THE★映画日記

映画(たまに漫画や文学)の感想と批評、映画を取り巻く風潮についての雑感など。

『ミスティック・リバー』

 

 

 

 最初に観たときはたしか20歳だったので12年ぶりの再視聴だが、イーストウッドの作品群のなかでも『チェンジリング』や『グラン・トリノ』並みに出来がよくて記憶に残る内容の作品であり、特にクライマックスの展開やエンディングは鮮明に覚えていた。

 当時はエンディングの後味の悪さにイヤなものを感じたが、いま観返すと、不思議とイヤな感じはしない。『ジェイコブを守るため』と同様に信じることや「疑念」をテーマにした作品であること、そして世の理不尽さや救いのなさを露悪的にではなくニュートラルに突き付ける映画であることがすらりと理解できる。

 

 ティム・ロビンズ演じるデイブの人生はあまりに悲惨だし、ショーン・ペン演じるジミーとケヴィン・ベーコン演じるショーンが子ども時代と大人になってからの二度にわたりデイブを「見捨てる」様子は実に残酷だ(ところで『シネマ坊主』で松本人志は「なんでショーン・ペンがおるのに別の俳優が演じているキャラにショーンって名付けるねん、ややこしいやろ」という理由でこの映画に低評価を付けている文章を、高校生だった15年ほど前に読んだことをいまでも鮮明に覚えている)。

 元友人を勘違いで殺して他人様の家庭を破壊しときながら「この罪は背負うぜ」とほざきつついけしゃあしゃあと開き直るジミー、そしてそんな夫のことを「あなたは愛に満ちた人間よ」と肯定するジミーの奥さんの厚顔無恥っぷりはひどい。

 しかし、考えてみれば、家庭を守るためや子どもの復讐のために「悪人」をやっつけるというのは、ハリウッド映画ではどのお父さんもやっていることだ(映画によっては家族が一致団結して孤独な「悪人」と対峙することもある)。『ミスティック・リバー』ではたまたまその相手が冤罪だっただけで、実のところ、普段のハリウッド映画(やジョン・アーヴィングのようなアメリカ文学、そしてアメリカに限らない諸々の国の諸々のフィクション)で描かれる「家族主義」が家の外の他者を排除する残酷なものだということである。そして、それはフィクションに限らない。現実に生きるわたしたちが自分たちの「ふつうの家庭の平穏」を守るために、「他者」を遠ざけたり排除したりしている。そう、わたしたちだって、自分の子どもをデイブには近づけたくないし、なにかあればデイブみたいな人のことを真っ先に疑うはずなのである。

 

 ふつうの映画であれば、デイブのような「他者」と普通の世界に住むわたしたちのような人間がつながる出来事を描いて、「他者」への理解や「他者」との交流をテーマとするものだろう。もちろんそれはフィクションが担っている大きな役割であり、そのようなことをテーマにした作品のなかには名作がいっぱいある。でも、ある意味では、それらの映画はすべて所詮は「綺麗ごと」だ。映画のなかで描かれた「他者」に共感したり感動したりしても、その帰り道でデイブのような人間が現れたら、やっぱり怪訝に思ったり遠ざけたりするのがわたしたちなのである。

 そして、『ミスティック・リバー』は、「他者」を遠ざけるわたしたちを糾弾する作品でもない。むしろ、「そういうものだ」といわんばかりの諦念が作品を覆っているし、これはやや危うい言い方になるが、家庭や町や社会の平和を守るために不幸な「他者」を犠牲にするわたしたちの在り方を、肯定すらしているように思える。そう、わたしたちの生活と社会は綺麗ごとでまわっているわけじゃないし、綺麗ごとのために生活と社会を犠牲にしてしまうわけにもいかないのだ。

 すくなくとも、自分がジミーの立場なら、やっぱりデイブを処刑してしまうだろう(たしか松本人志も同じようなこと書いていた)。そして、ショーンもそれがわかっているからこそ、彼に銃を突き付ける指マネはしても、彼を糾弾した利逮捕したりはしないのである。

 

 ショーンの相棒のローレンス・フィッシュバーンはやや嫌味な刑事の役柄にぴったり。デイブ、ジミー、ショーンの三人を中心に展開していくこの作品のなかで、貴重な「外部」として機能している。

