THE★映画日記

映画(たまに漫画や文学)の感想と批評、映画を取り巻く風潮についての雑感など。

『007』シリーズ:『ロシアより愛をこめて』+『カジノ・ロワイヤル』+『慰めの報酬』+『スカイフォール』

 

 

 

 

 

 わたしは『007』シリーズの熱心なファンではなく、劇場で観たのもこの記事を書いている時点での最新作の『スペクター』のみ。『スカイフォール』が公開当時に騒がれていたのだが、当時はまだアクション大作映画を個人的に面白いものだとは思っておらず、またDVDで観た『カジノ・ロワイヤル』がどうにもつまらなかったので、スルーしてしまったのだ。しかし、『スペクター』が面白かったので直後にDVDで『スカイフォール』を観たらこれも面白く、内容的にも「劇場で観ればよかったな…」と後悔したものである。

 旧い作品に関しては大学の図書館にDVDが揃っていたので、『ゴールドフィンガー』を観たらまあまあ面白く、それならばと続けて『ダイヤモンドは永遠に』を観たらあまりに締りがなくダラダラとつまらない作品だった思い出がある。ただし、これはほぼ10年前の記憶だ。

 

 そしてPrime Videoでシリーズ全作が一挙無料開放されたということで、かなり久しぶりに『007』を観てみることにした。

 まず名作と名高い『ロシアより愛をこめて』を観てみたが、これはちょっと古過ぎて、現代人に耐えられるものではない。ショーン・コネリーは毛深過ぎて不潔感が漂うし、ボンドガールのダニエラ・ビアンキがものすごく美人でエロいことは認めるが、人格や人間性というものを感じられるキャラクターになっていない。トルコかどっかでエロい格好した女の人が踊る描写もオリエンタリズムとセクシズムの抱き合わせでふつうに不愉快。もちろん昔の映画だから仕方がないとは言えるのだが、時代制約的な偏見描写やステレオタイプ描写が許されるのは、それを補って余る面白さが作品にある場合に限る。しかし、ストーリーはトロくてアクションはモタモタしていて敵はアホみたいで、そのくせ各陣営の関係性は妙に複雑でと、いいところがまるで見つからない(列車のなかで襲ってくる金髪の敵キャラはそれなりに貫禄があったと思うけれど)。これが名作と評されるのは、「公開当時にしてはすごい」というボーナスによるものでしかないと思う。

 

 後日、『カジノ・ロワイヤル』から『慰めの報酬』に『スカイフォール』と、『スペクター』を除くダニエル・クレイグ版ボンドを一気に視聴。

 しかし改めて見たら、どの作品もどうにも楽しめきれず、惜しさが残る。『カジノ・ロワイヤル』に関しては、マッツ・ミケルセン演じる敵キャラはキャラクター性が濃くて格好良いし、エヴァ・グリーンが演じるボンドガールも実に魅力的。しかし、マッツ・ミケルセンが途中で退場してからは緊張感が途切れて締まりのない展開になるし、最後に描かれるエヴァ・グリーンの裏切りもどうにも尺が長くて押し付けがましい。青臭いボンドの姿は新鮮だし、作品がやろうとしていることもわかるんだけれど、2時間半もかけて描くような内容ではないと思うのだ。

 カジノにおけるポーカーのシーンも、すぐにトラブルが発生したり別の舞台でのアクションシーンが挿入されたりするせいで、ゲームの展開が追いづらいし、「手に汗握るギャンブル」としての純粋な面白さは描けていない。そして、『カイジ』や『嘘喰い』を読んできた身としては、これは実に物足りない。なんか「無駄に展開を複雑してあとは緊張感あふれる雰囲気を演出すれば、それでギャンブルを描けた感じになるだろう」といった甘えを感じるのである。

 

慰めの報酬』は世評の通り大したことのない作品だ。なんといっても、マチュー・アマルリック演じる敵キャラクターがあまりに小物っぽくてしょぼ過ぎて、「こいつは中ボスだろうから大ボスはいつ出るんだろう」と思っていたら出てこなくで逆にびっくりしたし、俳優としてもちょっと顔に締まりがなくて前作のマッツ・ミケルセンの後にこいつなもんだから余計に「なにこれ?」感が漂う。とはいえ、オルガ・キュリレンコ演じるボンドガールはエロいしキャラクターも活き活きしていて素敵。ジェマ・アータートン演じるストロベリー・フィールズが一瞬にしてボンドに落とされてしまうチョロさも、それが仇となって殺されてしまう気の毒さもなかなか印象的だ。

 なにしろ上映時間が短いし、ストーリーもシンプルなので集中力も入らず、観るのにエネルギーがいらない点も悪くなかった。

 

 そして『スカイフォール』。最初に観たときは面白かったこの映画も、改めて観てみると、ハビエル・バルデム演じるラウル・シルバの動機がショボい私怨に過ぎて、ストーリーの世界観がかなり狭くてしょうもなく思えてしまう。ジュディ・デンチ演じるMとボンドが道連れになるくだりはシリーズの他作品がないような独特さもあるし、後半の展開は意外かつスリリングなものであることはたしかだし、ベレニス・マーロウ演じるボンドガールがあまりにも呆気なく退場するシーンはかなり衝撃的だし、ナオミ・ハリス演じるマネーペニーもいいキャラしている。だけれど、たとえば「悪戯」や「演出」が好きなラウル・シルバにはジョーカーやレックス・ルーサーやグリーン・ゴブリンといったアメコミ作品のヴィランを彷彿とさせて、それなら荒唐無稽に振り切ったアメコミヴィランのほうが魅力的だ。世界を巻き込んだ風でいながら身内同士の私怨による内輪揉めでした、という展開も、悪い意味で実にアメコミ映画っぽい。

 つまり、『007』シリーズを観ていると、「アメコミ映画がここまで発達した現代ではもういらないんじゃない?」と思えてしまうのである。「古き良きスパイ映画」としての洒脱感や面白さは『コードネームU.N.C.L.E』のほうがずっと優れているし、かといって現代の世界情勢にマッチした展開が最近の007作品でやれているというわけでもないように思える*1。『カジノ・ロワイヤル』以降は「青臭さ」や「人間味」や「成長」を描いてきたといっても、結局のところジェームズ・ボンドはかなり虚構性が高いうえに超能力(女を一瞬で落とせること)すら持っている荒唐無稽なキャラクターなのであって、じゃあバットマンキャプテン・アメリカですらリアルな人間として描写できるようになった現代においてボンドなんて中途半端なキャラクターをわざわざ描く必要はあるのか?という気がしてしまうのだ。

 もしかしたらテーマ設定の仕方や画面の構成、アクションシーンの描き方などに『007』シリーズでないとできない、唯一無二のオリジナリティや一本筋や志が含まれていたりするのかもしれないが、わたしにはそれが見えてこなかった。

 

 とはいえ、ひたすら女性が甘やかされて男が貶められる昨今のポリコレ映画情勢において、描写の面でもテーマの面でも様々なアップデートをはかりながら、それでもなお「女はボンドにコロッと落とされるものであり、二人に一人は死ぬものである」と言わんばかりのミソジニックとも言える展開を続けているところには、『007』のオリジナリティと価値があると言えるかもしれない。なんだかんだ言ってこの「様式美」には面白さがあるし、ある種のリアリティだって含まれているのだ。逆に言えば、それをなくしてしまったらいよいよ持って『007』シリーズを作る価値はなくなる。となると、ボンドを黒人やアジア人にすることは全く問題ないし、両性愛者や同性愛者にしたらむしろさらに深みが増しそうだが、女性にだけはしてはいけないだろう。