THE★映画日記

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村上春樹の『沈黙』:なぜ人は物語を相対主義的に読解したがるのか?

 

沈黙 (集団読書テキスト (第2期B112))

沈黙 (集団読書テキスト (第2期B112))

 

 

 この作品は学校教育の現場で集団読者や読書感想文の題材として選ばれることも多く、その内容を知っている人は多いだろう。Wikipediaに簡潔なあらすじが載っていたから引用する。

 

「僕」は、職場の先輩と思われる31歳の大沢と空港のレストランにいた。二人は天候不順で遅延している飛行機の運航再開を待ちつつ世間話に興じていたのだ。会話の中で僕は大沢がボクシング経験者と知り、大沢の普段のイメージとのギャップから「これまでに喧嘩をして誰かを殴ったことはありますか」と訊ねてみた。

大沢はしばらく沈黙した後、おもむろに語り始めた。中学二年生の時、一度だけ殴ってしまった同級生・青木との間で起きた中高時代の出来事やその後の人生について。そして本当に怖いのはどのような人間かについて。

沈黙 (村上春樹) - Wikipedia 

 

「僕」はあくまで聞き手であり、作中のストーリーとはほとんど関係がない。主役はあくまで語り手である「大沢」だ*1

 そして、大沢の同級生である「青木」は、プライドが高くて執念深く、同級生たちを煽動して大沢を精神的に追い詰める悪役として描かれていることは間違いない。また、表題の『沈黙』の意味について大沢が語るところがこの作品のクライマックスであり、多勢順応的で無責任なマジョリティがひとりの個人に対していかに残酷な振る舞いをして個人を傷付けてしまうか、ということが強調されている。基本的には、「いじめ」や「リンチ」の恐ろしさや非道徳さについて伝える作品と言っていいだろう。

 

 …ところが、ネット上など「沈黙」の感想や評論を検索してみたところ、単純に大沢が主役で青木が悪役という風には解釈しない読み方の方が多いようだ。むしろ、大沢が「僕」に語るという伝聞系の形式になっていることから、「信頼できない語り手」のトリックを察知して、「大沢が語っていることは正確ではないかもしれない」と疑うことから読解がはじまる。そして、青木が大沢の言うような悪人ではない可能性や大沢が自分にとって不利な事象を隠して語っている可能性などを検討しながら、「読者である私たちが大沢の言うことを素直に信じこんで、青木が悪人だと判断したり青木に対する非難をおこなってたりしてしまうことは、青木に大沢の悪評を吹き込まれて大沢へのいじめをおこなった同級生たちの行為と何ら変わりがない」とするのだ。つまり、『沈黙』という作品にある種の「仕掛け」を読み取って、作品が一見したところ発しているメッセージではなくその裏にある"真の"メッセージを見出す、という読解の仕方をするのである。

 

 このような読解の仕方…深読みしなければ気付かないような作品の「仕掛け」やトリックを読み取り、隠された「作者の意図」を見出す読解の仕方…は、『沈黙』に限らず多くの文学作品に対してなされていることだ。

 たしかに、作品に隠されたテーマを発見することは、文学の読解の基本的な方法の一つであるかもしれない。また、深読みをして隠された作者の意図を見出すことは、読解という行為に知的な面白さを与えてくれるものでもあるだろう。何よりも、ただ単に感想を述べているのではなく「分析」を行なっているという体裁を整えてくれて、外部に発表することに値する独自性や「面白さ」を自分の読解に与えてくれる。

 さらに、実際に多くの作家が自分たちの作品に「仕掛け」を施して、「意図」をあえて隠していることも確かなところだ。作家というものの多くは素直でない皮肉な性格をしている。ミステリーに限らず、通常のエンタメやいわゆる純文学ですら、作家たちの多くは作品に仕掛けを施して複雑さを与えることが好きなものだ。そっちの方が「知性的」な感じがするし、ストレートにメッセージを語る作品よりも二転三転して最後までメッセージやテーマのわからない作品の方が作品の格の高い雰囲気を出せる。

 …だが、実のところ、ちょっと深く読解すれば発見できてしまうような仕掛けを施すことは作家としては二流三流の格が低い行為である。そして、村上春樹はそのような二流の小細工からは程遠いところに位置する作家だ。村上春樹の作家としての価値や独自性は、彼が作家にしては珍しいほどに皮肉さがなく素直な性格をしていることにある。彼は作中で道義的メッセージを伝える時にはそれを素直に表現するのであり、『沈黙』に限って読者の裏をかく仕掛けを施してメッセージを隠すということは考えづらい*2

 