 そして、三人それぞれの奥さんは、いずれも出番が少ないながらも印象に残る。おそらく、奥さん方それぞれの末路には、この作品の裏テーマが示されている。家庭や日常を守るのは夫だけでなく妻の仕事であり、夫を信頼して理解したジミーの奥さんは幸せな生活を続けられる一方で(まあ娘がひとり死んじゃっているけど)、夫に疑いを抱くだけでなくその疑いを家庭の外に漏らしてしまったデイブの奥さんには夫を失って信頼できる人もいなくなるという「罰」がくだされることになるのだ。ショーンの奥さんにも、これからショーンとがんばってうまくやっていき、ふたりと娘の家庭や日常を守る責務が課される。

 女性に男性と対等の責務を負わせているからこそ女性に厳しい作品となるわけだが、それは、この映画の明確なオリジナリティであり美点である。

 

ミリオンダラー・ベイビー』もそうだが、特にこの時期のイーストウッド作品における、社会や人間を見る目の冷徹さや厳しさは凄まじい。しかし、冒頭でも指摘したように、決して露悪的にはなっていないところがポイントだ。実際のところ人間や社会が「そういうもの」であるからこそ、そこに対するジャッジや規範的主張を抜きにして「そういうもの」として描くしかない、というのがイーストウッドのやりたいことであるのだろう。そして、現代のほとんどのハリウッド監督からはそれができる覚悟も胆力も矜持も失われている。イーストウッドには延命技術を駆使して150歳くらいまで作品を作り続けてもらいたいところだ。

『007/ノー・タイム・トゥ・ダイ』:ボンドが「有害な男らしさ」から脱却しちゃった

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 一年半も公開が引き延ばされたクレイグボンドの最終作を、満を持して鑑賞。事前にPrimeVideoで007シリーズが前作配信されたことでクレイグボンドの過去作品を観返すことができて、ヒロインのバックグラウンドとか「ミスター・ホワイト」というキャラクターがいたことを思い出すことができたけれど、そうじゃなかったら危なかったな。『スペクター』ですら6年前の作品なんだぜ。

 

 予告編とか事前の盛り上げっぷりから、さぞやシリアスで気合の入った名作であるんだろうと思っていたけれど(それこそ『ダークナイト』的な)、いざ観てみたら『スカイフォール』や『スペクター』以上にユーモアたっぷり、アクションは軽快、ガジェットやヴィランは脇役はバカバカしくてクライマックスは熱血少年漫画の趣すらある、楽しいエンタメ作品に仕上がっていた。……とはいえさすがに2時間45分は長過ぎで、北欧の森のなかで中ボスとウダウダやっているくだりは眠気がすごかった。

 

 すでに色んな人が指摘しているけれど、クレイグボンドの最終作でまたもや「ジェームズ・ボンド映画の脱構築と再構成」をやってしまっているのはどうかと思う。『カジノ・ロワイヤル』や『スカイフォール』でもやっていたんだし、5作中3作で脱構築と再構成をしているって本末転倒じゃない?

 

 そして、見え隠れする「ポリコレ」要素に関しては、良し悪しといったところだ。

 

 アナ・デ・アルマスはこれまでのボンドガールのアベレージを大幅に上回るエロエロなおねーちゃんだけれど、そんな彼女の性格を男女の機微やコミュニケーションに疎いアスペルガー気質にすることで、いつもの「ボンドになびくボンドガール」という展開を自然と回避しているところはうまい。彼女とボンドのやりとりもかなりユーモラスで笑ってしまった。とはいえ、中盤以降に再登場しないのは映画として不自然だし、「うちらはこれまでのボンドガールの描き方よくないと思っています」というエクスキューズとか意見表明のためのキャラクターになってしまっているきらいはある。まあエロかったしおもしろかったからいいんだけれど。

 

 ボンドの同僚の「新007」ことラシャーナ・リンチは、いちいちボンドと張り合おうとする性格の小物っぽさがギャグにつながっていて、そして性格とは裏腹に実力は十分なところが魅力的だ。ふつうならこういうキャラクターはシリーズの真ん中あたりで登場して、実力が足らずに死んじゃってボンドとMに後悔させたり反省させたり渋い顔をさせたりする役割を担うところだけれど、まあシリーズ最終作に出るんだったらボンドと同等の実力をもっていても不自然ではないだろう(アフリカ系女優を「実力足らずで死んじゃいます」という役柄にしたら炎上必至だろうし)。ボンドと再会したマドレーヌがホの字になっているところを見て「女はみんなあんな風になっちゃうの?」「五分五分だ」と会話するくだりもおもしろかった。

