THE★映画日記

映画(たまに漫画や文学)の感想と批評、映画を取り巻く風潮についての雑感など。

『ブラック・ウィドウ』

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theeigadiary.hatenablog.com

 

・わたしはアベンジャーズの面々のなかではブラック・ウィドウがいちばん好きだし、トップクラスに重要なキャラだと思っているので、彼女の単独映画が公開されたのは喜ばしい限り。

 

・女性ヒーローが主人公ということで否応なくフェミニズムっぽい要素やシスターフッドっぽい要素を出さなければいけなくなるのだが(いや、ほんとは女性ヒーローが主人公だからといってフェミニズムっぽい要素やシスターフッドっぽい要素をだす必要なんてないはずなのだけれど、そうしなきゃ批評家とかツイッタラーとかに怒られるのであろう、お気の毒だ)、面倒見がよく気配り屋さんで自己犠牲的なナターシャ(スカーレット・ヨハンソン)のキャラクター性が幸いして、『キャプテン・マーベル』のようにキャラクターのヒーロー性が自己実現や自己利益の主張に乗っ取られることなく、いい塩梅で物語が描けている*1

 

・いちおう#MeToo運動が背景にあるらしく、ボス敵はハーヴェイ・ワインスタインを模しているらしい。だけれどこういう映画でいかにもありそうな傲慢で支配的で陰湿な敵キャラという感じであり、そしてこういう映画の敵キャラらしく魅力はないし底は浅い。「こいつのフェロモン嗅いだら攻撃できなくなるように操作されているから攻撃できません」というアホみたいな防御策に対する解決策が「お鼻を強くテーブルにぶっつけて鼻を折ったら神経が切断されて攻撃できるようになりました(そのあとお鼻をグイってやったら神経ももどります)」というのもバカみたい。もちろんマーベル映画なんてアホみたいなことやってナンボのものだとはいえるだろうが、「敵はハーヴェイ・ワインスタインなのでどんだけしょうもなく描かれてもよく、そいつを打破する展開はどんだけくだらなくてもツッコミ入れちゃいけません」みたいな空気が作り手や観客にあったらイヤだなと思う。

 

・「ブラック・ウィドウ(量産型)たちは身も心もワインスタインに洗脳されているけれど、なんか赤いガスを鼻元でシュッてやってあげたら一瞬で洗脳から解かれます」という設定も「それでいいの?」という感じ。奇しくもRed Pillを連想させるというか、むしろ#MeToo運動に対する皮肉が混じっているんじゃないかと受け取られてもおかしくないだろう。

 

・冒頭の子どものシーンは、青髪の子がミラ・ジョヴォヴィッチの娘らしいんだけれどなぜか「男の子だ」とずっと勘違いしていて、消去法で妹のほうがナターシャだと思い込んでいたので、「タスクマスターの正体は生き別れのナターシャの兄だな」と的外れな予測を立ててしまい、序盤からナターシャの妹であるエリーナ(フローレンス・ピュー)が出てきても「これは施設に入ってからできた妹かな」と勝手に脳内補完して、けっきょく中盤で家族が再集結するシーンまで間違いに気付かないまま観ちゃった。

 

・エリーナはナターシャに比べると魅力がだいぶ薄い。あくまで脇役としてひとことコメントしているときのみに輝くキャラと思う。それに、ごつくて自己主張が激しいという点ではキャプテン・マーベルとキャラがダダ被りしているので、ナターシャの衣鉢をエリーナが継ぐという展開はやめてほしい(そうなるっぽいけど)。やるにしても、ナターシャのように可憐な女性ヒーローとか自己犠牲できる女性ヒーローを先に加えてからだ。

 

・レッドガーディアン(デヴィッド・ハーバー)はいいキャラしていたが、ちゃんと超人であるという設定なのだから、もうちょっとアクションや戦闘面でも活躍させてあげてもよかったと思う。

 

・ナターシャはムチムチでボインボインの女スパイであるにも関わらず、MCUが世間体を意識するようになってからは「セクシー全開なアクション」や「性的魅力を活かして男を誘惑」みたいなシーンはすっかりなくなってしまい、キャラとしての特徴をひとつ潰されていてもったいなくはあった。ところで今回の映画では誘惑シーンはないのにスカヨハのおっぱいとかお尻とかはがっつり強調されており、冒頭のタンクトップ姿で治療?しているシーンはまだなんとなくメッセージ性みたいなものを感じ取れたが、中盤以降は特に意味もなくお尻が強調されている。よいと思う。

 

・ナターシャとエリーナに対してレッドガーディアンが生理に関する皮肉を言ったらふたりが「あたしたち子宮切り取られるんだけど」「卵管も引っこ抜かれているんだけど」と生々しく語って意趣返しするシーンは、MCUじゃないとできないタイプのユーモアで実におもしろいと思った。

 

・アクションシーンの評判はよいらしく、雪山の刑務所のシーンはナターシャの服に背景とで「白」が二重に映えていて映像的にも素晴らしいと思ったが、全体的にはバトル関係の描写は単調で淡泊。バトル面での敵役であるタスクマスターはキャラも正体もしょーもないし。

 

・しかしスカヨハという「華」がMCUから失われたのはやっぱり痛い。これからはナタリー・ポートマンが出ずっぱりになってくれないかな。

 

『ゴジラvsコング』

 

 

 

