THE★映画日記

映画(たまに漫画や文学)の感想と批評、映画を取り巻く風潮についての雑感など。

『インサイド・ルーウィン・デイヴィス 名もなき男の歌』

 

 

 ルーウィン・デイヴィスという、実在のモデルはいるが架空のフォークシンガーをオスカー・アイザックが演じている。時代は1960年代で、主にニューヨークを舞台としている。

 このフォークシンガーは芸術家気質ではあるが完全に浮世離れしているわけでもなく、日銭を稼ぐ必要性も意識しているし、ふと現実やこれからやってくるであろう将来を見据えて、音楽をやめることも考えたりする。しかし本気で腹を据えるつもりはあまりないらしく、結局だらだらと音楽を続ける。また、ときには抑えがきかなくなって他のミュージシャンや自分を支援してくれる人に対して怒って暴言を吐いてしまう。他の男の女を孕ませたりもするし、預かっている猫を脱走させてしまうなど、責任感もあまりない。まあはっきり言ってあまり好感の持てる人物ではないが、演じている役者のおかげもあって子供っぽいところや打たれ弱いところも度々かいま見えて、憎めないタイプの主人公ではある。

 ところでわたしは若い頃はこういうタイプの主人公(無責任で破滅型の"芸術家"気質)に対してもう少し好感が抱けたが、最近では物語の主人公としてあまりにも典型的に感じられて好感が抱けなくなってきた。音楽家志望とか役者志望とか芸術家志望とかの若者は映画などの物語を通じて「芸術家とはこういうふうに破滅的で無責任じゃないと芸術家っぽくなくて格好悪いんだ」と思わせてしまうという悪影響があるだろう。単に自分が破滅するだけならいいのだが、この映画の主人公は暴言を吐いたり孕ませたりと他人に対しても迷惑をかけているのがよくない。

 

 主人公が支援者から預かっているためにたびたび猫が登場して、これはもちろん可愛いのだが、屋外での脱走が繰り返されるので観ていて不安になる。毛並みの色合いが『ハリーとトント』や『ボブという名の猫』に出てくる猫たちと同じで、特に後者は主人公が音楽家という点も同じだ(あちらは舞台はイギリスだし時代は現代だが)。黄色い猫は欧米では一般的だし、人懐っこい気質があるのかもしれない。しかし、『ハリーとトント』や『ボブという名の猫』でもやはり猫たちが主人公の元から逃げていってしばらく行方不明になるシーンがあって、嫌なタイプの緊張感があった。猫は屋内に閉じ込めておくべきものである。

 

 時代設定が古く、そしてコーエン兄弟の映画ということもあり、顔付きも表情も奇妙で印象に残る脇役が多数登場する。主人公が孕ませた女性や主人公の支援者である大学教授とその妻や知人たち、主人公とは関係のないところで歌っている他のミュージシャンたちが特に印象的だ。他の映画ではなかなか見かけないような顔立ちや格好をしているのだが、実際にいそうなリアリティのある。また、ちょっとだけ登場するアダム・ドライバーが例によって異様に存在感を放っていた。