 また、ナオミ・ハリス演じるマネーペニーと新007、ふたりのアフリカ系女性にボンドが挟まれている画面は新時代的ですなおに「いいね」と思えた。ナオミ・ハリスもかなりかわいくて魅力的な女優だし。いっぽうで、敵の本拠地にて、デヴィッド・デンシクが演じる敵の科学者(コメディ調でそこそこ魅力的なキャラクター)が唐突に人種差別発言をして新007が唐突にキレて処刑する、というくだりは明確によくなかった。新007のプロフェッショナルっぽさが損なわれてしまうし、アフリカ系俳優を出すから無理して人種差別の問題に言及した、というのがミエミエである。『ファルコン&ウィンターソルジャー』のときにも書いたけれど、「アフリカ系をフィーチャーするなら人種差別の問題を取り入れなければならない」という縛りを設けるのは作品の多様性もキャラクターのヒーロー性も削減してしまうし、とくにそれまで「カラー・ブラインド」でやってきたシリーズやフランチャイズでこれをやられると違和感がすごいのだ。

 

 とはいえ、おそらくこの映画の最大のポリコレ要素は、ボンドが「妻」以外とはチューもセックスせず、女性と子どもを守るために自己犠牲をして、娘のためならぬいぐるみを拾いにいってしまう、「有害な男らしさ」から脱却した(ケアする?)男性になっているところだろう。つまり、いかにもジェンダー論や男性学をやっている批評家が喜びそうなキャラクターになっているのだ。

 

 わたしの感情的には賛否が半々で、背景にあるジェンダー論や欧米の「流行」があまり にミエミエであり、フィクションの作り手が「流行」を無批判に受け入れて自分たちの作品を「流行」に屈しさせている様子には、劇場で鑑賞しながら「しょうもねえなあ」と思いつづけてしまった。これからは007に限らずにどのシリーズのどんな作品も「流行」にあわせた「脱構築」や「再構成」が施されていくんだろうけれど、そうなると映画の多様性は失われるし、人々が感じたり抱いていたりするリアリティとロマンが表現されることがなくなってしまって、映画は底の浅いメディアになってしまうと思う。

 そもそも、「流行」に従わずに独自の世界を描いて独自の価値観を示すところにフィクションの存在意義ってあるはずだし…(まあ映画はほかのジャンル以上に「商品」としての要素が強いから「流行」に抗うのは難しいのかもしれないけれど)。

 

 とはいえ、レア・セドゥ演じるボンドの奥さんのマドレーヌは『スペクター』の頃からさらに美人になっているし、ボンドの娘さんも実にかわいい。あんな美人の奥さんと娘がいたらわたしだって浮気しないだろうし、命を賭すことにもやぶさかではない。

 奥さんに裏切られたと勘違いしてふてくされたり、同僚が奥さんと会っていることを知ってやきもきしたり、奥さんとの再会を喜んだり、そして子どもの姿をみてデレデレしてしまうボンドの姿はひとりの「男」としての等身大の人間味があってかなり魅力的だ。娘を救うためなら土下座までしてしまうなど、クールでスカしたところをまったく無くして泥臭くがんばるおっさんとしての活躍が、しっかり描けている。一作目から登場してきたCIAのフェリックスとの友情描写もバッチリだ。

 しかしまあ、最終作だから死ぬのはいいんだけれど、ボンドが死を選択する過程はかなり無理がある。というか、最後の空爆シーンは「これでボンドが死んだとは思えない……」であって『ダークナイトライジング』的に「実は生きていました」描写であるはずだと思いながら観ていたらほんとに死んじゃっていてびっくりした。

女王陛下の007』の引用は何度も出てきて「くどい」と思ったけれど、エンディングはさすがに奇麗に収まっているしロマンティックだしでちょっと感動した。でも、これについてもPrimeVideoで配信されていなかったら『女王陛下の007』を観ていなくて意図をちゃんと理解することができなくて微妙だったなあと思う。たぶんそういう観客のほうが多いでしょ。

