THE★映画日記

映画(たまに漫画や文学)の感想と批評、映画を取り巻く風潮についての雑感など。

「普通の人でいいのに!」:"繊細さ"と被害者意識と文学性

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 数週間前に、話題になった作品だ。批判意見や拒否反応も多い一方で、「共感できた」とか「実際に東京にいそうな人物をリアルに描けている」という肯定意見もちらほらと見かける。

 わたしが最初に流し読みしたときには、あまりに赤裸々な内容から、逆に「主人公のような女性には本心では共感していない、別のポジションにいる作者が、皮肉や揶揄を込めて戯画的に描いた」タイプの作品であるように感じられてしまった。しかし、しっかり読んでみると、作者は明らかに主人公に共感しており、ある程度までは主人公と自分を同一視している作品であることも伝わってきた。つまりは、私小説的な作品であるのだろう。

 

 女性にせよ男性にせよ、一部の人は20歳を過ぎていい年になっても「こじらせ」とか「面倒くささ」とかを抱えているものだ。特に、漫画や絵を描いたり文章を書いたり動画を作ったり音楽をしたりと、なんらかの形での"表現"に関わっていたり関わりたいと思っている人には、こじらせていたり面倒くさかったりする人が多いはずである。

 まず、表現を志向する人は子どもの頃から面倒くさい人間である場合が多い。そして、年をとるにつれて、自分が理想としてきた世界といま身を置いている状態とのギャップがひらいていき、こじらせが強くなっていく。こじせを解消するためには、どこかで理想と現実との折り合いをつけて軟着陸するしかないのだが、それをするには時間がかかるし、できない人もいるだろう。

 とはいえ、漫画を描いたり文章を書いたりして"表現"が行える人であれば、自分の「面倒くささ」や「こじらせ」も表現の題材にしてしまうことができる。漫画であれば、「こじらせ女子」を主役にしたエッセイ風味の女性向け作品は一定の需要があるジャンルになっているような気もする(わたし自身は男性であり、「こじらせ女子」漫画を自分から積極的に読みにいくことはないので、実際のところはどうなっているかは知らないけれど)。作品とまではいかなくても、たとえばはてな匿名ダイアリーなりなにかのブログなりSNSなりで、自分が抱いている恋愛観や人生に対するこだわりなどの「面倒くささ」を言語化して打ち明けた文章も定期的に話題になる。面倒くささやこじらせとは一定以上の複雑さを含んだ感情や性向であり、だからこそ、表現の題材にしがいがあるというものだ。

 

 ただし、一般論として、自分の抱えているものをそのまま吐き出して漫画や文章にしてしまっても、うまい"表現"にはならない。描くべきところとそうでないところを取捨選択したり、描くべき部分は強調したり誇張したりする代わりにそうでない部分は曖昧にしたり印象を弱めさせたりする、などの"加工"が必要とされる。

「面倒くささ」や「こじらせ」は、「繊細さ」とも密接な関係がある。鈍感である人は、わかりやすく単純な人であることが多く、こじらせることもなかなかない。経験した出来事や見たり聞いたりしたものにすぐ感情を動かされて振り回されてしまったり、いろんなことに影響を受けてくよくよと考えてしまったりするような人こそが、もとから面倒くさい人であり大人になったらこじらせてしまう人であるのだ。

 そして、「繊細さ」とは、本人を傷付けやすくするだけでなく、他罰的な性向をも生み出す性質でもある。「繊細な人は自分だけでなく他人が感じる痛みにも敏感になるから、他人に対しても優しい人になるはず」と言いたくなる人もいるだろうが、それは理想論であり、あったとしても稀な事例に過ぎないだろう。他の人がスルーできるような物事にもダメージを受けてしまい、他人や世間と自分との間にある傷付きやすさのギャップを意識せざるをえないのが、繊細な人というものだ。そして、繊細な人の大半は「鈍感」な他人たちや世間に多かれ少なかれ呆れているし、バカにしているし、そしてバカのくせに自分を傷付けてくる彼らに対する怒りも抱いているのである。