『沈黙』は、大沢が語っていることは事実であり青木は悪者であると、素直な読み方をするべき作品だ。その根拠をいくつか示そう。

 まず、大沢の語りを通じて描かれる青木の「悪さ」は村上作品に登場する他の悪者たちの「悪さ」と一致している。特に、自分のプライドを傷つけた相手に対して他者を煽動してネチネチと復讐する執念深さは『ねじまき鳥クロニクル』の綿谷ノボルとそっくりだ。村上春樹は自分の中の「悪」の定義が明確にある作家であり、その定義はおそらく彼の実体験を通じて培った「こういう人間が嫌い」という価値観に基づいている。そして、彼は作品のストーリーや構成に応じて「悪」や「悪さ」の定義を変えるような器用な真似をするタイプの作家ではないのである。

ねじまき鳥クロニクル』の綿谷ノボルの「悪さ」は「悪」をストレートに描写するために描かれていたが、同じ「悪さ」が、『沈黙』では読者をミスリードさせるための小道具として用いられる、ということは考えづらいのだ。青木は綿谷ノボルと同種の悪人であると読むべきだ。そして、その青木にいじめられた後に立ち向かった大沢は、『ねじまき鳥クロニクル』の主人公の「僕」(岡田亨)と同じく、「悪」に対抗する存在である(つまり、ある種の「善」を体現する存在)と読むべきである。

 

 また、「いじめ」を題材にしながら 「いじめられた体験を語る人の言うことが真実ではない、いじめた側にも事情があるかもしれない」的な「相対性」を描くことは、村上春樹の価値観とはあまりにそぐわない。

 善や悪に関する村上春樹の価値観のコアとなる部分は、エルサレム賞を受賞した際のスピーチで彼が語った、かの有名な「壁と卵」の比喩に象徴されている*3

 

「高くて硬い壁と、壁にぶつかって割れてしまう卵があるときには、私は常に卵の側に立つ」

そう、壁がどんな正しかろうとも、その卵がどんな間違っていようとも、私の立ち位置は常に卵の側にあります。何が正しくて何が間違っているか、何かがそれを決めなければならないとしても、それはおそらく時間とか歴史とかいった類のものです。どんな理由があるにせよ、もし壁の側に立って書く作家がいたとしたら、その仕事にどんな価値があるというのでしょう。

【全文版】卵と壁 ~村上春樹氏 エルサレム賞受賞式典スピーチ | 青山の昼と千駄木の夜 ~Indiana(インディアナ)暮らし編

 

『沈黙』においては、いじめの被害を受けた大沢が「卵」として描かれており、大沢をいじめた青木と周囲の人間たちが「壁」として絵が描かれていると読むべきだ。特に村上春樹は典型的な個人主義者であり、「多数 vs 個人」という構図においてはほぼ確実に個人の側の味方をする人物であることを忘れるべきではない。そして、個人主義者だからこそ、「扇動者」及び「扇動される多勢」がとりわけ嫌いで、そのような人間たちの「悪さ」を繰り返し描ているのだ。

 村上春樹が「卵」や「個人」の側に立つのは彼の絶対的な価値観に基付いたことである。そんな彼が『沈黙』に限って相対主義を持ち出して「実は個人である大沢が正しいとは限らないし、多勢である青木が悪いとは限らない」という隠しメッセージを仕込むことは、不自然過ぎて考えづらいのである。仮に「大沢が正しいとは限らない」というところまでは事実であったとしても、それでも「大沢の側に立て」と私たちに要求するのが村上春樹であろう。

 もうひとつ指摘しておきたいのが、「青木の言うことを信じて大沢をいじめた同級生たち」と「大沢の言うことを信じて青木を悪人だと判断した聞き手の"僕"(や読者たち)」とでは、やっていることがだいぶ異なるということだ。前者は自分の同級生をいじめるという「行為」をしているが、後者は自分が実際に会うことがない人物に対して「判断」や「評価」をしているだけである。だから、そもそも、「大沢をいじめた同級生たちと青木を悪人だと判断した私たちは同じ穴の狢だったんだ!」と言われても困る。やっていることが全然違うし、"僕"は青木になんら害を与えていないのだ。

 

 そして、「大沢の言っていることは真実ではないかもしれず、青木は悪人ではないかもしれない」説は、ただ単に間違った読み方であるだけでなく、道徳的にも問題のある読み方である。

 どこの国もそうかもしれないが、特に日本は「正義とされていることは、実は正しくないかもしれない」「正義の反対には別の正義がある」といったタイプの「相対主義」的な価値観が大流行りしている国である。その相対主義は物語の読解にも影響を与えている。昔話の「桃太郎」にすら「ボクのお父さんは、桃太郎というやつに殺されました」相対主義的な「読解」がなされて、それが道徳の授業にも取り上げられる始末なのだ。