 

 これまではボンドのために女性が死んできたのがこれからは女性のためにボンドが死ぬ、というのがこの映画における「脱構築」や「再構成」、そして「ポリコレ」要素のキモとなるわけだが、言わんとすることはわかるけれど同意できるかどうかは別の話。

 

 これからの男性ヒーローには、「有害な男らしさ」から脱却するのはもちろん、ボンドガールや敵の奥さんとのエッチや不倫といった「ご褒美」も我慢して、ただひたすら世界(女性)を守るために自分の命を賭すことが要求される、というのはずいぶんと酷な話であるとも思う。でもまあそれがヒーローというものかもしれないけれど。

 

 ベン・ウィショー演じるQに関しては完全なギャグキャラになってしまっていたけれど、彼が登場するシーンはどれも笑える。ボンドからのパワハラ描写は様式美になっているし、新旧どっちの007も使い方を知らない空飛ぶ潜水艦に搭乗させるくだりとか、クライマックスでボンドがQの忠告をガン無視しながら発電器を起動するくだりはギャグマンガ的な趣すらあるけれどやっぱりおもしろい。満を持して登場した飼い猫がかわいくなかったのだけが残念だ。

 

 ラミ・マレック演じるサフィンは予告や冒頭での存在感はすごいが、結局この映画の主眼はジェームズ・ボンドの再構成にあるため、ヴィランの連中はほぼ舞台装置にしかなっていない。むしろ、「ボンドが見え透いたお世辞やおべっかを使う」というギャグシーンが用意されているぶん、クリストフ・ヴァルツ演じるスペクターのほうが登場時間は短いけどずっと印象的であった。笑顔が気持ち悪いビリー・マッセンも、しつこい義眼野郎のダリ・ベンサラより印象的だったな。

 スペクターの勿体ぶった登場の仕方や幹部連中がバタバタと倒れていくシーン、サフィンの目的についてMに尋ねられたボンドが「どうせまた世界征服と”自由を無くす”とかそんなんでしょ」とうんざり気味に答えるシーンなど、ヴィラン関係についてはシュールギャグな部分ばっかりが目立っていたような気がする。そのギャグはどれもおもしろいのでアリといえばアリなんだけれど、『カジノ・ロワイヤル』や『スカイフォール』のときのようなヴィランの恐ろしさと存在感がすっかりなくなっているのは残念。

 また、メタ的でシュールなギャグの多さには、『スカイフォール』や『スペクター』にもあった「MCUっぽさ」をさらに強く感じてしまった。小粋なギャグを連続して間延びを防ぐ、というのが現代におけるエンタメアクション映画のスタンダードとなっているのだろう。たしかにずっとシリアスで重苦しいお話を進行させられるよりはずっといいんだけれど、緊張感が失われるのは否めない。

 

 ヴェスパーの墓を訪れたら爆発してそこから怒涛のカーチェイスが始まりマドレーヌとの別れに至る冒頭には一気に惹きこまれた。その一方で、中盤の森での戦闘や敵の基地に突入するクライマックスはアクションがどうにも映えないし、舞台や背景の印象も薄い(ハイテク畳の部屋はシュールでよかったけれど)。

 

 やっぱり、脱構築と再構成はクレイグボンドでやりきったんだから、次のボンドは、脚本やアクションやキャラクターのかけあいやストーリーのテンポなどなどは2020年以降のスタンダードにアップデートしながらも、ジェームズ・ボンドは毎回ボンドガールとエッチしたり敵の奥さんと不倫したりしてそれで3回に1回は相手の女性を死なせちゃうような、「いつもの007映画」をやるべきだろうなと思う。だって007映画から「有害な男らしさ」とかミソジニーとかを取り除いちゃったらもう他のヒーロー映画と差別化することができなくなってしまうもの。ほかの制作者たちが「価値観のアップデートされた作品」を量産しつづける現代であるからこそ、昔ながらの価値観に基づいた映画は価値をもつはずだ。

 

『キャッシュトラック』

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ガイ・リッチーの映画らしからぬハードなBGMや硬派なアクション、重苦しいドラマや雄々しいキャラクターが特徴的な作品だ。