 ・ハリウッド版(レジェンダリー版)の『ゴジラ』シリーズは、一作目のギャレス・エドワーズ監督による『GODZILLA ゴジラ』をわたしはもっとも高く評価している。
・たしかに世間で言われているように家族ドラマに尺を割き過ぎているし、怪獣映画でなくとも災害映画とかなにかでできそうな内容のドラマであるし、ゴジラやMUTOが本格的に登場して暴れまわるまでが遅すぎて間が持たない。一緒に劇場に観に行った友人は寝てしまっていた。
・しかし、ゴジラが登場するまでに勿体をつけられるからこそ、いざ搭乗した時の存在感や迫力はすごかった。映画の世界の登場人物たちも怪獣を初めて目撃するという設定なので、怪獣の畏怖や脅威がきちんと表現されているのだ。また、熱放射線を出すのも終盤までとっておき、登場人物たちが「すげえ!」と言いながらおどろくシーンは、よい意味で怪獣映画でないと描けないシーンだ。『GODZILLA ゴジラ』では、「もし私たちの世界に怪獣があらわれたらどうなるか」という情景が過不足なく描かれていたのである。怪獣だけでなくスーパーヒーローでも幽霊でもなんでもいいのだが、超常的な存在を登場させる作品では、現実と超常とのギャップ(そして現実の側の人物たちが超常を理解して受け入れるまでの過程)をきちんと描くことが何よりも重要であり、それが面白さにつながるものだ。

 

・一方で二作目の『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』については、わたしが2019年に劇場で観た映画のなかでも最低な部類の作品であった。
・たしかに、初登場時のキングギドラからは恐ろしさや神々しさを感じられるし、怪獣たちの巨大感や迫力を活かした印象的な場面が描かれてはいる。ラドンが羽ばたくだけで街が壊れる描写もゾクゾクした。
・しかし、いくらなんでも人間ドラマが適当過ぎる。前作で家族ドラマに尺を割き過ぎたのは確かに失敗であったのだが、しかし、前作が人間ドラマの描き方に失敗していたとはいえ(怪獣の暴れるストーリーと有機的に結びついておらず、ドラマ自体も凡庸)、「怪獣映画には人間ドラマなんていらないんだ」ということにはならない。いくら怪獣の描写が魅力的であったとしても、観客と一緒になって彼らに恐ろしさや畏敬を感じるべきである人間の描写にリアリティや丁寧さがなければ本末転倒なのだ。

・『ゴジラ キングオブモンスターズ』は公開前から監督が「ぼくは怪獣オタクだ」とアピールしており、一部のオタク観客も「監督は怪獣信者だから仕方がない」「怪獣に対する信仰を描いた宗教映画だ」みたいなことをほざいたりして作品を擁護していたが、描こうとする題材に対するオタク的情熱のせいで題材そのものの魅力を効果的に描くことができなくなっていたわけであり、クリエイターとして三流で失敗しているという評価しか妥当ではない。「怪獣映画だからこんなのでいいんだよ」と言っているような人たちも、自分の好きなジャンルを擁護しようとしながらその価値を貶めているという点では同罪だ。

 

・というわけで『ゴジラvsコング』であるが、良くも悪くも、言うことがあまりない。いわゆる「怪獣プロレス」の描写はやや単調であるが、舞台を転換したり途中で共通的を登場させて共闘させるなどの定番でありながら効果的な展開がなされていて、「比較的まじめにつくっているな」とは思う。
・人間描写は相変わらず低クオリティでくだらないが(役者もレベルが低いぱっとしないのばかりで観ていて悲しくなる)、『キングオブモンスターズ』であんなに大々的に大量の怪獣を世界中に登場させてしまった以上はあの世界の登場人物たちが怪獣に脅威や畏敬を抱く描写を効果的に描くことも困難なので仕方がないかなと思う。
・他の怪獣とは一線を画す存在であるメカゴジラの描写を工夫したり、メカゴジラを制作した人間たちの描写をもっとまじめに展開するとか(ありがちだけど「家族を奪ったゴジラに復讐する」的な人間ドラマを描くとか)していれば評価ポイントになったかもしれないが、まあこの作品のなかではメカゴジラゴジラとコングの関係を修復させるための当て犬でしかないので仕方がないかもしれない。「隠し玉」扱いにせず、冒頭から描いていてもよかったと思うけれど。

・実力的にはゴジラのほうが上だが、物語の主人公はコング、と明確に割り切ったという構成は独特。空洞世界という名のダンジョンに入って斧という武器をゲットする、というRPGな展開も印象的であり、大型霊長類という人間に近い存在だから違和感も減らせているが……それにしてもやっぱり怪獣にやらせることではないなという感じも強い。フツーにシリアスな人間ドラマを展開して、人間同士の対決にコングとゴジラの対決をオーバーラップさせるとか、やりようはいくらでもあるだろう。

 

『シン・エヴァンゲリオン劇場版』

 

 

・当初は観る気はなかったのだけれど、先週末は久しぶりに映画をいっぱい観ることになり、そしてちょうどフィナーレ上映のタイミングであったので、「せっかくだから……」と思って観にいった。

・ついでに、『序』『破』『Q』も事前にPrime Videoで鑑賞。
・『序』を最初に観たのは『破』の公開当時にテレビで放映されたタイミング。大学生のころで、先輩の家でダラダラと雑談しながら観た(正確には自分だけが一方的にしゃべっていて、ヲタクの先輩たちは映画に集中していた)。しゃべっているうちにいつの間にかエンディングになっていて「あれ、ヤシマ作戦ってもう終わったの?」とキョトンとなったりしたものだ。
・改めて観ても、『序』は一本の映画としてはイマイチなように思える。テレビ版の総集編のような内容でしかなく、テンポが平板であり、ダレる。今回も後半には集中力が切れてしまい、また気が付いたらヤシマ作戦が終了していた。たぶん次に観るときにもぼーっとしているうちにヤシマ作戦が終わるのだろう。


・『破』は公開当時にヲタクの友人たちと映画館に観に行った。こちらは『序』とは違い、テンポよく山あり谷ありな構成であり一本の映画としてもなかなか良い出来だと思う(一緒に観に行った連中は上映後にちょっと興奮し過ぎていて「そこまで興奮するような内容か?稗とか粟とかしか食べたことがないのかな?」とは思ったりしたが、まあそれはそれ)。改めてPrime Videoで見返してもやはり脚本が良いと思った。食事会のくだりが気が利いている。

