画像は正確には「批評行為」ではなく「フィクションの描写と現実世界の齟齬をいちいち問題にすること」について表現しているものではあるが、そのような文脈でなくとも、「ばくはつしてる!」とか「無になった」とか「尊いすぎて言語野が麻痺した…」とか「五兆点!」とかいった、感想や分析の言語化を放棄した反応こそが最も望ましいという価値観は蔓延しているように思える*2。そして、作品の内容についてあれこれと考えてしまう人は「映画を楽しめない人」と分類されてしまうのだ。

 

 しかし、「マルクスが、わたしたちはユートピアではそうしたことを行いながら午後を過ごすだろうと述べた」(p.73)ように、批評行為とは、それをおこなう本人にとって楽しいものなのである。

 たとえば、映画を観ているときに、その作品の魅力や価値や「意図」が感じられる……すくなくとも、それらの片鱗や予兆のようなものを感じられることは多々ある。

 映画を観ながらも、わたしは頭の片隅で「この作品の価値や魅力は具体的にはどこにあるか」「この作品の意図は、作品構造や脚本やカメラワークやキャスティングなどを通じとどのように実現されているか」ということを考えはじめる。そして、作品の鑑賞が終わった後には、以前までならTwitterに、今年からはこのブログに、頭の片隅で展開されていた思考の言語化をおこないはじめるわけだ。これがわたしにとっての批評行為であり、この批評行為を始めるようになってからの方が、そうでなかった時よりも広く深く映画を楽しめるようになった。

 作品について分析するということは、作品に手中して分け入っていくことである。自室にてノートパソコンの小さな画面で作品を鑑賞するときにはそこまで集中できないことも多く、そのために批評が頭のなかで展開しなくて、ひとことやふたことの感想で収まってしまうことも多い。だが、映画館で見れば大概の場合は集中して鑑賞できるので、頭の片隅で展開される思考も活性化する。集中しているぶん作り手の意図も察しやすくなるし、価値も見出しやすくなる。だから、映画館で見て帰ってきた後には配信で見たときよりも批評がすすむのだ。ただ単に鑑賞するだけでなく、見ている最中や帰り道にあれこれと考えて、家に帰った後にそれを文章にして言語化する……ここまでひっくるめてが、わたしにとっての「映画体験」であるし、それは頭を空っぽにして見るだけのことよりもずっと充実したものであるのだ。

 さらに言うと、批評は、つまらない作品や失敗した作品を鑑賞することにすら、ある程度の充実感や意味を与えてくれる行為である。その作品はどこ意図を外したか、同じカテゴリやジャンルに当てはまる作品に比べてどこがどのように劣っているか、なぜその作品は価値を生成することに失敗したのか……これらについてあれこれと考えることも、面白い作品や成功した作品についてあれこれ考えることと同等の楽しさがあったりするものだ。

 要するに、映画は頭を空っぽにして観ることよりも、考えながら観ることの方がぜったいに楽しい、ということである。

 とはいえ、「誰しもが作品の意図を分析したり価値を判断するために必要な教養や思考能力や言語能力を持っているわけではない、能力があるとしても日々の労働に疲れていて批評をおこなう気力や余力があるとは限らない、批評ができるのは一部の特権的な能力や立場を持つ人に限るのだ」という批判はあるかもしれない。わたしはそうは思わず、「批評するぞ」という態度や姿勢を持ったうえで、考える方向さえ間違えなければ、ほとんどの人に批評行為は可能であると思う。……だが、もしそうでなくて一部の人にしか批評はおこなえないものであるとしたら、批評できるぶん映画を観る楽しさが上積みされるわたしのような人間はラッキーだし、そうでない人は御愁傷様、としか言いようがない。

 もちろん、この言い草は「批評ができない人」の側からすればカチンとくるものだろう。「頭を空っぽにして観る方が楽しい」という考え方はの利点は、それが誰にでも参入可能な行為であり、平等と民主主義を是とするインターネットの風潮と相性がいいことだ。そして、わたしだって日々の労働や家事で疲れていることは多く、そういうときには「考えなくて済むような作品を観たい」という状態になったりする。

 だから、「頭を空っぽにして観る方が楽しい」と「批評しながら観る方が楽しい」とを対立させずに並列させて両方認めるのもいいかもしれないが……やっぱり、放っておくと前者の方の意見が強くなり過ぎる傾向もあるような気がするのだ。

 

「批評」に対して否定的なイメージが広まっていることには、ほかにも要因がある。

 それは、キャロルが『批評について』で論じているような「価値づけ」的な批評が目立たず、「解釈」的な批評の方がもっぱら目立つ状況にあることだ。

 解釈的な批評とは、要するに、フロイトの理論があーだとかドゥルーズを使って読み解くとこーだとかポストコロニアルフェミニズムの観点からすればどーだ、みたいなアレのことである。

  現状、「批評」という言葉で一般的にイメージされるものは、価値づけ的な批評ではなくて解釈的な批評ではないだろうか?……すくなくとも、肩書きが「批評家」である人の本を読んでみたり、あるいは批評を集めた雑誌や同人誌や論文集なんかを読んでみると、解釈的なもの方が多くを占めているような気はする。

 読者としても、ただ単に作品の意図や価値について説明されるだけでは満足せず、さらにその先の「解釈」まで読みたいという欲求がある人は多いのだろう。書き手としても、価値づけにとどまらず解釈を展開できたほうが、批評家としての創造性を発揮してプライドを満足させやすいはずだ。だから、解釈的な批評のほうが流通しやすい、という事情はあるかもしれない。