 とはいえ、漫画や文章を読む読者の大半は、呆れられてバカにされて怒られる「鈍感」の側の人たちである。だから、表現をエンターテイメントして成立させるためには、自分の「繊細さ」(と、それに連なる「面倒くささ」や「こじらせ」)に伴う他罰的な性向を薄めるための"加工"を施さなければならない。繊細な作者が鈍感な他人たちに対して抱いている恨みつらみや軽蔑を加工せずにそのまま描いてしまうと、読者の方に刃が向けられるかたちになってしまうからだ。それを避けるためには、読者に対して「わたしは自分の繊細さや面倒くささの悪い面やそれが引き起こす問題についてちゃんと理解していますし、悪いのはわたしであって、あなたを攻撃するつもりはないんですよ」というエクスキューズを入れなければならないのである。たとえば、自分(主人公)の繊細さや面倒くささを自虐的に描いたり戯画化したり、自分の意見や視点を相対化するような他の立場からの見方を挿入することである。あるいは、「鈍感だ」と認定していた人物がハッとするようなことを言ったり、繊細さを抱えていることが実は自分だけではないことに気が付かされたり、バカにしていた相手に助けられてしまったり、などなどの展開を加えることも効果的なエクスキューズであるだろう。これによって、作者や主人公の繊細さに共感が抱けない読者であっても、鈍感な自分が否定されているわけではないという安心感を持って読むことができる。

 

「普通の人でいいのに!」はエッセイ風味ではあるが作者と主人公(田中未日子)が別人であるフィクションのかたちをとっているので、様々な"加工"がおこなわれてはいるはずだ。しかし、上述したような、鈍感な読者へのエクスキューズとなる加工はほぼ行われていない。

 未日子はまさに「面倒くさい女」として、恋人となった倉田弘樹と彼が象徴する"普通"に対する文句や批判や愚痴を言い続けるが、そんな彼女の面倒くささを相対化する視点は作中には存在しないのである。

 ラスト3ページでは「いい子にしてれば どこかで帳尻合わせてくれるって」と自分自身の人生観について反省したり「ダサい イタい みっともない」と自虐を行ったりはしているのだが、それらもかなり自己完結的なものである(そして、自己陶酔はけっきょく最後まで治らない)。自分の生き方を改めようとは思っても、弘樹に象徴されるような"鈍感"な他人たちをバカにして否定してきたことへの反省はないのだ。だから、未日子に共感できず、むしろ弘樹の側に近い位置にいる読者には、この作品をエンターテイメントとして楽しむことは難しい。自分自身が否定されてバカにされたような気分になってしまうからだ。

 

 しかし、私小説的な作品としてみてみると……つまり、エンターテイメントではなく文学や芸術の文脈で見てみると、「普通の人でいいのに!」はなかなか優れた作品であるように思える。

 エンターテイメントでエクスキューズが必要とされるのは、エンターテイメントではなるべく多くの読者を楽しませるために作品の偏りを調整したり棘を抜いたりすることが求められるからである。一方で、文学や芸術では、偏った世界観や他者に対する刺々しい思いを鮮やかに表現することこそが作品の目的とされる。その場合、エクスキューズを加えることは作品の純粋性を損なうものとなってしまうのだ。

 私小説的な作品のコアは、大多数の"鈍感な"読者をはじめから排除する代わりに、作者と同じように"繊細な"読者がより深く共感できることにある。そこでは、たとえば「プライドを傷付けられてヘコんだ未日子にとって、弘樹の優しさや素直さが傷付いた癒しや救いになる」とか「鈍感だと思っていた弘樹が未日子には到底思いつかないような世の真理を突いたようなことを言って、未日子がハッとさせられる」とかいった作り物っぽい展開はお呼びでない。鈍感であるために世の中に疑問を抱かず苦悩することもなくのうのうと生きていられる"普通"の人たちのくだらなさ、そして繊細であるがゆえに世の中の歪さに気付いてしまい他人の配慮のなさや悪意などに傷付いて苦悩してしまう"わたし"のつらさや純粋さなどをデティールまで鮮やかに描くことこそが、求められているのだ。

「普通の人でいいのに!」でも「村上春樹の主人公みたいな彼」というセリフが書かれていたが、初期の春樹作品はまさに「"繊細"な感性を持つ作者が、同じように"繊細"な感性を持つ読者と世界を共有するための作品」として書かれているし、読者もそれを織り込み済みであるだろう*1村上春樹が訳しているスコット・フィッツジェラルドの作品や、モチーフとして取り上げているフランツ・カフカの作品にもそういう要素を見出すことができる。そして、私の知る限り、"繊細な自分"と"俗物で鈍感な他人たち"という対比を最も鮮やかに描いた文学作品はJ・D・サリンジャーの『ライ麦畑で捕まえて』だ。

 

 

 学生時代の頃を思い出しても、『ライ麦畑で捕まえて』を読んで主人公のホールデン・コールフィールドに共感できて楽しめて感動できたという知り合いもいれば、自分のような人間はホールデンに俗物扱いして罵倒されてしまうに違いないので面白く思えなかった、という知り合いもいた。前者のような知り合いはだいたい春樹もカフカフィッツジェラルドも好きであったし、後者はだいたいそうではない。文学性というもの……少なくとも狭い意味での文学性とか私小説性というものは、わかる人間にはすらっとわかるものだし、わからない人間にはずっとわからないものだ。後者の人たちは、そもそも文学の世界にお呼びでない。