 

主演のジェイソン・ステイサムはあまり好きな俳優でないのだけれど(そういう役ばっかり演じるから仕方がないとはいえ、どの映画のどの場面でもまったく同じような仏頂面をしている気がする)、脇役のホルト・マッキャラニーは『マインドハンター』のおかげでかなり好きな役者になったので、マッキャラニー目当てで鑑賞。いざ観てみるとステイサムはやっぱり仏頂面なんだけど、敵チームのリーダーを演じるジェフリー・ドノヴァンがよかった。

 

ストーリーとしてはガイ・リッチーらしい時系列いじりを駆使しながら、第一幕では謎の新米警備員ジェイソン・ステイサムのスゴ腕っぷりをアピールしつつ(ここにはちょっと「なろう」もの的な爽快感がある)、第二幕ではステイサムの正体と目的を開示して、第三幕で敵チームに焦点を当てて、第四幕でいよいよステイサムと敵チームが対峙する(ついでに気の毒な警備員たちが巻き込まれて死にまくる)、という構成だ。

序盤では「ステイサムの正体はなんなのだ?」という「謎」が示されて、それが中盤にもならないうちに明かされたと思ったらこんどは「敵チームの協力者はだれだ?」という新たな「謎」が示されることで興味が持続する、という構成はうまい。

息子の仇をとるつもりで関係のないチンピラを拷問したり人身売買組織をついでに壊滅してしまうステイサム・チームの暴れっぷりは「シリアスな笑い」的な面白さがある。「強盗に行く途中に酔っ払い運転に巻き込まれて事故に遭いました」という理由でボスの息子が死ぬ原因をつくった部下が処刑されていないというのも、リアルに考えたらそりゃ仕方がないんだからそうなるんだろうけれど、映画としては妙な緩さがあって、バイオレンスな展開がまた面白い。

敵チームの描写に関しても、短い範囲でリーダーの魅力や事情、「元軍人」であることを強調したプロフェッショナルっぷりをかっちり描いて、感情移入させられているのが巧みだろう。

 

とはいえ、第四幕の展開にはいろいろと物足りなさがある。最大の戦犯はスコット・イーストウッドが演じる敵チーム内のサイコ野郎で、こいつが裏切ってドノヴァンやマッキャラニーを殺してしまうことで、ステイサムによる復讐がかなりショボくなってしまうのだ。また、こんなサイコ野郎をチーム内に温存していた敵チームのリーダーの格も下がってしまう。見た目がまんま「サイコ野郎」というのも小物っぽさを醸し出している。息子を直接に殺した犯人を最後の最後で父親のステイサムが殺し返す、というのは様式美であるが、ここはズラしをくわえたほうがよかったと思う。

イーストウッドよりも、長年一緒に働いていた同僚を騙して容赦なく撃ち殺すマッキャラニーの悪役描写のほうが、よっぽど冷酷でプロフェッショナルで、魅力的だ。映画内のステイサムの主観としては息子を殺したイーストウッドのほうに対して因縁を感じているわけだけれど、映画を見ている観客としては、第一幕でずっとステイサムと一緒に行動していたマッキャラニーと対峙してくれるほうが因縁めいていて面白くなったはずである。

 

また、ステイサムの「ヤバさ」の描き方も中途半端で、金庫の襲撃戦の時点では敵チーム6人中2~3人しか倒していないのもどうかと思うし、一緒に行動していたマッキャラニーが「ヤバいやつがいるから襲撃はやめよう」とならずにふつうに計画を続行するのもかなりヘンだし矛盾しているように思える(だって第一幕の最後で「悪霊」とまで言ってるじゃん。この描写があるから、マッキャラニーは裏切り者ではないだろうと思ってしまった)。そして前述したようにドノヴァンやマッキャラニーが内輪もめでやられちゃうせいで、「ステイサムvs敵チーム」という構図が雲散霧消しちゃうのだ。

『パディントン』+『パディントン2』

 

 

 

映画好きのあいだでは非常に評判がいいシリーズであり(とくに「2」の評価が高いようだ)、わたしも以前から気になっていたのだが、なぜか「1」だけNeflixからもPrimeVideoからも消えていたので、わざわざHULUに加入して視聴した(まあ『刑事コロンボ』が観れるのもHULUに加入した理由のひとつだけれど)。

