ひとこと感想:『イット・カムズ・アット・ナイト』、『孤独なふりした世界で』
感染症的なものが流行っているポストアポカリプス的な状況になった世界にて、父親のポール(ジョエル・エドガートン)と母親と息子のトラヴィス(ケルヴィン・ハリソン・Jr )の3人(+犬)で暮らしていた一家の住処に、別の家族の父親であるウィル(クリストファー・アボット )が食糧を求めて侵入した。ウィルの一家も3人家族であり、感染症から自分の妻と息子を守るために他人を警戒していたポールはウィルを始末するかどうか迷ったが、すったもんだあった末にウィルの一家も受け入れて、6人でルールを守りながら共同生活を送る。しかし、「感染者が入ってくるかもしれないから、家の入り口にある赤いドアは開けちゃダメ」というルールがあったのに誰かが開けたままにしちゃった事件が起きて、それをきっかけにポール一家とウィル一家は相互不信でヤバいことになり、ついにポールはウィル一家を殺そうとしてしまい……。
タイトルにある「イット(それ)」は最初の感じでは感染症とか感染者とかを指しているように思えるが、観ているとそういうことではなくて心理的な不安とか疑念であることがわかる。というか、公開当時(2017)の映画の宣伝とかあらすじとかを片耳に挟んだだけで「"それ"って心理的ななんちゃらを指すんだろうな〜」となんとなく見当が付いたし、その数年前になんとなく付いた見当を超えるものを全く示さないタイプの映画だった。まさに予想通りで予定調和って感じの展開しかないのだ。どうやらトラヴィスが夢遊病だったというオチであるようだが、それもしょーもない。
他の人の感想を見てみるとご丁寧に長々と字数をかけて映画の伏線だとか深遠なテーマだとかを考察してあげて「"それ"って普通なら感染者とか感染症を想像するところこの映画だと不安とか疑念のことを表しているんだよ、すごいね!」と驚いてあげている感想が多いのだが、お優しいことだと思う。いまのコロナの状況と重ね合わせて「感染症に対して私たちが抱く不安や猜疑心などを見事にあらわした作品だ」と褒める批評もあらわれそうな悪寒がするが、全くもって大した作品ではない。『コンテイジョン』のほうがこの作品の7倍くらい面白い。
●『孤独なふりした世界で』
人類が死に絶えたかのように思えるポストアポカリプス的な世界にて、ひとり生き延びたデル(ピーター・ディンクレイジ)は図書館の跡地に暮らしながら、町の住民たちをひとりずつ埋葬して彼らの家を掃除する、という習慣を保っていた。そんな中、もう一人生き延びていた少女であるグレース(エル・ファニング)が自動車で町にやってきた。自分以外にも生き残りがいたことに戸惑い、またこれまでの静謐で安定した生活が破られることを嫌がって最初はグレースを邪険にしていたデルであったが、ちょっとした衝突がありつつも二人は打ち解けていく。しかし、ある日、グレースは他にも多くの生き残りがいるコミュニティからやってきたことが露呈する。デルはグレースが出自を隠していたことに怒るが、グレースの所属しているコミュニティも色々とおかしくて…。
世界設定は独特であるし、デルがひとりで図書館に暮らしたり埋葬を行うシーンやそこにグレースが加わるようになるシーンは、なかなか雰囲気が優れている。風景描写の色彩感覚も良くて、グレースとデルが食事をするシーンはなかなか詩情に溢れていていいものだ。
しかし、グレースの他にも生き残りがいることが発覚してからは、なんだか洋ゲーの「狂人のコミュニティからヒロインを助けろ!」とかいったミッションにありそうな、テンプレ的で安直な展開になる。虚飾と欺瞞に満ちたコミュニティを脱出してグレースとデルは二人の世界に戻る、といった感じのオチも、そのコミュニティのおかしさを描くための尺が短すぎてかなり浅薄な描写になっていて興ざめだった。これなら、大した出来事が起こらないままでいいから、グレースとデルとの二人の淡々とした生活をずっと描いているだけでよかったと思う(思えば、『パッセンジャー』は「他の人類から取り残された二人」を中心にしつつ第三者を登場させるタイミングが絶妙であった)。
とはいえ、カオスを片付けて秩序を取り戻すために人類死滅後にも淡々とやるべきことをやるデルの生き方とか、他者と距離をとった静謐な生活から平穏が乱されることを受け入れても他者との関わりを求めるようになることとか、全体的に村上春樹的な感じの漂う前半のストーリーはいいものだ(だからこそ、後半の安直な展開が悔やまれるわけだが…)。偏屈で内向的な中年男性と外交的で繊細な少女、という組み合わせもなんだか村上春樹っぽい。