 お呼びでない読者は排除して限られた読者たちだけに受け入れられることを前提とした文学的な作品性と、インターネットにおける無料公開というフォーマットとの相性の悪さが、「普通の人でいいのに!」がある種の"炎上"のようなかたちで注目されてしまった理由でもあるだろう。インターネットは作り手が作品や表現を発表するハードルを大幅に下げたとはいえ、ネット文化は「他人の目や多数派の意見なんて気にせずに、作りたいものを作って表現したいものを表現して、受け入れられる人だけに受け入れてもらえばいい」というアマチュアリズムとは必ずしも相性がよくない。インターネットならではの民主主義性が受け手の側の「お客様意識」をも醸成させてしまい、読者の目をうかがわずエクスキューズも行わない作品や表現に対する怒りや拒否反応が誘発されやすい環境になっているためだ*2

 

 わたしが『ライ麦畑で捕まえて』を最初に読んだときは16歳か17歳であったが、16歳の思春期であったホールデンが持っているような繊細さや面倒くささに共感を抱きながらも、「でも自分が大人になって社会に適応するにつれてこういう繊細さも失っていくんだろうな〜」というおぼろげな予感があった。しかし、幸か不幸か、30歳を超えた現在になっても思ったより社会に適応できておらず、繊細さも失っていない。『ライ麦畑で捕まえて』を最後に読んだのは10年近く前ではあるが、いま読んでも、昔とほとんど同じようにホールデンに共感できると思う。

「普通の人でいいのに!」でも、未日子とわたしとでは性別は逆であるとはいえ、「そう これが普通なんだよね」のコマに象徴されるような「普通の異性」や「普通の出会い」に対して抱く幻滅やつまらなさや蔑視の感情にはかなりの共感が抱けた。「みごとに共通点がない」のコマの気持ちもよくわかる。わたしだって、マッチングアプリで出会った女性に「ノア・バームバック監督の映画とか好き」と言ったらだいたい「なんか分かんない感じだ」って言われるし。

 同性・異性を問わない職場の同僚たちや学生時代からの知り合いたちの大半についても「お前らそんなつまらないことばかりでいいの?」と思わされることばっかりであるし、「"普通"がこれって、いくらなんでもつまらなさ過ぎないか?」という苦悩は年々強くなるくらいだ。30歳を超えた社会人が抱えていて許されるような悩みではおよそないので、大概の人には打ち明けることはできないが……でも、それを誰かが代わりに表現して共有してくれることこそが、文学や私小説(的な漫画)の価値というものであるだろう。

 

 とはいえ、未日子の全てに共感できるというわけでもなく、共感できなかったり乖離を感じる箇所も多かった。批判者からも指摘されているが、見下しの感情を抱いている弘樹とさらっと付き合って楽しくなさそうなセックスをしているところはよくわからない。また、ホモソーシャルが嫌いならミソジニーがバリバリな村上春樹のことも嫌いになれよ、とも思う。ゴールデン街に興味を持ち、その興味を共有せずに保守的な反応をする相手に対してがっかりするところまでは共感できるけれど、わたしには金がないので興味を持ったところでゴールデン街には行けず、サード・プレイスだって持ちようもない、という重大な違いがある。

 ところで、深夜ラジオ放送作家の伊藤さんや洋服を作るリサさんと関わっているときの未日子の「キョロ充」感はなかなかリアルな描写で面白かった。同じような"繊細さ"や"こじらせ"を抱えていながらも、男性の場合はプライドがザワつくのを恐れてこじらせればこじらせるほど(自分より成功した)他人に会うことを回避するために内向的になる一方で、女性の場合はどれだけこじらせていても外向的であり続けられる人が多いものである。ステレオタイプ的な発言ではあるが、自分を含めたプライドの高くてコミュ障なこじらせ男子たちと、モヤモヤを抱えながらもキラキラ輝いた人たちの周りにいたがるキョロ充女子たちのことを想起すると、そういう傾向ってあるような気がするのだ。

 

 

*1:初期というよりかは中期の作品になるが、村上春樹の「沈黙」は「繊細なぼく」と「鈍感で俗物な他人」との対比構造の極北的な作品である。そして、自分がこの物語に拒まれている俗物であることを受け入れない人たちによって、こぞって誤読されてきた作品でもある。

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*2:フィクションではないブログや匿名ダイアリーやnoteですら、独特の作法や文体などの"コード"が発達して前提とされてしまい、その記事の内容以前に"コード"に従っているかいないかで賛否が判断される、という傾向がうかがえる。