そしてようやく観たのだが……期待が大きかったぶん、かなりの期待外れであった。

 

このシリーズが好きになれるかどうかは子熊のパディントンのキャラそのものが好きになれるかどうかにかかっているのだろうけれど、わたしはどうしても好きになれない。渋いベン・ウィショーの声でお上品なイギリス英語を喋るわりに、中身は子どもなので後先考えずドタバタ動いで大ポカして人の家のものを破壊したり汚したりして人に迷惑をかけるのだけど、このくだりがわたしにはかなりキツかった(子ども向け作品では定番のシーンだと言えるけれど、わたしは子どものころからこの手のシーンに共感性羞恥を抱いて常にキツく感じ続けてきた)。可愛らしいシーンも多いのだけれど、ややリアルな「熊」に寄せ過ぎていてグロテスクに思えるところもある。

パディントンを受け入れる5人家族は、父母はともかく姉弟とおばあさんのキャラクターがとってつけたようなもので薄く、そしてキャラが薄いのに無理やりに活躍させられるので白けてしまう。映画の前半や冒頭で示された家族各人の得意技が後半でパディントンを救うきっかけとなる……というくだりは「1」でも「2」でも繰り返されるが、伏線回収というにはお粗末で子ども騙しに過ぎない(子ども向け映画なのだけれど)。父親を演じるヒュー・ボイルと母親を演じるサリー・ホーキンスはどちらも魅力的だと思うけれど。

 

ほぼすべての住民が子熊のパディントンがしゃべることを受け入れている世界観は「ドラえもん」的でアリかもしれないが、「1」のヴィランであるニコール・キッドマンパディントンを父親の仇兼希少動物扱いして狙うくだりとは不整合だし、世界観の緩さに関して「こういうファンタジックな作品だからいいでしょ?」と制作陣による観客に対する「甘え」も垣間見えてしまう。

また、特に「1」に関しては、ファンタジックで甘ったるい世界観でありながら勧善懲悪が徹底しており悪役はひどい目に遭う、というのも居心地が悪い。「2」に関しては、刑務所に投獄されたヴィランヒュー・グラントがノリノリで刑務所生活を満喫する姿がエンドロールで流されるという『ONEPIECE』の扉絵連載的な救済が描かれるからまだマシになっているが、それにしても、部下を従えているわけでもない孤独な悪役が「家族」にやっつけられる姿が露骨に描かれるのはイヤなものだ(こういうのもわたしは子どものころからイヤだった)。

なお、「2」に関しては、パディントンが街の人々と仲良くなっている様子や窓ふきによって街の人々を幸せにする様子、刑務所の囚人たちに認められて彼らと仲良くなりクライマックスで囚人たちがパディントンを助けに来てくれる流れなどが「映画好き」のツボを押さえていることを認めざるを得ず、それが高評価につながっていることも理解できる。……とはいえ、なーんか戯画的というか作り物感がすごいというか、「こういうのでいいんでしょこういうので」と制作陣にナメられている気がして、わたしはちょっとムカついた。ウェス・アンダーソンって大嫌いな作品なんだけど、『パディントン』ってウェス・アンダーソン風味がけっこう漂っていると思う。

 

「1」に関して動物倫理的なテーマが触れられそうになって「おっ」と思ったけれどけっきょく表層的なものに留まってガッカリ(動物愛護発祥の地であるイギリスの作品だというのに、アメリカのクマ映画である『TED2』に動物倫理描写で負けるのはどうかと思う)。それよりもむしろ、パディントンが「移民」であることが裏テーマとなっているようだ。たしかにその点にはわたしは気付くことができず、「移民あるある」や移民をめぐるなんらかの葛藤なりテーマなりが描かれていたのに見逃してしまった恐れは否定できない。……とはいえ、たぶんもう見返すことはないだろう。

『カリスマ』+『ボーン・コレクター』+『マンディ/地獄のロード・ウォリアー』+『007/ワールド・イズ・ノット・イナフ』+『シャーロック・ホームズ』

 

 つまらなかった映画シリーズ。

 

●『カリスマ』

 

 

 

