THE★映画日記

映画(たまに漫画や文学)の感想と批評、映画を取り巻く風潮についての雑感など。

『ドライブ・マイ・カー』(+『マディソン郡の橋』)

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 中盤までは展開がそれなりに予測できず、それなりにオリジナリティのある絵面が多く、新鮮味があって楽しい。手話を含む多言語が飛び交う「台本」読みのシーンや、韓国人夫婦の家にお呼ばれして食事をするシーンなどは他の映画ではほとんど見ることのないような場面だ。しかし、後半に岡田将生が車内で主人公の妻の秘密を暴露するシーンからは、登場人物が自分の過去や本音を打ち明けあう告白合戦が始まり、いきなり物語はリアリティを失って「お話」という感じが強くなり、唐突にフェリーに乗って北海道に行くロードムービーが始まるところは絵面としては面白いのだが、そこで主人公やドライバーの女の子が放ち合うセリフはいちいち現実味がなくて上滑りしている*1。犬は可愛いんだけれど。

 なんといっても、主人公の妻がキャラクターとして不愉快に過ぎる。おばさんがセックスのたびに騎乗位になりながら恍惚とした口調で物語を語り出すというのは、村上春樹の文体で短編小説として書かれるぶんにはいいが、実写映画にされると絵面としてあまりに間抜けだ。で、イカれたおばさんが岡田将生のようなイケメンたちと不倫するというのも気に食わないし、そのイカれおばさんの不倫を「理解すべき」「許すべき」という感じに物語的に誘導されているのはさらに気に食わない。いつも思うのだが、世のクリエイターは女の不倫に甘過ぎる。

 後半に登場人物たちが吐き出す大袈裟なセリフや、最後のとってつけたようなコロナ禍描写など、安っぽさを感じるシーンも垣間見えて、悪い意味での「邦画」っぽさもある。いわゆる「女殴ってそう」的な雰囲気のサイコパスを演じる岡田将生のキャラや、彼が人を殺して捕まっちゃう展開とかも、なんかいかにも邦画っぽい。

 

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 監督がインタビューで「男性の弱さ」について「社会的な構造」などのタームを用いながら語っているところも黄信号だ。一昔前ならともかく、現代ではクリエイターはヘタにジェンダー論に触れない方がよい物語を作れると思う。兎にも角にも物語の目的のひとつは人間のリアルな姿を描くことにあり、他の目的だって作り手が人間のリアルを理解していないと達成することが難しくなるだろう。そして、昨今のジェンダー論は、人間のリアルを照らし出したり浮き彫りにしたりするのではなく、それを覆い隠すほうに機能していることは明確だ。もしかしたら、まず批評家たちのほうがジェンダー論に傾倒して、そこから高評価を得るために作り手の側が意識的にも無意識的にもそういうフレームワークに迎合していく、という構図はあるかもしれない(だからカンヌもとれたのだろう)。でもそんなことしていたら世に出る作品はどんどん画一的になってくだらなくなっていくのでダメです。

 

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 村上春樹ミソジニーとして批判されがちであり、昨今のご時世で彼の作品を映画化するとなると、そのミソジニー性を脱色したり批判的に裏返しにしたりすることが求められるようだ。イ・チャンドクの『バーニング 劇場版』はそれを行なったから高評価を得たが、わたしはあの作品は監督の自己満足でしかないゴミ映画であると評価している。

 そもそも、村上作品のミソジニー性は欠点ではなく、作品の価値を成り立たせるプラス点だ。結局のところ、(1)世の男性は多かれ少なかれミソジニー的な認識を抱えて生きているのであり、(2)男性が女性に対して抱くミソジニー的なステロタイプはある面での「事実」を多かれ少なかれ反映している。(2)がある限りはいくらジェンダー論が力を得たところで(1)がなくなることはないだろうし、そして優れたフィクションであれば(1)と(2)の両方の「リアルさ」を描くことができるものだ。村上作品はその点でのリアルをきちんと描けているのであり、だからこそこれほどにも多くの男女からの支持をいまだに得られているのだろう*2

 

 

 

 

 ところで、男女のリアルといえば、ちょっと前にNetflixの配信で観た『マディソン郡の橋』はキャラクター造形のそつのなさとリアルさがすごくて驚いたものだ。クリント・イーストウッド演じる都会からきた女たらし男は、まさに「ドーパミン駆動型」の人間だったのである。その不倫相手のメリル・ストリープのキャラ造形も実に良かった。イーストウッドは現実の男女のなかで生きてきて、現実の男女を観察し続けたから、「脳科学的」にも正しい人物を造形できたのだろう。

 

davitrice.hatenadiary.jp

 

 とはいえ、「差別がどうこう社会構造がどうこうの問題意識やイデオロギーに基づいた映画のほうが立派だ」という風潮は、アカデミシャンや批評家が先導して、それにクリエイターが迎合して、最後になんも考えていない消費者たちが受け売りすることで、今後も強まっていくだろう。実際のところ、コンテンツの過剰供給やSNS中毒やコロナ禍やなんやかやに伴う社会の孤立化とかオタク化とかが蔓延するにつれて、多くの人は人間のリアルな姿がどういうものなのかわからなくなっていき、イデオロギーとか先行する物語に基づいてしか物語の良し悪しを判断できなくなってしまう傾向が、ますます激しくなっている。そういう傾向に左右されない人間もいまだにいるのだが、そういう傾向に左右される人間のほうがSNSへの投稿数が多いので影響力が強いのだ。

 でも、(広義の意味での)オタクのためにオタクが物語を作ってそれをオタクが消費する、という状況はいかにも薄ら寒い。最近は小説や映画だけでなく漫画でもそういうのが目立っており『チェンソーマン』はその筆頭だが、わたしは『チェンソーマン』もゴミだと判断している。地に足のついた一人の物語ファンとして、この傾向がいつか逆転してほしいとは思うのだけれど、まああと20年はかかるのだろう。

 

*1:もしかしたら主人公たちが演劇関係者であることにかこつけて、現実世界の描写の場面もわざと演劇っぽくしていたり途中からリアルと演劇の境目がなくなる的な演出にしていたりするのかもしれないけれど、そうだとしてもその演出はなんかムカつくので評価しない。

*2:そして、監督の前作の『寝ても覚めても』に関しては、ある種の女性のステロタイプを描けているという点で、わたしは評価している。

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