THE★映画日記

映画(たまに漫画や文学)の感想と批評、映画を取り巻く風潮についての雑感など。

『パラサイト 半地下の家族』:「格差社会」を描くことには失敗していないか?

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『ジョーカー』と並んで、最近の「格差社会映画」ブームの代表的な作品だ。

 この映画は「寓話」的な作品であると言われることが多い。寓話であるということは、作品のテーマを鮮烈に描くために細部のリアリティはあえて捨象しているということだ。

 実際、この作品に対してリアリティの観点から文句を付けるのは野暮な行為であるように思える。たとえば、話の根幹となる、主人公の半地下一家が金持ち一家の使用人たちを追い出して取って代わって"寄生"していく過程にはリアリティは全くないが、ここに関してはリアリティを求めることは映画の邪魔になるし「そういうものだ」と受け入れるしかない。

 …しかし、この映画では、根幹には関わらない他のシーンでもディティールに違和感を抱かされて物語への没頭を妨げられることが多過ぎる。

 私が特に気になったのが、物語の「転」となる事象が発生する直前、主人公一家が金持ち一家の酒や食料を拝借して宴会をするシーンだ。「使用人が主人の酒や食料を盗み飲みしたり盗み食いする」ということはよくあることである。しかし、このシーンでは、盗み飲みしている酒や盗み食いしている食料の量があまりにも多過ぎる。見ていて気が気でなかった。四人いる主人公家族の誰か一人くらいも「これだけの量を飲んだり食べたりしたら、いくらなんでも主人にバレるに決まっている」と思うはずだ。…しかし、異常な量の酒や食料が消費されているにも関わらず、後の場面でもこの宴会のことが屋敷の主人たちにバレることはないのである。

 友人にこの違和感を話すと「屋敷の主人たちは相当な金持ち家族だから、酒や食料を大量に保管しており、あれくらいの量が減るくらいではバレないのだろう。たぶん、酒や食料の量を管理するという発想自体がないのだろう」と言われた。しかし、少なくとも私がこれまで関わってきた現実の"金持ち"のことを思い返すと、彼らは自分の資産の管理については庶民以上にきっかりしている。というか、資産管理を徹底しているからこそ金持ちになれるのだ。生まれながらの貴族だったり富豪だったりすれば話は別かもしれないが、たしかこの映画の金持ち一家の稼ぎ手である夫はベンチャー企業の社長であり、ベンチャー企業の社長なんてとりわけ金にうるさい人間である。そもそも格差社会の大きな原因は社長たちが庶民に金を出し渋っていること、つまり社長や金持ちがケチであることだ。…この映画では金持ち一家は「生来の富豪」であるか「立身出世した成金」であるかのどちらかも曖昧である(妻の方は富豪家庭出身、夫の方は立身出世タイプな印象を受けるが)。そして、格差社会をテーマにしているのなら、寓話であるにしても、金持ちの金持ち性の描写を曖昧にするのは悪手であるはずだ。

 貧乏人である主人公たち一家にしても、貧乏人にしては息子や娘に教養があり過ぎたりするように思える。また、父の「無計画が最高の計画だ」のセリフに代表されるように主人公たち一家が愚かな存在として描かれたり愚かな行動をする一方で、この映画のストーリー自体(特に序盤部分)は主人公たち一家に「有能さ」がないと成立しない。

 私は韓国の事情には詳しくないのでこれは的外れな批判になるかもしれないが、現代の世界各国におけるネオリベラリズム的な格差社会の問題は、規制緩和で資本主義がスムーズに動くことにより「有能」な人間はなんだかんだでそれなりに良い仕事に就けて一定以上の生活が担保される一方で、社会保障が失われることにより「無能」な人間は医療や教育へのアクセスが閉ざされてしまったり人権侵害レベルで惨めな生活を過ごしたりする、ということだ。だから、現代の格差社会を描くなら登場人物は「無能」でなければならないはずである。「有能な人物が能力を発揮して(途中までは)成功する」という構造自体が、ネオリベラリズムを批判する力を弱めてしまうものなのだ。この点に関しては、主人公が完全に無能な人物である『ジョーカー』の方がずっと考えて作られていたように思える。

 とはいえ、この映画がテーマとして描いているのは最近のネオリベ的な格差社会ではなくて、より古典的なタイプの「努力で補うことのできない富裕層と貧困層との断絶」であるかもしれない。有名な「匂い」に関する描写などは、この古典的なテーマを連想させる。だが、そうなると、金持ち一家の夫がキリキリ働く社長であるという設定はむしろ邪魔になってくるはずだ。

 こうやって考えていくと、「寓話」っぽい物語にすることで細部を曖昧にする手法には「ずるさ」みたいなものを感じてしまう。

 

 また、私がかなり気になったのは、とある場面で他の登場人物から姿を隠すために階段で待機していた主人公の家族3人がずっこけること、その間抜けな絵面、そして「ずっこけること」が物語の展開に大きく関わることだ。ハリウッド映画には見られない韓国映画の特徴のひとつが、登場人物が現実でもちょっと考えられないくらい間抜けな行動を脈絡なく行うことである。シリアスとコメディの境界が曖昧であることも韓国映画の特徴であるかもしれない。もちろんそれは一概に悪いことではないし、たとえば『哭声/コクソン』はホラー映画でありながらコメディシーンが急に挟まることで独特の面白さを出すことに成功していた。…だが、その面白さは、所詮は「イロモノ」としての面白さである。ハリウッド映画で登場人物が「ずっこけること」がそうそうないのは、製作陣がイロモノではなくちゃんとした映画としての面白さを真面目に追求しており、最低限のリアリティやシリアスさを捨てることをよしとしないからであろう。

 もちろんハリウッド映画的な面白さが全てではないし、映画の面白さは多様なものが存在した方がよいに決まっているのだ、この作品がハリウッド映画を差し置いてアカデミー作品賞を獲得することは勘弁してほしい。『パラサイト 半地下の家族』からは「寓話」や「イロモノ」であることへの開き直りを感じざるを得ないし、この作品が受賞してしまうとディティールや完成度にこだわった作品を制作した他の監督たちが可哀想だ。