 もともとシュールさがウリの黒沢清作品ではあるが、『カリスマ』ではホラー要素を薄めてコメディ要素が薄められているためにシュールさが増し過ぎており、そのくせ絵面は地味なので、なんだか惹かれるところがない作品になってしまっている。「カリスマ」の木をめぐって登場人物たちが繰り広げる議論はまあまあ興味深いし、陽気な音楽が印象に残ったりはするのだけれど。しかし『回路』と続けてみると黒沢作品の「思わせぶり」感もなんだか腹が立ってくるな。

 

●『ボーン・コレクター

 

 

 

デンゼル・ワシントン演じる主人公の、ハンニバル・レクターを彷彿とさせるような「安楽椅子探偵」的な設定はそこそこ面白い(レクター博士と違ってこちらはちゃんとした善人だけど)。主人公の身の回りを世話する黒人看護師さんも魅力的なキャラだし(だからこそ死んでしまうのが残念だ)、なにより、アンジェリーナ・ジョリー演じる女性警官は「善性」や「女性としての強さ」がしっかり伝わってきて実に印象的だ。『チェンジリング』といい『モンタナの目撃者』といい、アンジーは善と強さを体現する女性を演じるにあたってはピカイチである。
しかしながら、作品としては1990年代後半~2000年代前半に特有の過剰さや安っぽさが全面に出ていて、殺害シーンの絵面も猟奇的なわりにインパクトには薄くて印象に残らず、犯人も主人公に対する私怨で行動するしょぼい人間であるし、推理ものとしてのおもしろさもなくて、ダメダメ。原作は当時にベストセラーになっていたはずだけど、どんな感じなんだろう。

 

●『マンディ/地獄のロード・ウォリアー』

 

 

時代遅れの「カルト的名作」になることを狙ったかのような、そしてその狙いがすっぽりと外れた作品。ゴミ。前半がかったるいくせいに主人公が復讐を始める後半も爽快感はそれほどでもなく、サイケデリックな色彩や演出は押しつけがましくて鬱陶しい。ニコラス・ケイジが出ているからいいってもんじゃないでしょう。

 

●『007/ワールド・イズ・ノット・イナフ

 

 

 

敵方の設定は凝っているし導入部分にも惹きこまれるしで、007シリーズ内の凡作と比べたら観るべきところはあるかもしれないが、やはり1990年代らしい「安っぽさ」や「軽薄さ」が足を引っ張っている。でもヒロインが思いっきり敵に回り、そして同情の余地もガッツリあるという複雑な設定、魅力的な脇役たちなど、現代のクオリティでリメイクすれば結構な名作になる可能性も秘めていると思った。

 

●『シャーロック・ホームズ

 

 

 

ガイ・リッチーは好きな監督だし、続編の『シャドウ・ゲーム』は公開当時に映画館に観に行ってそこそこ楽しんだ記憶があるけれど、この作品はどうにもダメ。ロバート・ダウニー・ジュニアはアイアンマンのときと似たような演技だけどあっちのほうがずっとキャラが深くて濃いし、ヒロインのレイチェル・マクアダムスもあんまり美人ではないし、ワトソン役のジュード・ロウはパッとしないし、敵役のアンディ・ガルシアはあんまり怖くない。アクションとしてもミステリーとしても中途半端だし、当時のロンドンを再現したのかもしれないがモノクロで冷たい感じの画面もどうにもワクワクしないのだ。

 

『容疑者Xの献身』&『舟を編む』

●『容疑者Xの献身

 

 

 

 

 ずっと前にネットで情報を見たか友人からネタバレされたかでメインのトリックは知っていたんだけれど、そこを前もって知っていても特に面白さに支障がないタイプの映画で、そこはよかった。

 要するに、北村一輝が演じる数学者・草薙の純粋な"献身"に惚れ惚れしつつ(悔しいけどこのタイトルは作品の魅力を実に的確に伝えていて素晴らしいと思う)、主人公の物理学者を演じる福山雅治のイケメンっぷりにも惚れ惚れして、ついでに柴崎コウ演じる女性刑事のそこそこの可愛さにもほんわかしておけばいい映画であるのだ(松雪泰子に関しては作中で美人と連呼されるせいで「そんな美人じゃないでしょ」という違和感が先立ってしまった)。

 

ja.wikipedia.org

 

