THE★映画日記

映画(たまに漫画や文学)の感想と批評、映画を取り巻く風潮についての雑感など。

『インターステラー』

 

インターステラー(字幕版)

インターステラー(字幕版)

  • 発売日: 2015/03/25
  • メディア: Prime Video
 

 

 2014年の公開当時には、もちろん劇場に観に行った。しかし、ノーラン映画のなかでもとりわけ複雑な構成をした作品だということもあり、観た当時は何が起きているか正直よくわからない部分もあって、イマイチ楽しめなかった記憶がある。愛がどうこうという部分はちょっと恥ずかしくて白けてしまったし、主人公のクーパー(マシュー・マコノヒー)がブラックホールを抜けた先にある四次元空間に到達してぷかぷか泳ぎながら本棚の隙間から過去の娘や自分を覗いたり本をパタパタと落とすシーンは絵面の間抜けさや荒唐無稽さが先立って、「シリアスな映画」として楽しんでいいのかどうかよくわからずに戸惑ってしまった。2年ほど前にもNetflixで再視聴したが、そもそも小さいスクリーンで観るべき映画ではないということもあって、その時も「あーこんな話だったのね」と伏線やストーリーを再確認するという感じになってしまったものである。

 しかし、今回はじめてiMAXで観てみると、これがかなり面白かった。地球でのシーンに関しても実際にトウモロコシを栽培して畑ごと燃やしたという有名なエピソードがあるが、SF映画らしく、宇宙や惑星のシーンが大迫力なうえにセンスオブワンダーを感じられて、これぞiMAXで観るべき作品だと認識を改めた。水の惑星での山のような大津波に氷の惑星で凍っている雲、静かで圧倒的な土星の存在感に(マン博士のせいで)母船がクルクル回りながら遠ざかっていく絶望感、ブラックホールワームホールのファンタジー感など、アクションに特化した『ダークナイト』や臨場感がウリだった『ダンケルク』とはまた違った価値があるのだ。

 そして、オチやストーリーを知っていても…というか知っている状態で改めて劇場で観るからこそ、宇宙組がマン博士(マット・デイモン)の氷の惑星に到達する/マーフ(ジェシカ・チャステイン)がブランド教授(マイケル・ケイン)の死とウソを知るシーンから始まって、宇宙でのマン博士の裏切りと地球でトム(ケイシー・アフレック)とマーフとの間の緊張が発生して、そして母船とのドッキング〜ブラックホール突入にトウモロコシ畑の炎上とマーフの部屋で手がかりを探そうとする場面が同時進行で描かれる、一連のシーンのハラハラ感が存分に楽しめるのだ。なにしろハラハラする場面が数十分単位で続くうえに宇宙と地球との同時進行なので構成も複雑であり、初見では何が起こっているかよくわからず、かといってPCのモニターで観ていても集中力を持続させるのが難しいので、これは劇場での再鑑賞ならではの楽しみだった。

 

 映像のことは置いておいて、ストーリーの話をすると……いつも言っていることだが、わたしはSFというジャンルがそれほど好きではないし、ロマンが強調される宇宙ものは特に苦手だ。『インターステラー』のなかでも序盤に登場する「宇宙開発への投資ってカネと資源の無駄じゃん」と言うキャラクターが近視眼的な考え方しかできない俗悪な小市民として描かれていたが、わたしも「無駄じゃん」と思うタイプである。また、『インターステラー』が明らかに意識しておりプロデューサーなどの関係者が同一な作品でもある『コンタクト』なんかは、むしろ嫌いな作品だ(理系のロマン主義と選民意識、そして監督ロバート・ゼメキスの保守的で幼児的な勧善懲悪趣味が一体となった、いろんな意味で醜悪な作品だと思う)。

 しかし、相対性理論による時間の時間の遅れがどうこうという点は単に物語のテーマや科学的リアリティという以上にストーリー面での仕掛けに効いており、そのおかげで他の映画にはないような展開や描写が盛り沢山になっている。水の惑星でちょっとトラブルがあっただけで23年という取り返しのつかない時間を失ってしまうという絶望感溢れる展開は、マン博士の裏切りと並んでこの映画の中でも最も印象的なところであるかもしれない。

 時系列を飛び越えて冒頭と終盤がつながり、クーパーとマーフが感動の再会をしたりクーパーがジェネレーションギャップを感じたりするシーンも素晴らしい。このクライマックスの後の終盤の展開に関しては、散々ハラハラドキドキしたうえで四次元空間というファンタジー描写がドカンと出た後に「ここで冒頭とつながるのか」という驚きを与えたうえでジョークも交えながらゆっくりしんみりした展開にする、というメリハリが効いていて、映画を見終わった後にはかなりの爽快感が得られる…という仕上がりになっている。途中でドイル博士(ウェス・ベントリー)を失ったりロミリー博士(デヴィッド・ジャーシー)が踏んだり蹴ったりの悲惨な目にあった末に死んでしまったりなどのかなり暗く重たい展開が続くのだが、最後まで観た頃にはポジティブな印象が優っていてまったく後味が悪くないのだ。

 宇宙や物理学に関する知識だけでなく、クーパーとブランド博士(アン・ハサウェイ)が愛を議論するシーンやマン博士の演説で進化論的な考え方に触れられるところも気が利いている。TARSやCASEなどのロボットたちの魅力もバツグンだ。登場人物全員が理系であり文系の出る幕がまったくないお話であるところはちょっと気になるが、一部のSF作品にあるような嫌気が感じられるほどではない。

 

 他のSF作品のような嫌気を感じない一因としては、理系や科学とその背景にある「理性」と「人間の意志」を絶対視せずに、どれだけ崇高な目標と立派な人格と高度な能力を持った人間でもいつ"闇落ち"するかわからない……という世界観が徹底されていることがあると思う。散々前振りされたうえでサプライズ的にマット・デイモンの姿をして登場するマン博士は、ブランド教授やトムと並んで闇落ちしてしまった人物であり、「自然に善悪はなくて、悪は人間に宿る」というこの映画のテーマのひとつを象徴するキャラクターだ。

 ここの「悪」の描き方は賛否両論あるだろうが、同じくマット・デイモンが大活躍する『オデッセイ』のように素朴に素直に科学と人間の意志を肯定して讃えるよりかは、『インターステラー』のように負の面を描く方が物語や作品として誠実で上等であるだろう。

 重要な場面で何度か出てくる「穏やかな夜に身を任せるな」の詩にはポジティブな意味を持たされつつも映画内では不穏さを醸し出す扱われ方もしており、ここら辺の演出や高尚さも、さすが”巨匠”感溢れるノーランならではだと思った。

 

 アン・ハサウェイはロングヘアーの方が魅力的だとかやっぱり四次元空間でプカプカ浮かんでいるのは絵的に間抜けさが先立ってクライマックスの説得力を減じているんじゃないのとか、文句を付けられる箇所はいくつかあるのだが、2010年代の映画のなかとかノーラン映画のなかとかいう枠を超えて、映画史レベルで偉大な作品であることは間違いない。宇宙と時間が絡むSFという設定に脚本や構成などの技術面と物語的なテーマをがっちり噛み合わせたこと、清濁併せ吞んだ"深い"お話であること、映像面でも役者面でも惜しみなく豪華であること……などなどがその理由だ。

 わたしのなかでは、これまで『インターステラー』はノーラン作品のなかでは中くらいの評価だったのだが、今回改めて再視聴したことで一気にトップに躍り出た。繰り返しになるが、これこそiMAXで観るべき作品である。