THE★映画日記

映画(たまに漫画や文学)の感想と批評、映画を取り巻く風潮についての雑感など。

『ミリオンダラー・ベイビー』:安楽死映画とか障害者差別映画とかじゃねえんだよ

 

ミリオンダラー・ベイビー (字幕版)

ミリオンダラー・ベイビー (字幕版)

  • 発売日: 2013/11/26
  • メディア: Prime Video
 

 

グラン・トリノ』劇場公開当時、朝っぱらから大学の図書館でこの作品を観て、夜になってから劇場まで『グラン・トリノ』を観に行った思い出がある。というわけで12年ぶりの再視聴だ。

 とはいえ、当時からオチを知っていたがために、終盤の展開に衝撃を受けなかったのは残念なことだった。鑑賞後も終盤の展開ばかりが印象に残ってしまっていたのだが、今回改めて観てみると、前半の展開が存外にもかなり面白くてびっくりした。

 頑固オヤジで口は悪いが根は優しいフランキー・ダン(クリント・イーストウッド)、ぱっと見は映えないし貫禄はないものの素直で真面目で根性に溢れていて気の優しい好青年風の性格をしたマギー(ヒラリー・スワンク)、そして二人の間をとりもつお節介で気の利くエディ(モーガン・フリーマン)と、主要人物たちは少々テンプレ的ではあるもののみんな魅力的な人間性をしている。最初はマギーを鬱陶しがっていたフランキーが彼女の真摯さと根性に胸を打たれて徐々に彼女の師匠になっていく、という過程の描きかたも絶妙だ。フランキーがマギーのことをほとんど娘のように(しかし、いくぶんは恋愛的な感じもありそうに)大切にして愛していく過程がじっくり丁寧に描かれているからこそ、終盤のフランキーの葛藤と決断が観客にも重たく響くのである。

 また、マギーとフランキーの物語に直接には関わらないものの、エディとデンジャー(ジェイ・バルチェル)の物語もサイドエピソードとして素晴らしい。ほとんど絶望的な雰囲気のまま物語が終わろうとした時に、ひょっこりとデンジャーが出てくる塩梅は実に絶妙だ。彼のおかげで、後味が悪くないどころかある種の前向きさすら感じられる視聴感になっている。『チェンジリング』もあんなに悲劇で胸糞な物語なのに終わり方が爽やかなのがすごいと思ったが、並大抵の監督にできることではないだろう。

 

 ただし、この映画には明確な欠点がある。『シネマ坊主』で松本人志も指摘していたが、悪役があまりに俗物に描かれ過ぎていてリアリティを失っているのだ。特に、母親を筆頭にマギーの家族の描かれ方はあまりにひどい。自分がずっと優しく接し続けていた母親が自分に対してなんの愛情も持たないロクデナシだったことがマギーの最後の決断のきっかけとなるわけだから、マギーの母親を悪役で俗物に描くことは物語的に必要だったとはいえ、ディズニーランドに行った帰りであることを隠そうとしなかったりペンを乱暴に口からぶん取ったりなどの醜悪さはちょっとそこらへんの安っぽいYouTube広告とかTwitterの白ハゲ漫画とかのそのレベルの作り物っぽさだ。実際にこういう人が世の中にひとりも存在しないとまでは言わないが、主要人物たちの人間描写や感情描写がしっかりしているだけに、違和感がすごい。この欠点さえなければ完璧に近い作品となっていただろうに……。
 ついでに言うと、冒頭からアンソニー・マッキーマイケル・ペーニャなどのMCU組が一緒に出演していることに気付けたのは楽しかったが、アンソニー・マッキーモーガン・フリーマンを引き立たせるために俗物なロクデナシ役をあてがわれていて気の毒だった。

 他のサブキャラとしては、教会の神父(ブリアン・F・オバーン)は出番は少ないながらもフランキーの背景や彼の葛藤を言語化して観客に説明してくれる、いいポジションのキャラクターであったと思う。

 