・『Q』は今回が初めての鑑賞。公開当時の世間の反応や評判などは覚えていたし、ストーリーの雰囲気や内容も漏れ聞いている状態で観ることになったが、そのおかげかそこそこ楽しめた。やはり一本の映画として評価できる内容ではないが、雰囲気が独自だし展開も予測が付かないしで、すくなくとも予定調和ではなく「変なものを見たなあ」という感じは得られる。オリジナリティって大事だ。

・ついでに『Airまごころを君に』も観た。こちらも、内容や展開についてはそれこそ20年近く前から諸々の雑誌や友人との会話から知っていたのだが、はじめて観てみると実に印象深い。自衛隊ネルフの職員が虐殺されるシーンやアスカの鳥葬シーンなど、ホラー描写やグロテスク描写のクオリティがふつうに高くて、効果的にショックが与えられる。終盤の展開や映像にも唖然とさせられた。

・それでようやく『シン』を観に行った。上映前に四十分ほど劇場挨拶が同時中継されており、多少のネタバレをされてしまいながらも、フィナーレらしい熱くて感動的な雰囲気を楽しめた。
・とはいえ、公開から4カ月経って観に行くので、『シン』についてもどんな展開や着地になるかはおおむねわかっていった。……しかしながら、いざ観てみても「これまでの経緯がこうでいまの展開がこうならこう着地するしかないだろうな」ということはすぐに察しがついてしまうような内容でもあるように思える。

・序盤の第三村の場面はかなりよかった。ありがちなシーンやセリフも多いのだがその描写のクオリティが高いし、シンジくんが立ち直るまでにかなりの時間をかけたり人や自然と関わる喜びを覚えた綾波レイをあっけなく死なせてしまう展開などは二時間半の映画でないとかけないような内容だから、贅沢さを感じられてよい。とにかく綾波レイがかわいかった。これまでは圧倒的にアスカ派だったのだが、なんか『Q』以降は意地悪だしヒステリックでイヤなので綾波に乗り換えることにした。

・一方で、ヴンダー関連の描写やヤマト作戦のあたりは明確に中だれしていたように思える。なんかよくわからない用語をいっぱい唱えながらなんか知らんけれど熱い雰囲気をかもしだす、というのはエヴァとかロボットもの全般において定番であり、
「そういうものだ」として受け止めるべきなのかもしれないけれど、観ていてしらけてしまう。真っ赤だったり真っ白だったり幾何学的だったりする超常空間を舞台にロボットや宇宙戦艦が躍動するというのはなかなか見ない絵面であり、最初は「おっ」となったが、真っ白な背景がずっと続くと画面の単調さに飽きてしまう。
・そういえば冒頭のパリのシーンはまっとうなアクションシーンという感じでふつうに楽しめたしワクワクした。
・『Q』の頃からそうなのだが、ヴンダー関連の描写や展開は常に上滑りしていたように感じられる。なんといってもミサトさんが艦長になっていることにリアリティを感じられず、「人の上に立つような性格していないして人をまとめられるような器もないでしょお前」って思っちゃう。

・シンジの思い出を再現したような空間で初号機と十三号機が対峙するシーンは絵面が印象的でテンポもよく、かなり楽しかった。
・ゲンドウが自分の生い立ちや亡くした妻への想いなどをモノローグでぜんぶ語っちゃうシーンは、ふつうの映画ならひねりがなく直接的過ぎてダメだしハリウッドの人からは失笑されるような展開だと思うのだが、なんか妙な迫力があって感動した。
・おなじく、シンジくんが綾波とかアスカとかカヲル君とかに挨拶まわりをするシーンも、普通の映画ならファンサービスのための蛇足にしかならないところだが、この映画だとなんか許せてしまう。
・これは、エヴァが20年だか30年だか前のテレビアニメ版から続く作品であるということや、劇場版が完結するまでにも10年以上の歳月がかかったという時間的な重み、そして庵野監督のキャラクター性の強さとかそういうのが作用しているのだろう。わたしは庵野監督のことはよく知らないけれど、『プロフェッショナル:仕事の流儀』(を観たみんなのつぶやき)をみるといろいろと印象的な人物であるらしく、そして庵野監督について詳しい人は『シン』という作品についても「これは庵野監督の私的な要素がいろいろとはいった作品だ」と前提したうえで観るのであり、さらに庵野監督自身がそう観られることをわかったうえで私的な要素を前面に出す、といった構成でつくられているのだ。

・挨拶まわりのシーンにせよ「さあ、行こう!」のセリフからの実写の描写にせよ、昔からのエヴァのファンなら感無量であることは想像に難くない。逆に言えば、昔からのエヴァのファンではない人は、『シン』や新劇場版の面白さはたぶん半分程度も味わえないということである(「自分はエヴァのファンではないけど映画ファンとしては新劇場版四部作を充分に楽しめた」とか言うひとがいたら欺瞞でしかない)。まあそういう作品があってもいいだろう。

 

『ワンダーウーマン1984』

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 劇場に映画を観に行ったのは黒沢清監督の『スパイの妻』以来で、およそ二ヶ月ぶり*1

 

 わたしはマーベル映画のなかでは『キャプテン・マーベル』がいちばん嫌いなのだが*2、逆に、この映画の前作の『ワンダーウーマン』はDC映画のなかでもいちばん好きな作品である*3。『キャプテン・マーベル』が近年の「シスターフッド」的なフェミニズムの風潮に寄せまくった作品であるのに比べて、『ワンダーウーマン』はあくまで主人公のダイアナ(ガル・ガドット)とスティーヴ(クリス・パイン)との「異性愛」のラブロマンスが話の軸となる、王道的な構成であるところがよい。前作でも今作でも、ヒロインであるダイアナの方が強靭な超人でありスティーヴの方はただの一般人なので、「守る/守られる」立場が逆転したり女性ではなく男性の方が自己犠牲するなどの伝統的な性役割を逆転させた描かれ方がされてはいるのだが、それは表面的なものだ。ダイアナは母性的であったり感情的であったりと「女性性」が強調されたヒーローであり、だからこそ、他のヒーローたちでは描けられないような物語が『ワンダーウーマン』シリーズでは描かれることになる。ある意味では他のヒーロー映画に比べてもずっと「保守的」なシリーズであるのだが、先進的な連中の言うことを気にした映画ばかりになると多様性が失われてつまらなくなるというものだ。