 また、たとえば海外映画に関する評論の多くは人種差別や性差別などの社会問題や政治的ムーブメントを絡めて論じる「外在批評」であることが多い*3。キャロルの論じる価値づけ的な批評とは明らかに「内在批評」であるため、ここにも対立が存在する。

 そして、解釈的な批評にせよ外在的な批評にせよ、それらには「作品をダシにして別のことを語る」という側面が存在する。だから、個々の作品やジャンルや「漫画」「映画」といった表現形式全般への愛着が強い人ほど、それらをダシとして用いる解釈的な批評に対する抵抗感や怒りや憎悪は強くなるはずだ。それらの負の感情が、とばっちりとして価値づけ的な批評や内在的な批評にも向けられている……という事態が起こっているのかもしれない。

 

 ついでに書くと、毒舌や辛口をウリにする一部の映画批評ブログなどでは「欠点や醜悪な点を飽きずに指摘しつづける」(p.66)ことがおこなわれているのもたしかである。

 作品の意図を的確に分析したうえでその狙いが外れていることなどを示せているなら辛口な批評にも価値はあるだろうが、毒舌な批評をするという「芸」や「キャラ」が先立つようになったら目も当てられない。そういう批評家たちが「批評」のイメージにもたらしている負の影響は、想像以上に大きいかもしれない*4

 

 さて、キャロルは「批評はふつう、他人に提示するものとして行われる」(p.73)と書いているが……わたしがこのブログで映画の感想を書くときには、もちろん読者の存在も意識してはいるが、「自分の反応を明確化したい」(p.73)という動機のほうが大きい*5。だから、正確には、わたしのやっていることは批評だとは言えないかもしれない。

 また、『批評について』のなかでは、価値づけが「理由」にもとづいたものであることや、価値づけが客観的なものであることの重要性が強調されている。わたし自身、ちゃんとした批評を書くときには理由にもとづいた価値づけをおこなうようには意識しているが、批判的な批評をおこなう気すら起こらないようなどうでもいい作品なんかは、自分の主観的な感情だけにもとづいて切り捨ててしまったりもする。

 理由と感情、主観と客観が曖昧になったり入り混じったりした批評/感想を書いてしまうことも多いし、自分では客観的なつもりの理由が実は主観的なものであるかもしれない……などなど、ここら辺は批評を本業とするプロフェッショナルな人でも悩まされるところだろうが、査読や編集などによって外部の目の入らない個人ブログでは、さらに深刻な問題になりえるところだ。プロと違ってお金が発生したりなんらかの義理や責任が存在しているわけではないのだから、開き直って好き勝手言ってしまえばいいのかもしれないけれど。

 それに、カテゴリーやジャンルの同定にも困難なところはある。たとえば、わたしは「ジャンル映画だからといって"そのジャンルのファン内で共有されたお約束"に甘えて描写や設定を手抜きすることは、その作品の欠点や価値の喪失につながる」という考え方をしているが、どこまでが「怠惰な"お約束描写"」でありどこまでが「そのジャンルならではの価値や効果を生成するのに不可欠な描写」であるのか、と見定めることはなかなかに難しいものであるのだ。

 

 最後に、もうひとつ。

「インターネットでは思いのほか批評が発達していない」と先ほどに書いたが、TwitterなどのSNSは批評に対してさほど貢献をしていない一方で、「みんなのシネマレビュー」や「Filmarks」といった映画レビュー投稿サイトは、いい意味で批評の裾野を広げる効果を発揮しているように思える。また、在りし日の「The男爵ディーノ掲示板」なんかは、集合知がうまく機能していたような思い出がある。毎週、コテハンたちが週刊少年ジャンプの批評を好き勝手に書きあって論じあったりしている様子を眺め続けたことは、批評の何たるかというものを私にわからせてくれた。

 レビューサイトや掲示板に投稿する"批評家"たちは、雑誌に投稿したり単著を出版できたりするようなプロの批評家とはちがって、なんの権威も持たないし、批評をすることが仕事や義務になっているわけでもない。また、解釈的な批評を行おうとしても解釈をするための理論を持てない人が大半であるし、そもそも金にも名声にもつながらない場所で解釈的な批評を行おうとする人は少ないものだ。

 だから、個々人が作品に対して自発的かつ素直に向きあって、「あそこは良かった」「ここが悪かった」と"価値づけ"を行なっている。その大半は主観的で感情的なものであったとしても、たとえば掲示板で論争となって他人を説得したり論破したりするためには「理由」の提示が必要とされる。そんな経緯で「批評」をおこなうようになった……という人も、あちこちにいることだろう。

 

*1:とはいえ、ロッテントマトの観客スコアと批評家スコアとの乖離、それによって生じる「批評家スコアが低くて観客スコアが高い映画こそ真に面白い映画だ」といった一部の映画ファンにおける風潮を見ると、海外でも批判嫌いや批評嫌いは一般的なものかもしれない。

*2:

theeigadiary.hatenablog.com

*3:

theeigadiary.hatenablog.com

*4:もしかしたら、他の人たちからはこのブログも「辛口映画批評ブログ」だと思われていたり、わたし自身が「毒舌な批評家」だと思われているかもしれないが、それは不当だと言っておく。批評の結果として辛口になったり毒舌になったりすることは多々あったとしても、わたしは、辛口や毒舌を目的として批評しているわけではないからだ。

*5:そもそも、映画"日記"だし。