 さて、この映画は安楽死を肯定しているとのことで障害者の権利団体から批判された経緯がある*1。しかし、公開当時の観客の反応を調べても「まさかあんな展開になるとは思わなかった」というのが散見されるこの作品は、公開時点から「安楽死映画」とは宣伝しておらず、あくまで「女性ボクサーとその師匠との間の絆を描いた作品」という立ち位置であったのだろう。

 実際、マギーが頸椎を損傷して寝たきりの状態になるのは全体の3分の2以上を経過してからであり、それまでは健常者としてのマギーの成長と活躍が描かれているのだ。この構成は、観客に衝撃を与えるというためだけでなく、マギーとフランキーの決断に観客が納得できるようにするため……つまり、「この性格をしたマギーが、人生の絶頂を迎えた直後にこんな経験をしたら、彼女だったら安楽死の決断をするだろうし、マギーと絆を紡いできたフランキーはそれを後押しするだろう」ということを観客がすんなり理解できるようにするためのものだ。要するに、『ミリオンダラー・ベイビー』は「障害者の安楽死」を描いた作品ではなくて、あくまでマギーとフランキーという個人の関係や決断を描いた物語なのである。

 ある作品の特定の描写が「差別的だ」とか「偏見を助長する」とか批判されるときは、往々にしてその作品のキャラクターの人格が無視されるものであるが、『ミリオンダラー・ベイビー』に対する「障害者差別的な作品だ」という批判は特にそれが際立っている。他の作品に比べてもかなり人物描写が優れた作品であるし、また、マギーのように安楽死を選択したり選択することを望んでいたりする人が実際に多かれ少なかれ存在しているのはみんな知っていることだからだ。だからこそ、安楽死という選択肢を否定したい勢力は安楽死支持派に少しでも共感や同情を集めてしまう危険性のある作品を排除したくなるのだろうが、ここら辺は安楽死をめぐる論争に特有の泥沼感がある*2

  

 とはいえ、アメリカでは障害者の権利活動家だけでなくキリスト教右派からもかなり批判された『ミリオンダラー・ベイビー』ではあるが、だからといって「リベラル」な作品でもないことは明確だ。むしろ、イーストウッドらしいリバタリアニズムが強調された作品である。……安楽死をめぐる選択だけでなく、俗物で悪人であるマギーの家族が生活保護を政府からだまし取っているという設定にも、それがあらわれているかもしれない。

 弱者や少数派との連帯が叫ばれて映画関係者にもウォークが増えてきた2020年の現在にこの作品が公開されて当時と同じようにアカデミー賞を取ったりでもしたら、さぞや問題になることは火を見るより明らかだ。イーストウッド自体、90歳になる現在でも淡々と映画を公開し続けているものの、アカデミー賞といったメインストリームはそろそろ場違いな感じが強くなっている。しかし、時代の流れに媚びたり従ったりせず、場違いでもいいから自分なりの作品を作り続けることこそが、芸術家とかクリエイターには本来求められることである。この当たり前な感覚をマジで忘れかけている最近のアメリカのエンタメ業界とそれに尻尾を振る本邦の批評家や輸入家の連中の方が異常なのだ。

 ……というわけで、さすがにそろそろお陀仏になるであろうイーストウッドの後を継げるような、保守(リバタリアン)な作品を堂々と撮れる作り手があらわれて欲しいところである。

*1:日本語版のWikiでは作品に対する批判的意見が強調されているが、英語版はもっと中立的だ。

*2:

davitrice.hatenadiary.jp

そして、性差別の問題や人種差別の問題に比べて「代表」が存在しない問題であるというところも、安楽死に関する論争の独特なところだ。女性差別の問題であれば女性が、黒人差別の問題であれば黒人が、差別される側の代表にとりあえずなれるだろうが、安楽死の場合、「障害者」であるからといって代表になれるわけではない。障害があるために安楽死を望む人と、障害があるからこそ安楽死に反対している人とでは、問題の捉え方や利害が真逆であるからだ。