 たとえば何かの事件に対して「被害者にも落ち度があるかもしれない、加害者にも事情があるかもしれない」という相対主義的な物の見方をすることは、冷静で物分りが良く公平で客観的な行為だと見なされがちであり、知的なイメージすらあるだろう。だが、そのような物の見方は、その見方をする人にとって無難で安全なものである。つまり、被害者の言うことを信じて共感したり一緒になって怒ったりするという「コミットメント」を避けることであるのだ。

 コミットメントを避けて中立的な立ち位置をキープしていれば、仮に被害者には何の落ち度もなく被害者の言っていることが真実であったとしても、被害者を積極的に非難していたわけではなく「〜かもしれない」と留保を付けていただけなので自分になんらかの責任が生じるわけではない。一方で、もしも加害者にも事情があったり被害者にも落ち度があったりしたことが判明すれば、自分が「〜かもしれない」としていたことが正しかったと判明することで「正しい判断をした」という評価や満足感が得られる。つまり、「〜かもしれない、〜かもしれない」と留保を付けた判断をすることは、勝った場合には得が得られて負けても損がない、ワリの良い賭けであるのだ。一方で、被害者の言うことを信じたり被害者に共感することは、ワリの悪い賭けである。

 そして、自分の損得のためにコミットメントを避けてワリの良い賭けをし続けることが無責任な行為であることは、言うまでもない。

 

『沈黙』のように道徳的なテーマを題材にした作品には、道徳的コミットメントを避けてワリの良い考え方をしようとする私たちの無責任さや欺瞞をあぶり出して糾弾する側面もあるだろう。

『沈黙』を深読みしてそこから相対主義的なメッセージを見出す行為は、認知的不協和に対処するための心理的な防衛や回避であるのだ。

 つまり、作品を通じて指摘されて発見してしまった自分の無責任さや欺瞞を直視したくないがために、作品のメッセージやテーマをあえて誤読することで、自分の無責任さや欺瞞を再び覆い隠そうとしているのである。…だが、自分の欠点や盲点を指摘されることによって認知的不協和が「居心地の悪さ」が生じさせられることこそが、そもそも文学を読む意味というものである。居心地が悪くなることに耐えられなような人には、文学は向いていないのだ。

 また、文学に限らず映画や漫画などの他の形式の物語に対しても、その物語が明らかに表現している道義的メッセージや道徳的テーマを無視して、相対主義アイロニーを読み取ろうとする人の姿を見かけることは多い。そのような人たちは、自分たちの読解は知的で優れたものではなく、安直で愚かなものであることを自覚するべきである。その読解は、「認知の歪み」に過ぎないのだ。

 

(さらに言うと、『沈黙』を相対主義的に読解したがることの背景には「公正世界仮説」もあるかもしれない。「大沢の言っていることは間違っているかもしれない」という発想には、実際の事件においてしばしば生じる「被害者非難」の問題と共通するところがあるではないか?)

*1:ちなみに、村上春樹の短編集『回転木馬のデッド・ヒート』では、収録されているどの作品でも春樹本人が「僕」として語り手の話を聞くという形式になっている。この作品の初出は『村上春樹全作品 1979~1989〈5〉 短篇集〈2〉』で、全集内では『回転木馬のデッド・ヒート』の直後に収められているという構成になっているから、実質的には『回転木馬のデッド・ヒート』の延長線上にある作品と言っていいだろう。

*2:また、"『沈黙』に仕掛けが施されている"説の大半は、この作品が伝聞形式であることから「伝聞という特殊な形式で書くからには、何か裏があるはずだ」という発想を出発点にしている。しかし、上述したように『沈黙』が『回転木馬のデッド・ヒート』の延長線上にあることを考えると、この出発点がそもそも的外れである可能性が高い。『回転木馬のデッド・ヒート』に収録されている作品群は、いずれも伝聞形式であるが、伝聞形式ならではの仕掛けは特に施されていないからだ。

*3:ちなみに「壁と卵」の比喩はエルサレム賞受賞スピーチが初出ではないはずだ。私が読んだ限りでは、90年代後半〜2000年に解説されていたオンライン版の「村上朝日堂」における読者とのQ&Aを集めた『村上朝日堂 夢のサーフシティー』または『スメルジャコフ対織田信長家臣団』のどちらかにおいて、読者からのなんらかの質問への回答のなかですでに「壁と卵」の比喩を用いていたはずだ。…私の記憶が正しければ。