 

 そして、アメコミ映画の新作を劇場で観ること自体が『スパイダーマン:ファー・フロム・ホーム』以来でおよそ一年半ぶり、アクション映画という括りでみても『テネット』以来の三ヶ月ぶりということがあって、なかなか久しぶりの感覚を味わえた点がよかった。特に、冒頭で描かれるアマゾンの島における子供時代のダイアナが競技に参加するシーンは、美しい建造物や自然風景の映像とテンポの良いアクションにハンス・ジマーによる感動的な音楽が合わさって、かなりワクワクしたものだ。

 

 とはいえ、1984年を舞台に繰り広げられる本編のストーリーは、まあ、お世辞にも「出来がいい」とはいえない。はっきり言うと「雑」であった。

 雑さの感じでいえば同じDC映画の『シャザム!』がいちばん近いが、あちらはヒーロー映画やアクション映画であることよりも「ジュブナイル映画」であるという側面が強く、主人公たち自体も子供であることから展開や設定の雑さは「そういうものだ」として見過ごすことができたけれど、主人公が生真面目な大人の女性であるワンダーウーマンであんまり雑な展開をやられるとちょっと厳しいものがある。

 終盤には悪役であるマックスウェル・ロード(ペドロ・パスカル)のせいで世界中の人々の生活に甚大な影響が生じてめちゃくちゃになってしまい、世界文明が崩壊スレスレの危機に瀕するのだが、この問題はクライマックスでダイアナがちょっとした機転を利かしたおかげであっという間に片が付いてしまう。冷戦自体を舞台にしていて核戦争の危機が登場するというアメコミ映画という点では『X-MEN:ファースト・ジェネレーション』と共通しているが、あちらがキューバ危機を物語の展開にうまく組み合わせながらシリアスに描いていたのに対して、こちらにおける核ミサイルの扱いはかなり適当なものだ。また、「さすがに世界がめちゃくちゃになり過ぎて、この世界観で生きる人々も超常現象の存在を認識するようになって『スーパーマン』や『ジャスティス・リーグ』との整合性が取れなくなるから、人々の記憶から今回の事件に関することは丸々失われるという展開が最後にあるのかな」と思っていたら全くそんなことなく、とんでもない事態が起こったというのに人々は大して気にせずに堂々と元の生活に復活する、という面の皮の厚さもすごい(『スパイダーマン:ファー・フロム・ホーム』が「エンドゲーム後の世界」をがんばって描いていたのが気の毒になるくらいだ)。

 とはいえ、『ワンダーウーマン1984』の物語自体が「猿の手」を下敷きにした寓話的なものであることを考えると、物語の整合性とか結末のご都合主義などをあまり突っ込むのは野暮というところもある。

 

 実際、クオリティが高い作品ではないしエキサイティングな作品であるともいえないが、クライマックスになって満を辞して投入されるマックスウェル・ロードの過去回想シーンのとんでもないショボさとか、あれだけ強欲であったマックスウェル・ロードが改心するに至る過程の説得力のなさとか、クライマックス後のクリスマスの街並みシーンにおける「終わりよければ全てヨシ」的な能天気なポジティブさなど、妙にズレているところが多くて愛らしい作品ではある*4

 マックスウェル・ロード、およびバーバラ・ミネルバクリステン・ウィグ)という悪役二名はどちらもかなり小物な人物であり、身の丈に合わないパワーを手にしてしまったことで自滅にいたるわけだが、彼らの動機や性格などの描き方は「人間っぽさ」を演出することに成功しており、好感が抱けた。ダイアナが叶えたかった「望み」の描き方、そして世界の平和のためにその「望み」を捨てる決断をするシーンの演出もかなり良い。

 前作ではアマゾンの島にずっと暮らしていたダイアナにスティーブが20世紀初頭のロンドンを案内する『ローマの休日』的なシーンが描かれていたが、今回は立場が逆転して、黄泉の世界から蘇ったスティーヴに1984年のアメリカをダイアナが案内する、という一連のシーンも素晴らしかった。また、特に冒頭のショッピングモールのシーンが顕著だが、「1980年代のアメリカ映画」を意図的に再現する演出も気が利いていてワクワクした(終盤絵でちらっと映る渋谷の景色がどう見ても2010年代のものであることはご愛嬌だ)。

 とはいえ、たとえば前作で第一次世界大戦の戦線をダイアナが突っ切るシーンのような、「実際の歴史のなかにヒーローが登場する」という設定でないとできないような印象的で感動的なシーンがあるわけではない。

 

 久しぶりのアメコミ映画であるのだからもっと完成度が高くて素直に楽しめる作品を見たかったところではあるし、そういう点では期待はずれな感も強いが、まあ「憎めない」作品ではある、といった感じ。ただし、『シャザム!』といい『アクアマン』といい、最近のDC映画は観客側の好意に甘えて作品を洗練させる努力を怠っているフシが強いとは思う。次作以降はもうすこし真面目に作ってほしい。

 

関連記事:

davitrice.hatenadiary.jp

 