 Wikipediaによると『メインの犯行とは別個の、道義的には遥かに悪質な行為がトリックの手段として淡々と描かれながら「感動的なラスト」と評されたことについても議論となった』そうだが、これは、作品を見る前にトリックだけを知っていた状態のわたしも「ひでえ作品だな」と思っていた。しかし、いざ観てみると、「純愛」や「感動」の描き方や演出がなかなか上手で、「まあ騙されてやってもいいかな」というくらいには思えるようになった。

「主人公が数学者に殺されちゃうでしょ」と思わせてくる雪山でのミスリードは尺稼ぎという雰囲気がありつつもなかなかスリリング。元ホステスのシングルマザーとその娘が住む部屋の散らかりっぷりとか狭さはなんか「貧乏」を表現できている感があっていい。福山雅治が焚き火をしている大学構内はなんか妙に懐かしくてノスタルジックだった。また、そのほかの画面についても、平成が舞台であるはずなのに昭和を思い出せるくらいにノスタルジックな風景が連続しており、それが作品の魅力となっているように思える。

 

●『舟を編む

 

 

 

 主人公の松田龍平は苦手だけど、オダギリジョーはかなりキャラクターも見た目もかなり魅力的だった。加藤剛はなんだか役所広司に似ていると思った。宮崎あおいは美人だけれど「幼さ」が不安になるくらいに残っている、ちょっと特殊な見た目をしている女性だと思う。

 

 話としては、「辞書を編纂する」という行為やその背景にある「出版文化」さらには「書籍」「本」「活字」に対するファンタジーフェティシズムノスタルジアありきで、それを相対化したり脱構築したりする視点がほぼ皆無であるため、単調で甘ったるく薄っぺらい。主人公の苗字がマジメなところも「ふざけているのか」って感じだ。

 アメリカ人はなんだかんだ言ってフェティシズムノスタルジアを直球で描くことには「照れ」を感じるから、『舟を編む』がアメリカで撮影されていたら、インターネットの時代では辞書が役に立たなくなったり主人公たちの好意がそもそも全く無意味であったり、主人公がマジメの皮を被った思考停止野郎や近視眼野郎であることを示唆するシーンを入れたりするなど、ズラしやハズしによる相対化を必ずや付けくわえていたことだろう。

『マインド・ハンター』を観ていて気付いたことの一つは、「お仕事もの」作品が傑作になるためには「仕事」に対するニヒルで冷徹な視点が不可欠である、ということだ。本人の人生がかかっていたり、狭い視点では壮大な「価値」を含むかのように見えるものが社会と経済と世間の観点からすれば全くそうではないかもしれない、という洞察へと観客を導いてこそ、作品の深みが増すというものである。

 ところで、三浦しをんといえばBLなイメージがあるけれど、この映画における松田龍平オダギリジョーは誰がどうみてもBLなものであったように思える。宮崎あおいは取ってつけたような存在だったね。しかし編集者連中が料亭でいいもの食っているシーンはなんか「文化」野川に属している人々の無意識の傲慢さがあらわれているようで無性にムカついたな。

 

『クラシック・ホラー・ストーリー』&『ポロライド』

 

●『クラシック・ホラー・ストーリー』

 

www.netflix.com

 

 泥酔しながら飛ばし飛ばしで見たけれど、よくあるホラー映画パロディ映画(「"よくあるホラー映画"のパロディ映画」ではなく、「よくある"ホラー映画のパロディ映画"」)で、内容は覚えていないけどつまんなかったことだけは覚えている。

 

●『ポロライド』

 

 

 

 こちらも後半は泥酔しながら見たけれど、泥酔していない前半の時点であまりにふつうのホラー映画すぎて、ひたすら面白くなかった。どう考えても原因は主人公にあるのに、問い詰められると「わたしのせいじゃないわ」と不服そうにしているシーンはマジで腹立った。正当にも問い詰めた男の子は死んじゃうし。人の良い保安官が死ぬのもイヤ。ホラー描写はフツー、登場人物に個性も魅力もなし、姿をあらわした幽霊はショボい、ひたすら画面が暗くてなに起こっているかよくわかんないし導入から暗すぎてムカつくので惹き込まれない、などなど、なにも良いところなしな映画だった。同じ監督が後に作成した『チャイルド・プレイ』もつまらなかったな。