THE★映画日記

映画(たまに漫画や文学)の感想と批評、映画を取り巻く風潮についての雑感など。

『テリー・ギリアムのドン・キホーテ』:ダラダラした展開はキツいんだけどアダム・ドライバーはよかった

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 私がはじめて一人で劇場まで行って観た映画は、テリー・ギリアム監督の『ローズ・イン・タイドランド』である。その当時は高校二年生で爆笑問題太田光の著作にハマっており、太田がラジオか何かで『ローズ・イン・タイドランド』をお薦めしていたから影響されて観に行ったという経緯だ。京都みなみ会館という小さな映画館に行ったものである。

ローズ・イン・タイドランド』自体はよくいえば幻想的、悪くいえば話のメリハリが少ないダラダラした作品であったが、はじめて自分ひとりで映画館に行ったという興奮もあったことから、退屈せずに観ることができた。

 それから十数年、映画館に行った回数も100回は超えているだろう。さすがに「映画館に行った」というだけで興奮することはできなくなった。というわけで、『ローズ・イン・タイドランド』と同じくダラダラしたお話が延々と続く『テリー・ギリアムドン・キホーテ』はキツかった。

 主人公は『ドン・キホーテ』をネタにしたCMを撮影しているCM専門の監督で、若い頃の学生時代には『ドン・キホーテ』を題材にした自主製作映画も撮っていたという設定だ。この設定には、『ドン・キホーテ』の映画を何度も取ろうとして挫折してきたテリー・ギリアム自身の経歴が反映されている。以前の『ドン・キホーテ』撮影が挫折した経緯については『ロスト・イン・ラ・マンチャ』というドキュメンタリーで詳しく説明されているのだが、この映画を観に行く前にわざわざAmazonプライムで観ておいた甲斐があり、映画の趣旨や構造が理解できやすくなった。劇中では途中で大雨が降り「これで撮影はムリになるな」と登場人物が言うシーンがあるのだが、このシーンも、実際に大雨のためにギリアム本人が撮影を挫折したエピソードが反映されている。

 

 とはいえ、繰り返しになるが、映画としてはダラダラしているので面白くない。昔の映画ならこれくらいダラダラしたものも多くあったが、現代の洗練されたスピーディーな脚本に慣れた身にはキツい。また、「現実と妄想の区別が付かなくなる」ことが映画の根幹にあり、登場人物たちの内面だけでなく映画の展開自体もだんだん現実と妄想の境目が曖昧になっていくという構造になっているのだが、これもお話のメリハリをなくす悪い作用をきたしていたような気がする。

 

 しかし、俳優陣は何しろよかった。何と言ってもアダム・ドライバーだ。実はテリー・ギリアム自体にはもとから期待していなくて、私がこの映画をわざわざ劇場まで観に行った理由は、『マリッジ・ストーリー』を観て以来アダム・ドライバーにどハマりしているからである。そして、アダム・ドライバーがここまで全面的な主役になっていて、多彩な格好をしたり様々なアクションをしたりいろんな種類の悲惨な目にあったりする映画は他にない*1

 また、自分をドン・キホーテだと思い込んでいる老人を演じるジョナサン・プライスもよかったし、無理矢理にサンチョの立場にされしまうアダム・ドライバーとの掛け合いもよかった。

 女性陣に関しては完全に話の添え物というか男性陣のトロフィーというか、セックスアピールはあっても人格がない感じに描かれていた。最近の映画ではなかなか観ないような古典的な官能的なシーンも多く、いかにも「昔の映画監督」という感じである。

 また、この映画の冒頭では、話の筋とは全く関係ないのに、動画監督である主人公がわざわざLGBTに関して文句を付けるシーンもある。これもテリー・ギリアムの「反ポリコレ」アピールだろう。しかし余計だった。

 

 しかし、テリー・ギリアムに限らず、いや映画に限らず漫画や小説などでも「現実と妄想の区別が付かなくなる」系のお話というものはどうにもダラダラしがちで楽しめないことが多い。「メタフィクション」っぽさも余計でイラっとさせられてしまうことが多い。そういえば私が学生時代に在籍していた文芸部でも、(小説家としての基本的な能力も育ってないくせに)「メタフィクション」っぽい作品を書きたがる人が多かったように思える。なんでフィクションの作り手は「メタフィクション」を作りたがるのだろうか?

*1:Amazonプライムオリジナルの『ザ・レポート』という映画もアダム・ドライバーが主役ではあるが、ずっとスーツを着ていて真剣な顔をしているだけなので面白くなかった。