*1:『スパイの妻』は悪い映画ではなかったのだが、映画好きの人たちが騒いでいるほどの素晴らしい映画であるとも思えず、感想を書く気分にも特になれなかった。

*2:

theeigadiary.hatenablog.com

*3:ダークナイト』はDC映画というよりかはノーラン監督の個人作品という趣が強いから別枠として扱う。

theeigadiary.hatenablog.com

*4:アメコミ映画にしてもめずらしく「誰も死なない作品」であり、その点が後味の良さにつながっている……と思ったが、そういえば、ミネルバに絡んだ酔っぱらいの男はけっきょく死んでしまったのだろうか?そうだとすると、他の悪役たちには明確な「罰」が下っていないことを考えると、ちょっと気の毒だ。

『クレヨンしんちゃん 激突! ラクガキングダムとほぼ四人の勇者』

 

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 クレヨンしんちゃんの映画を劇場で見るのは2016年の『クレヨンしんちゃん 爆睡!ユメミーワールド大突撃』に続いて2回目。他には、『オトナ帝国の野望』や『戦国大合戦』はもちろんのこと、『夕陽のカスカベボーイズ』や『栄光のヤキニクロード』や『逆襲のロボとーちゃん』など、「名作」と評価の高いもの数作を配信で観ている、という感じ(『ユメミーワールド』に関しては当時に先に観た友人が「今回は名作だ」と語ってきたから劇場で観た、という経緯)。

 というわけで決してシリーズのファンというほどではないのだが……ドラえもん映画が毎回毎回感動のゴリ押しをしてきていつも同じメンツが同じような仕方で活躍をするという一定の枠内に収まっており野心や創意工夫が感じられずにつまらないのに比べて、しんちゃん映画はパターンを変えてくる場合が多くテーマも多様であり冒険的な作品も定期的に出てきてと、映画としての「志の高さ」はドラえもん映画としんちゃん映画との間には圧倒的な差がある(ポケモン映画については言及するまでもない)。だから、「しんちゃん映画」というシリーズについては、映画ファンとして好意的な気持ちを抱いている。プロモーションだけはドラえもん映画の方がうまいので、毎度毎度あちらの方が話題になるのだけれど。

 

 それで今回の『クレヨンしんちゃん 激突! ラクガキングダムとほぼ四人の勇者』であるが、今回は「しんちゃんが個人でかすかべの危機に立ち向かう」という点が野心的であると言える。風間くんやマサオくんなどのかすかべ防衛隊はおろか、ひろしやみさえなどの家族も敵軍によって囚われており、ただ一人紙ヒコーキの状態になって風に飛ばされて春日部から脱出したしんちゃんは富士山麓に到着して、春日部のみんなを救いに向かうことになる。そこで旅の道連れになるのが、ミラクルクレヨンによって実体化されて生命を与えられたブリーフ・ぶりぶりざえもん・ニセななこという3体の「ラクガキ」たち、そして春日部を訪れたまま行方不明になった母親を探すためにしんちゃん一行に同行するユウマだ。

 富士山麓から春日部までの道中ではラクガキたちとしんちゃんとの交流を描く場面はロード・ムービーのような趣である。また、儚い存在であるラクガキたちが最終決戦でひとりまたひとりで散っていく展開は戦争もの映画(『ローグ・ワン』など)の定番という感じであるが、ロード・ムービーのパートでしっかり交流が描かれていただけに散っていくシーンもそれなりに感動的である。そして、ラクガキたちはしんちゃんのイマジナリー・フレンドに類する存在であることを考えると、チームで世界(春日部)の危機を救うチームものであると同時にしんちゃん個人の内面が重される私的な物語といえなくもないし、児童文学的なよさもある。かすかべ防衛隊や野原家などの「いつもの連中」に頼れば感動的なストーリーを安定して量産することが可能であるところを、あえてそれに頼らずにしんちゃん個人に焦点を当てた物語を描いた、というのがいちばん評価できるポイントだ。

 ……しかし、途中から旅に合流するユウマの存在のせいで、物語の焦点がブレてしまうことになり、物語にせっかく存在した文学性やラクガキたちが散るシーンの儚さなどもだいぶ減じられてしまう。さらに、春日部に到着してからはしんちゃんとユウマは別行動になり、ラクガキキングダムの王女さまがユウマと一緒に行動したりなどして、話がどんどんブレてしまうのだ。ユウマがSNSタブレットを駆使するあたりも取って付けたような描写であり、「現代の物語です」「テクノロジーも否定していません」というエクスキューズ以上のものになっていない。ユウマの存在はまるまる削って、春日部に囚われた仲間や家族たちのシーン以外はあくまでしんちゃんとラクガキたちとの物語に徹底しておいた方が絶対によかっただろう。

 そして、この映画のなかでも明確にダメな場面は、いちどはしんちゃんによって救われた大人たちがしんちゃんがラクガキクレヨンを使い切ったことを知って文句を言い出したりしんちゃんを糾弾したりするシーンである。「助けに来てくれたヒーローが自分たちの思い通りにならないと市民たちが文句を言いだす」というのは『ワンパンマン』などではありがちな展開であるのだが、このテの「衆愚」描写って基本的にストレスが溜まるし陳腐であるしリアリティもないしで、百害あって一利なし。糾弾の対象がしんちゃんとユウマに散ってしまうところも、構成の失敗が表出している。クライマックスの展開にてユウマによる公共のスピーカーを使った発破で子どもたちがラクガキをはじめて、それを見た大人たちも改心してラクガキをはじめて……という展開につなげる「タメ」のシーンであることは承知なのだが、それにしたってぎこちない。また、そのクライマックスの展開も、使命感や危機感に駆られてはじめる時点で「自由なラクガキ」でもなんでもないんだから、作品の冒頭から強調されるテーマそのものと矛盾しているのではないかと思った。

 

 いつもならオープニングに用いられる粘土アニメーションをエンディングにまわして、オープニングの音楽もなく、ラクガキキングダムに訪れた異変をズバッと描いてラクガキが動きまわる不気味なシーンを挿入する冒頭シーンはなかなか優れている。「いつものしんちゃん映画」ではない、新しい物語を描くぞという意気込みが伝わってきた。それだけに、後半になって、この映画独自の構成やテーマ性への意識が薄れてアニメ映画やしんちゃん映画として定番な展開に回収されてしまうところは残念だったといえよう。

