THE★映画日記

映画(たまに漫画や文学)の感想と批評、映画を取り巻く風潮についての雑感など。

『X-MEN: ファースト・ジェネレーション』&『X-MEN: フューチャー&パスト 』

 

X-Men: フューチャー&パスト (字幕版)

X-Men: フューチャー&パスト (字幕版)

  • 発売日: 2014/10/01
  • メディア: Prime Video
 

 

 

X-MEN:ファースト・ジェネレーション (吹替版)

X-MEN:ファースト・ジェネレーション (吹替版)

  • 発売日: 2013/11/26
  • メディア: Prime Video
 

 

 

 映画の『X-MEN』シリーズには『ダークナイト』のような重厚さもなければMCU(のなかの良質な)作品のような洗練や上手さもない。グループが主人公であり主要登場人物が多数いるところはいいところだが、そのぶんドラマやテーマがとっちらかるということでもあり、サム・ライミの『スパイダーマン』シリーズの主人公に抱くような共感や親近感も得られない。特に最初の『X-MEN』と2作目の『X-MEN2』はエンタメとしては上々であってもところどころに雑な描写が目立つし、3作目の『X-MEN: ファイナル ディシジョン』や4作目の『ウルヴァリン: X-MEN ZERO』の評判の悪さは有名だろう。

 私は『X-MEN2』や『ウルヴァリン』には少年漫画的な面白さが感じられてけっこう楽しく観れたのだが、それでもたとえば『アベンジャーズ』や『キャプテンアメリカ:ウィンターソルジャー』などの名作とは比べるべくもない。ただ、初期の『X-MEN』はいまとなってはアメコミ映画のなかでも「黎明期」の作品であることは認識すべきだろう。ノウハウが成熟した2010年代以降の作品と比較するのも酷というものである。

 

 そして、2010年代から新しく作られるようになったX-MEN映画には、昔の作品にはないような「洗練」を感じられるようになった。『X-MEN: ファースト・ジェネレーション』を劇場に観に行ったときにはキャラクター描写の描き方の進化とテンポの軽快さに新鮮な楽しみを感じられたし、ミュータント同士の争いといういかにも架空なストーリーのなかにキューバ危機という実際の歴史的事項をリンクさせる手法にはワクワクしたものである。

 プロフェッサーXを演じるジェームズ・マカヴォイが苦悩する若者という感じで印象深かったし、マグニートーを演じるマイケル・ファスベンダーも怪しくて魅力的だ。なによりも、レイブン(ミスティーク)を演じるジェニファー・ロレーンスはゴージャスさとセクシーさを兼ね備えていて華がある。プロフェッサーXとマグニートーとの間を揺れ動くレイブンこそがこの映画の魅力を体現するキャラクターであるが、マカヴォイやファスベンダーに負けない「格」を持つローレンスの登用が成功のカギといえるだろう。

 

 その次の『X-MEN: フューチャー&パスト』も、前作における登場人物の悩みをさらに深く描きつつ1作目〜3作目の世界観とリンクさせるストーリーが実に見事だった(タイムスリップを利用した世界改変は強引といえば強引ではあるのだが)。前作の豪華キャストに加えてヒュー・ジャックマン演じるウルヴァリンが復帰したことも大きい。マカヴォイやファスベンダーにも格はあるのだが、同じ画面に映ると彼らの存在も萎んでしまうくらい、ヒュー・ジャックマンには存在感やカリスマ性があるのだ。…実は、ストーリーやアクション上の見せ場はほとんどないし、後半にけっこう雑な方法で物語から退場させられてしまうのだが。ついでに言うとエレン・ペイジが出演しているのもよかった。

『フューチャー&パスト』のストーリーの特徴といえばやはり未来と過去が同時並行で進むことだろう。また、未来のストーリーではミュータントたちが到底太刀打ちできない絶望的な戦力を持つセンチネルたちとの撤退戦が描かれている一方で、過去のストーリーは明確な敵となるミュータントが出てこないし、内輪揉めによるバトル描写すらほとんどない。マグニートーがドームを磁力で動かしたり旧型センチネルを動かす場面はあるが、これも、敵性ミュータントが出てこないゆえに他の方法で画面に派手さを与えるための苦肉の策という感がある。だが、わかりやすくバトルに勝って終わりではない、プロフェッサー/マグニートー/ミスティークが三つ巴で説得しあう「イデオロギー争い」がメインであるからこそ、新しい面白さを持つストーリーになっていたのだ。ある点では『キャプテン・アメリカ:シビル・ウォー』の面白さを先取りしていた作品であるとも言える。

 

 …と、過去のシリーズよりもずっと面白くなっていた『X-MEN』新シリーズであったが、だからこそ『アポカリプス』や『ダーク・フェニックス』の惨状にはがっかりしたものだ。世間では『ダーク・フェニックス』ばかり(悪い意味で)取り上げられているが、『アポカリプス』のひどさも大概なものである。

『アポカリプス』は2016年に劇場で見たっきりなので詳細は覚えていないが、なんか、敵役であるアポカリプスがプロフェッサーの能力を奪おうとして、プロフェッサーがそれを逆利用してアポカリプスにひと泡ふかせる、という描写があった。「自分の精神世界だと自分の方が強い」みたいな理論で、プロフェッサーが精神世界のなかででっかくなったりしてアポカリプスと戦ったりするのだが、このシーンも展開に工夫というものがなくてうんざりした。『フューチャー&パスト 』ではプロフェッサーがテレパス能力を使うことで全世界の人の苦痛がプロフェッサーの頭の中に流れ込んできてプロフェッサーがそれに苦しむ(でも耐えられない)…というシーンがあるのだから、『アポカリプス』でもこれを利用して「アポカリプスは超人であるからこそ痛みになれておらず他人の苦痛が流れ込んできたら耐えられない」みたいな、なんでもいいから「能力バトル」っぽい展開をしてほしかったものだ。

 というか、『X-MEN』シリーズは、いやハリウッドのアメコミ映画全般が、昔から「能力バトル」というものをあまりに軽視している。多彩な能力を持ったキャラクターが登場してドンパチやるのにそれぞれの能力が勝敗の趨勢に関係することはほとんどなく、勝敗は物語の匙加減であらかじめ決まっているのであり、バトル描写は画面を派手にするためだけに行われているのだ。日本のバトルものの漫画やアニメに慣れた身からすれば、これにはいつも歯がゆい思いをさせられる。