THE★映画日記

映画(たまに漫画や文学)の感想と批評、映画を取り巻く風潮についての雑感など。

『クレヨンしんちゃん 激突! ラクガキングダムとほぼ四人の勇者』

 

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 クレヨンしんちゃんの映画を劇場で見るのは2016年の『クレヨンしんちゃん 爆睡!ユメミーワールド大突撃』に続いて2回目。他には、『オトナ帝国の野望』や『戦国大合戦』はもちろんのこと、『夕陽のカスカベボーイズ』や『栄光のヤキニクロード』や『逆襲のロボとーちゃん』など、「名作」と評価の高いもの数作を配信で観ている、という感じ(『ユメミーワールド』に関しては当時に先に観た友人が「今回は名作だ」と語ってきたから劇場で観た、という経緯)。

 というわけで決してシリーズのファンというほどではないのだが……ドラえもん映画が毎回毎回感動のゴリ押しをしてきていつも同じメンツが同じような仕方で活躍をするという一定の枠内に収まっており野心や創意工夫が感じられずにつまらないのに比べて、しんちゃん映画はパターンを変えてくる場合が多くテーマも多様であり冒険的な作品も定期的に出てきてと、映画としての「志の高さ」はドラえもん映画としんちゃん映画との間には圧倒的な差がある(ポケモン映画については言及するまでもない)。だから、「しんちゃん映画」というシリーズについては、映画ファンとして好意的な気持ちを抱いている。プロモーションだけはドラえもん映画の方がうまいので、毎度毎度あちらの方が話題になるのだけれど。

 

 それで今回の『クレヨンしんちゃん 激突! ラクガキングダムとほぼ四人の勇者』であるが、今回は「しんちゃんが個人でかすかべの危機に立ち向かう」という点が野心的であると言える。風間くんやマサオくんなどのかすかべ防衛隊はおろか、ひろしやみさえなどの家族も敵軍によって囚われており、ただ一人紙ヒコーキの状態になって風に飛ばされて春日部から脱出したしんちゃんは富士山麓に到着して、春日部のみんなを救いに向かうことになる。そこで旅の道連れになるのが、ミラクルクレヨンによって実体化されて生命を与えられたブリーフ・ぶりぶりざえもん・ニセななこという3体の「ラクガキ」たち、そして春日部を訪れたまま行方不明になった母親を探すためにしんちゃん一行に同行するユウマだ。

 富士山麓から春日部までの道中ではラクガキたちとしんちゃんとの交流を描く場面はロード・ムービーのような趣である。また、儚い存在であるラクガキたちが最終決戦でひとりまたひとりで散っていく展開は戦争もの映画(『ローグ・ワン』など)の定番という感じであるが、ロード・ムービーのパートでしっかり交流が描かれていただけに散っていくシーンもそれなりに感動的である。そして、ラクガキたちはしんちゃんのイマジナリー・フレンドに類する存在であることを考えると、チームで世界(春日部)の危機を救うチームものであると同時にしんちゃん個人の内面が重される私的な物語といえなくもないし、児童文学的なよさもある。かすかべ防衛隊や野原家などの「いつもの連中」に頼れば感動的なストーリーを安定して量産することが可能であるところを、あえてそれに頼らずにしんちゃん個人に焦点を当てた物語を描いた、というのがいちばん評価できるポイントだ。

 ……しかし、途中から旅に合流するユウマの存在のせいで、物語の焦点がブレてしまうことになり、物語にせっかく存在した文学性やラクガキたちが散るシーンの儚さなどもだいぶ減じられてしまう。さらに、春日部に到着してからはしんちゃんとユウマは別行動になり、ラクガキキングダムの王女さまがユウマと一緒に行動したりなどして、話がどんどんブレてしまうのだ。ユウマがSNSタブレットを駆使するあたりも取って付けたような描写であり、「現代の物語です」「テクノロジーも否定していません」というエクスキューズ以上のものになっていない。ユウマの存在はまるまる削って、春日部に囚われた仲間や家族たちのシーン以外はあくまでしんちゃんとラクガキたちとの物語に徹底しておいた方が絶対によかっただろう。

 そして、この映画のなかでも明確にダメな場面は、いちどはしんちゃんによって救われた大人たちがしんちゃんがラクガキクレヨンを使い切ったことを知って文句を言い出したりしんちゃんを糾弾したりするシーンである。「助けに来てくれたヒーローが自分たちの思い通りにならないと市民たちが文句を言いだす」というのは『ワンパンマン』などではありがちな展開であるのだが、このテの「衆愚」描写って基本的にストレスが溜まるし陳腐であるしリアリティもないしで、百害あって一利なし。糾弾の対象がしんちゃんとユウマに散ってしまうところも、構成の失敗が表出している。クライマックスの展開にてユウマによる公共のスピーカーを使った発破で子どもたちがラクガキをはじめて、それを見た大人たちも改心してラクガキをはじめて……という展開につなげる「タメ」のシーンであることは承知なのだが、それにしたってぎこちない。また、そのクライマックスの展開も、使命感や危機感に駆られてはじめる時点で「自由なラクガキ」でもなんでもないんだから、作品の冒頭から強調されるテーマそのものと矛盾しているのではないかと思った。

 

 いつもならオープニングに用いられる粘土アニメーションをエンディングにまわして、オープニングの音楽もなく、ラクガキキングダムに訪れた異変をズバッと描いてラクガキが動きまわる不気味なシーンを挿入する冒頭シーンはなかなか優れている。「いつものしんちゃん映画」ではない、新しい物語を描くぞという意気込みが伝わってきた。それだけに、後半になって、この映画独自の構成やテーマ性への意識が薄れてアニメ映画やしんちゃん映画として定番な展開に回収されてしまうところは残念だったといえよう。