『TENET テネット』:設定や構成が難しいのは置いておいて、人間ドラマやテーマが描けていない

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 コロナ禍による大作映画の公開延期と『TENET テネット』公開前の盛り上げということが重なって、2020年は7月からノーランの過去作品のIMAX上映が続いた。

 もともと自分のなかの生涯ベスト級作品であった『ダークナイト』はIMAXで観てみるとこれまでとは全然違った奥行きが感じられて驚いたし、『ダンケルク』も時間軸についてしっかり理解したうえで再視聴してみると感動的な物語であることが伝わった。『インセプション』に関してはそもそもIMAXカメラで撮影されていないから「これをIMAXで上映されてもなあ…」という感はあったが、複雑な構成を承知したうえで再視聴することで私的な純愛を描いた作品であることがよくわかった。そして、公開当時にはいまいちピンと来なかった『インターステラー』こそはまさにIMAXで観るべき作品であったし、理系的なSF要素と文系的なテーマ性(と映画としてのハラハラドキドキ感やド迫力の映像)を兼ね備えたクオリティの高い物語には「もしかしてノーラン監督の作品でいちばん面白いのって『インターステラー』なのかも」と評価を改めるほどだった*1

 そして、ノーラン監督の作品といえばSF的な難解な設定による時間軸の仕掛けやトリックを駆使した複雑な構成をした脚本、あととにかくお金をかけて実写にこだわったとんでもなく豪華な映像ばかりが目立ちがちであるが、構成や設定を理解したうえでオチを知った状態で再視聴してみると、どの作品でも道徳的なテーマとそれに基づいた人間ドラマが描かれていることに気付かされる。そのテーマはどれも王道で真っ当であり、描き方は真摯で、感動的だ。むしろ青臭いくらいに古典的なテーマや物語が描かれているのだが、複雑で難解な設定や構成にド派手な映像と組み合わさることで、21世紀の巨匠による作品として成立しているのだろう。短い期間に連続して映画館で鑑賞することでノーラン監督は私がこれまで抱いていたイメージ以上に志が優れていて格の高い人であることが理解できたし、幾多も存在する映画監督の中でもトップクラスに……もしかして一番かも、というくらいに……好きな監督となった。

 

 というわけで『TENET テネット』だが、もちろんわりと期待して見に行ったのだが(とはいえ「本国では賛否両論」という情報を目にした時点から「あまり期待し過ぎないようにしよう」と身構えてはいたのだが)、残念ながら、あまり面白くなかった。

 設定や構成の理解のし難さは過去のノーラン作品と比べても際立っている。そして、過去のノーラン作品がそうであったように、物語の構成やオチをわかったうえで改めて再視聴することで伏線が発見できたり登場人物の意図が理解できるようになったりはするのだろう。……しかし、これまでのノーラン作品とは異なり、なんらかの道徳的なテーマが描かれているようには思えない。そして、『ダンケルク』や『インターステラー』などにあったような質の高い人間ドラマも存在しないように思える。『ダークナイト』の黒ハゲ白ハゲ問題のときのような感動的な場面もない。『TENET テネット』に関しては、設定や構成の複雑さとド派手(で珍妙)な映像が勝ち過ぎており、ノーランの真の持ち味であるテーマ性とか人間ドラマとかが失われてしまう結果になってしまったのだ。

 その原因の一つは、設定の中心となる「時間の逆行(だかエントロピーの減少だか)」という現象があまりに複雑過ぎて扱いづらいものであったということだ。『インターステラー』も『インセプション』もなかなか複雑な設定を扱った作品ではあったが、視聴している観客は初見の時点でも「あーそういうことね、全部はわからんけど大体はわかった」というくらいには理解できるものであったのだが、『TENET テネット』に関しては「半分もわからんぞ」という感じ。たとえば『インセプション』では前半の時点でしつこいまでに登場人物たちがルールの解説をしてくれたし、エレン・ペイジという新入りがチームに加わることでディカプリオやゴードン=レヴィットなどの先輩たちがルールを解説することになる…という物語的にもルール説明に必然性をもたらすという配慮もバッチリなされていた。しかし、『TENET テネット』は『インセプション』よりもずっと難しいルールで物語が動くのに、そのルールがロクに解説されない。主人公(ジョン・デヴィッド・ワシントン)がルールのことをわかっているのかわかっていないのか観客にもよくわからないまま、目まぐるしく動く事態に主人公が巻き込まれ続けるかたちで、物語が動く。だから、観客は「何が起こっているかよくわかんない」という状態のままポカンとして物語を見続けなけばならないし、もちろんテーマ性なんてあったとしても初見では理解できるはずがない。

 そして、テーマも感動も、やっぱり『TENET テネット』にはないと思う。SNSで他の人の感想を見てみるとニール(ロバート・パティンソン)の最後や正体が取り沙汰されているし、感動ポイントがあるとしたらニール関係なのだろうし、「起こったことはしょうがない」という彼のセリフがもしかしたらテーマに関係あるのかもしれないが、「でもそれってこれまでにも"タイムトラベルもの"な作品で散々描かれてきたことと何か違いがありますか?」って感じである。すくなくとも、これまでのノーラン映画にあったような、「この設定で、この作品で、この複雑な構成で、これほどまでにお金を使わなければ描けない」というような必然性が感じられない。だから、「実物のジェット機を炎上させてみました!」とかのお金を使ったド派手描写も、逆再生を駆使したトンチキな戦闘シーンも空回りしている。

