THE★映画日記

映画(たまに漫画や文学)の感想と批評、映画を取り巻く風潮についての雑感など。

『ファイト・クラブ』

 

Fight Club (字幕版)

Fight Club (字幕版)

  • メディア: Prime Video
 

 

 

 ジョセフ・ヒースの『反逆の神話』を読んでいるうちに観たくなったので、10年ぶりくらいに再視聴。

 ヒースが指摘しているようにいまでは陳腐化したカウンターカルチャーの価値観が多少作品に反映されているので、100%ノることはできない。ただし、デビッド・フィンチャー自身がカウンターカルチャーにそんなに興味がないためか価値観を相対化して描いている風でもあり、エンタメとして普通に楽しめる出来栄えになっているのがいいところだ(というか、おそらく「価値観」全般に実のところあまり興味がないタイプの監督であるような気がする)。

「男の理想」な格好よさを体現する存在であるブラッド・ピット、そしていかにも不眠症になっていそうな神経質さやひ弱さを体現するエドワード・ノートンと、配役もこれ以上ない出来栄えだ。

 作中におけるサブリミナル的な仕掛けや最後の大オチはいま見るとありきたりで古臭い感じは否めないものではあるが、この作品がそういう仕掛けをほどこすタイプの映画の元祖的な存在であることはもちろん承知しているので、ここは批判点にならない。オチの種明かしをした後にも、ストーリー的にもそこからがクライマックスとなって印象的な画面を多々作れているのも魅力的である。

 

 むしろ、この作品の時代性をより強く感じるのは「男性性」(イマドキの言葉で言うなら「有害な男らしさ」)の描き方である。不眠症な主人公はもちろんのこと、ボブ(ミート・ローフ)やエンジェル・フェイス(ジャレッド・レト)を始めとするタイラー(主人公)のシンパ連中は明らかに病理的な存在として描かれているし、「男性性」への批判的視座も含まれているはずなのだが、なにしろブラッド・ピットが演じるタイラー・ダーデンが格好良すぎる。格好良すぎて、「最高の映画キャラクター100人」の1位に輝いてしまう始末だ

 男性性の物語であるとはいえ、ヒロイン(ヘレナ・ボナム=カーター)が完全に添え物的な扱いであるところも旧弊的ではある。いま『ファイト・クラブ』を作るとしたら、ヒロインの存在感をもっと強くするか、むしろ男性性の病理を強調するためにヒロインを設定しないか、あるいは完全にモノ扱いされる存在として描くか、いずれかになるだろう。

 そして、タイラー・ダーデンをここまで格好良く描くことはできない。……作品の設定的に主人公の「男性性に対する理想」が投影された存在として描かなくてはならないが、なにかしらの問題点を強調したり「投影」であって非現実的な存在であることを露骨にしたりして、まかり間違っても観客が「最高の映画キャラクター100人」に投票しようとは思わないような存在にしなければならない。それくらい、1999年に比べて2020年では「男性性」が問題視されて否定されているのであり、現代の監督が『ファイト・クラブ』を撮ろうとしたら男性性はとことん病理化して描かないと許されない(すくなくとも、批評家からの評価は得られないはずだ)。 

 だからこそ、1999年という、男性性に対する批判的視座が多少は芽生えつつもその批判の度合いは現在に比べるとずっと甘くて、「有害な男らしさ」を格好良く描いてしまっても怒られない牧歌的な時代にこの作品が制作されたことは、僥倖だと言える。だって、「男性性の病理」が強調され過ぎてエンタメ性が薄れてしまい、タイラー・ダーデンが格好良く描かれない『ファイト・クラブ』なんて、なんの価値もないからだ。

 ロマンティックなラストシーンに強調されるように、なんだかんだでこの作品はナイーブであり男性によって都合のいい物語であると思うのだが、そのために、カウンターカルチャーで文明批評的でポストモダンな物語でありながらもエンタメとしての「王道」を貫くことに成功している。それこそが『ファイト・クラブ』のいいところであるのだ。