THE★映画日記

映画(たまに漫画や文学)の感想と批評、映画を取り巻く風潮についての雑感など。

"映画批評"についての覚え書き

 

 

批評について: 芸術批評の哲学

批評について: 芸術批評の哲学

 

 

 

 映画を楽しんだり評価したりする際に何を重視するか、というのは映画ファンの間でも人によって異なるところだ。例えば、撮影の仕方や画面の作りなどは凡庸でもストーリーが素晴らしければそれでヨシ、とする人もいれば、ストーリーよりもむしろ画面の構成や役者の演技などの細かい部分が隙なくか輝いていることを評価する人もいるだろう。脚本を評価する場合にも、大筋のプロットを重視するか登場人物同士の会話などの細部を重視するかで分かれるかもしれない。また、映画のなかに登場するキャラクターたちを最重要視する人も多いだろうし、出演している俳優を何よりも評価する人もいるかもしれない。 

 映画というメディアは小説や漫画や演劇と比べてずっと多くの要素から成立するために、「どこを重視するか」ということは人それぞれに分かれてしまう性質がある。そのため、ある人が全く評価しない作品が他の人にとってはベスト級の作品となることもあるだろう。…しかし、だからといって「どんな映画にも何かの点で何かしら面白いところがあるのだから、良い作品とか悪い作品とかいうものを客観的に決めることはできない」という考え方は誤りである。数多く映画を観ていると、人それぞれの好き嫌いの範疇を超えて「良い作品(上質な作品、レベルの高い作品)」と「悪い作品(低質な作品、レベルの低い作品)」との違いがたしかに存在するということがわかってくるものなのだ。

 基本的には、映画を構成する各要素(プロット/台詞/俳優/撮影...etc)がいずれも一定の基準を超えつつ、さらにそのうちいくつかの要素が飛び抜けている作品が「良い作品」であるように思える。逆に、複数の要素が一定の基準を超えなかったり、特定の要素が飛び抜けてひどい作品は「悪い作品」になりやすい。

 とはいえ例外もあり、たとえば低予算の映画では全ての要素を基準以上にすることは難しいから、監督が工夫や意図をはたらかさせてあえて特定の要素を切り捨てて別の要素を強調することで作品の質を上げる場合があるようだ。要するに、制作側が「狙い」をはたらかせていて、なおかつその「狙い」が的を得ている場合には「良い作品」になる可能性が高い(逆に、「狙い」を外したらさらに駄作になってしまう可能性も高いが)。

 また、大量の予算を使っているはずのハリウッド作品などにおいて、特定の要素が特にひどい訳ではないが光るものが何もない作品の場合は「悪い作品」になってしまうだろう。「オリジナリティ」の有無も重要で、オリジナリティが全くなくても各要素が非常に優れているために素晴らしい作品というものも多々存在するが、そこまでレベルの高い作品でない場合にはオリジナリティの有無に勝負がかかってくるものだ。

 

 とはいえ、世の中には映画の良し悪しというものを気にしない人も多々存在する。年に数回しか映画を見ないから良し悪しを判断できるほど映画に慣れていないので、シネコンで上映されるような一定以上の予算がかけられている作品なら何を見てもおおむね楽しい、という人が世間の大半かもしれない。こういう人たちに関しては私は特に思うところがない。

 しかし、世の中には「クソ映画愛好家」と称されるような、わざわざレベルの低い作品を大量に見てそれらの作品の知識やトリビアをペラペラ語ったり「どこがクソなのか」を述べまくしたてることに誇りを抱いたり自分のアイデンティティを見出したりする人が存在する。人の趣味はそれぞれだから…で済ましたいところだが、私はこういう人たちは自分自身の人生を浪費しているだけでなく映画という表現形式自体の価値を毀損してもいるという点で有害であるし、存在しないほうがいいとは思っている。

 また、数多くの映画を観ていて映画が好きではあるのだが、作品の良し悪しを自分で判断することに尻込みしたり、作品の批評や価値定めを行うことを好まない人も数多くいるようだ。自分の知識や鑑賞眼に対する本人自身の自信のなさも原因であるだろうし、「批評」という行為に対する一般的な忌避感も一因になっているだろう。また、「どんな作品にでも何かしら面白いところを見出せるようになったほうがより多くの映画が楽しめる」という功利主義的なライフハック的な判断もあるかもしれない。

 しかし、私に言わせれば、駄作の駄作たる所以を理解できるようになればなるほど傑作の傑作たる所以を理解できるようになるものだ。傑作というものはたしかに何の前知識もない人や鑑賞経験が少ない人の心にも響くような輝きを放っているものではあるが、鑑賞経験を経て各作品の良さや悪さを分析できるようになれば、その輝きをさらに強烈に感じられるようになったり、それまでには気付かなかった他の輝きまで感じられるようになるからだ。