 テーマは置いておいて映画としての構成を考えても、途中で主人公が「回転ドア」に入って時間を逆行し始めることでこれまでの描写や展開も「逆」の立場から見えるようになる、という仕掛けはたしかに「時間の逆行」という設定とマッチしているのはいるのだが……そのために前回の展開が「逆から見るとこうだったんです」というのをやるための前フリになってしまっているきらいがあり、そしてその前フリである前半がしっかり長いので、物語全体における「面白さ」の総量を失わせる結果につながっているように思える(「逆」の世界に突入する展開のときの説明不足や忙しなさもマイナスだ)。そのくせ、途中で出てきた顔の見えない人物が主人公本人だった、という展開はまあ時間系のSFに少しでも触れてきたらすぐ予想できるようなものであったりして、「驚き」というものはほとんどない。最後の最後における「実はテネットの親玉は主人公本人だった」という展開も『インターステラー』とちょっと被っているし、そうでなくても「そうっすか」という感想しかなくて、そう言われても驚くことや感動することがないのだ。

 

 そして、この映画が「スパイもの」であることも、この映画のテーマ面や情緒面での魅力の欠如につながっている。一般兵士や一般人が主人公である『ダンケルク』や「娘を助けるために地球を救う」ことがまじ明示されていた『インターステラー』はもちろんのこと、主人公たちが「プロフェッショナル」を気取っている『インセプション』や『ダークナイト』ですらも実際にはミッションに対して私情をモリモリに挟んでいたが、『TENET テネット』の主人公はこれまでに比べてもプロフェッショナルであり私情というよりはスパイとしての使命感やプロ意識で動いているように思える。ヒロイン(エリザベス・デビッキ)への感情は抱いておりそれによって物語が動く展開もあったりはするのだが、そこが全面に押し出されてもいない。だから、「名も無き男」という役名とは裏腹に、これまでのノーラン作品の主人公に比べてずっと感情移入しづらい状態になってしまっている。

 とはいえ、たとえ感情移入しづらくてもプロフェッショナリズムを全うする姿の格好良さやカリスマ性によって観客を魅了してくれるのなら文句はないのだが、主人公は最後まで「時間の逆行」現象への巻き込まれ役であり驚き役である。主人公がスパイという点ではプロフェッショナルであるという面と、「時間の逆行」現象に関しては素人であるという面とがマッチしておらず、チグハグになっているのだ。ジェームズ・ボンドが毎度毎度びっくりしていたら『007』は成立しない。

 だから、主人公が自らの意志と能力によって主体的に事態を動かして運命を切り開いていく物語であるとも言い難い。…そりゃ最後に「実は黒幕は俺本人だった」と主人公に言わせることで設定的には「主人公の意志によって起こった物語でした」ということにはされるのだが、そんなの口だけならなんとだって言える。

 

 しかしながら、主人公に関してはジョン・デヴィッド・ワシントンの好演が幸いして、キャラクターとしては失敗していてもまあ観客がなんとなく好感が抱ける人物にはなっている。より深刻な問題であるのは、ボス敵であるアンドレイ・セイター(ケネス・ブラナー)の圧倒的なショボさ、そして彼が引き起こそうとしている"世界の危機"があまりに抽象的でふわふわしていることだ。

 作中では「時間が逆行させられて全ての生物が滅ぶぞ!」と騒ぎ立てられるのだが、たとえば普通の作品であればイメージ映像を見せたり局地的・限定的に事態を引き起こしてその結果を見せることで観客に危機を具体的にイメージさせて「こんな事態が起こる前に阻止しなければ」と主人公たちに感情移入させるところを……それがないので、「なんか全ての生物が滅ぶらしい」という漠然とした情報しかないままである。更にいえば「アルゴリズム」が物理的なパーツに分かれている理由もよくわからんし、なんか大爆発とアルゴリズムが関係しているらしいけどその理由がなんなのかもよくわからんし、だからいきなり登場した味方チームの大部隊が「時間軸の挟み撃ち」を行いながら爆心地に突入する理由もさっぱりわからん。「決死の作戦」という風に盛り立てていたけど味方が死んでいるのかいないのかもよくわからん。それを言うなら「逆行する銃弾」とかの武器としての有用性もよくわからないままだったし、味方チームに匹敵するほどの大部隊をセイターが保持していることにもびっくりしたし、この作品の一番の見どころである順行・逆行・回転ドアを駆使した大規模戦闘シーンの物語的な必然性が全くわからんのであった。まあこれは設定面での難しさの話だから何度か再視聴すれば理解できるのだろうが、これまでのノーラン作品であればなんだかんだでクライマックスの部分は直感的にわかりやすくして観客をノせてくれていたものである。

 で、アンドレイ・セイターであるが、こいつがとにかく小物っぽい。そこら辺のマフィアのボスみたいな風貌をしており、そこら辺のマフィアのボスみたいな言動をして、ヒロインに固執して独占しようとするその性格はボス敵のそれではない。『ダークナイト』だったらジョーカーに対してイキって返り討ちにされているし、『ダークナイト ライジング』だったらベインに首を折られているタイプの人である、途中までは「仲介役」と言われていたこともあって、「こいつは中ボスでラスボスは他にいるんだろうな〜」と思いながら観ていたらいつの間にかセイターがラスボスになっていて、「こいつがボスでいいの?」と思ってしまった。セイターとヒロイン(そして主人公)の関係はたしかに昔のハードボイルド映画ではありがちなものであるし、スパイ映画らしいといえばそうであるのかもしれないが、世界を滅亡させられるほどの力を持った存在がやることじゃない。「愛する女を支配することができなくなって幸せを得られなくなって自暴自棄になって世界を道連れにする」というのが動機だったとしても、たとえば線の細いイケメンなマッドサイエンティストがそれをやろうとするなら絵になるのだが、反社のおっさんにやられても話にならないのだ。

 あとヒロインについてもそもそもこんな見るからにDVしそうな反社のおっさんと結婚なんか最初からするなよ、と思わされてしまい、あまり好感が抱けなかった。なんか『白い闇の女』でもヒロインが反社のおっさんと結婚して酷い目にあわされていたし、レイモンド・チャンドラーの小説でもそう言う展開があったような気がするからハードボイルドものの定番なのかもしれないけれど、だからといってそれが面白いわけじゃないんだよねえ……という感じ。

 

 言われてみれば『007』シリーズでもボス敵の大半が小物であったりジェームズ・ボンドが終始巻き込まれ役なままな作品もあったりはするのだが、『TENET テネット』には『007』シリーズのような軽快さやお洒落さなどがあるわけでもない。『コードネームU.N.C.L.E』は悪役を憎たらしく描いた後に痛快にぶっ殺すところがよかったわけだが(よくはなかったけれど『キングスマン』もそうだ)、『TENET テネット』にはそんな痛快さもない。難解で重苦しく、ときにテンポも鈍くなってしまうノーランのSF作品と「スパイもの」というジャンルとは、けっきょく水と油であったのかもしれない。SF要素抜きであれば『ダークナイト』に類するような傑作になっていた可能性もあっただろうけれど。

 というわけでノーランにはそろそろ「"時間"を利用した斬新な構成」にこだわるのはやめてもらって(このままじゃラスボスのスタンド能力のネタが尽きて困る荒木飛呂彦みたいになってしまう)、普通に面白い映画を撮ることを目指してもらいたいところである。難解なSF設定や物語構成が映画に価値を与えるのは、その設定や構成でないと描けないテーマと感動があってこそであるし、キャラクターが魅力的であることも必要条件だ。物語の設定や構成を難解にすること(やジェット機を炎上させたりすること)はあくまで「手段」であり、そこが「目的」になると本末転倒なのだ。

ひとこと感想:『7番房の奇跡』&『羊飼いと屠殺者』&『LOOPER/ルーパー』

 

●『7番房の奇跡』

 

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 もともとは韓国映画だが、トルコでリメイクされたバージョンを鑑賞。トルコ映画なんかなんてなかなか見る機会がないし、「ファンタジー色や感動色が強すぎる韓国版よりも抑えめなトルコ版の方が面白い」という評判を見かけたから。

 しかし、これで「抑えめ」かい、と思ってしまうくらいにこちらでも荒唐無稽さと感動の押し付けがひどい。特に「ここで感動してください」と言わんばかりのBGMがうざかった。女の子は可愛らしいし、知的障害者を演じる主演の人も演技が上手いし、脇役のギャングのおっさんも雰囲気が出ているとは思ったのだが、このストーリーはやっぱりキツい。特に、証人が射殺されるシーンは『ショーシャンクの空に』の丸パクリみたいな感じで「はあ?」って感じだった。あちらと違ってこちらでは殺害に必然性がないし…。いちおう死刑反対というメッセージは込められているみたいだが、それどころではないと思う。

 

●『羊飼いと屠殺者』

 

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 南アフリカの映画。『7番房の奇跡』と同じく死刑の問題を扱っているが、あちらとは打って変わってリアルで重苦しい、社会派な映画だ。

 が、今度は真面目過ぎて面白くない。「看守が死刑執行をやらされること」によるトラウマとかそういう制度の非人道性が強調されており(『羊飼いと屠殺者』というタイトルもまんまそれを表している)、そのメッセージには同意できるのだが、わざわざミステリー仕立ての法廷劇をされなくてもそんなことはわかっているんだよ、という感じだ。そして、ミステリー風であったり法廷劇であったりしながらもエンタメ性には欠けるので、興味が持続するわけではない。「なぜ青年は殺人を犯したのか」という問いへの答えは説得力に欠けるものだったし…。もっと面白い死刑反対映画がアメリカにはいっぱいあるので、南アフリカ特有の事情が反映されていることを考慮しても、わざわざこの作品を観る必要はそんなにないよなあと思った。

 

●『LOOPER/ルーパー

 

LOOPER/ルーパー (字幕版)

LOOPER/ルーパー (字幕版)

  • 発売日: 2013/11/26
  • メディア: Prime Video
 

 

 

 ジョセフ=ゴードン・レヴィットが30年後にはブルース・ウィリスになってしまうお話。

「30年後の未来ではタイムトラベルは開発されたのちに違法になったけどギャング団は非合法にタイムトラベルを利用しており、未来だと死体の処理が不可能になったので殺したい人間を過去に送り込んで処理している。その処理を担当する現代の殺し屋は、30年後に殺される運命であり、現在の自分自身が未来の自分を殺すというルールである」という持ってまわった異様な設定はどう見ても非合理的であるが、殺しの場面の絵面とか「自分で自分を殺す」という皮肉さなどが面白くて、掴みはバッチリという感じだ。そして、いざブルース・ウィリスがジョセフの元に登場した後の諸々の展開ではタイム・トラベルものが普通配慮する常識をかなぐり捨てていて「そうはならんやろ」という矛盾が盛り沢山であるのだが、まあそういう強引さも悪くないかもしれない。

「タイム・トラベルができたならヒトラーを殺すか?」的な定番のジレンマをテーマにしているところ、そこに「過去の自分が未来の自分を殺そうとするとどうなる?」という展開が交じるところが、この映画の後半の展開のキモである。……しかし、Xメンのダーク・フェニックスじみた安っぽい超能力がキーとなってしまったり後半に登場した人物たちが物語的には主人公よりも重要な存在になってしまったりと、テーマを描くための設定や構成がうまくいっていない。前半には「現在の主人公と未来の主人公」の物語が結構な尺を取って描かれるのに、後半になると急に置いてけぼりになってしまうのだ。特にブルース・ウィリスの存在感のなくなりっぷりはひどいものである。

 他の人の感想を見てみても「急に超能力が出てきてタイム・トラベル要素がかすれてしまったし、そもそもタイム・トラベルものとしては矛盾点が多過ぎてひどかった」という感想が大半なようである。まあ惜しい作品であるだろう。