THE★映画日記

映画(たまに漫画や文学)の感想と批評、映画を取り巻く風潮についての雑感など。

『マリッジ・ストーリー』:スカーレット・ヨハンソンがすごかった

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 スカーレット・ヨハンソンといえば唇と胸と身体だけの女優というイメージが強かったが、『マリッジ・ストーリー』では演技がすごかったので見直した(これは私だけの偏見に基づいた感想ではなく、少なくとも2名以上の知人が「スカーレット・ヨハンソンといえば胸がすごい唇オバケの女優というイメージが強かったのに、『マリッジ・ストーリー』では演技がすごくて…」という私と同じ感想を抱いていたことを確認している)。

 たしか『マッチポイント』とかに出ていた頃のスカーレット・ヨハンソンは「マリリン・モンローの再来」と呼ばれていたし、基本的にはセクシー路線で押し出している女優である。演技の方は、いつも同じような不敵な笑みを浮かべているか深刻そうな顔をしているかのどっちかというイメージが強くて、「スカヨハは演技が上手い」という印象を抱いていた人はあまりいなかったように思われる。しかしマリッジ・ストーリーの演技はすごかったし、それを観て感銘を受けてその日の夕方に劇場まで『ジョジョ・ラビット』を観に行ってみるとこちらも演技がすごかった。それで思い返してみると『アベンジャーズ:エンドゲーム』や『キャプテン・アメリカ:ウィンター・ソルジャー』などにおいてもスカヨハはなかなか良い演技をしていたような気がしてくる。

 思うに、本人がセクシーだからってセクシーな独身女性の役ばっかり任されてきたからダメだったのである。『マリッジ・ストーリー』でも『ジョジョ・ラビット』でもスカーレット・ヨハンソンは「母親役」を演じていて、これがかなり板についているのだ。これまではセックスアピールとして使われてきた唇や胸も、母親役を演じていると安心感のある「おかん」という感じを出すのに一役買うことになる。これは発見だ。特に『ジョジョ・ラビット』におけるスカーレット・ヨハンソンのゴージャスさはすごくて際立っていた。また、『アベンジャーズ』シリーズでも、後半ではスカーレット・ヨハンソンはハルクだかキャプテン・アメリカだかホークアイだかの悩みを聞いて「よしよし」とケアしてあげる母親みたいなポジションになっていたような気がする。考えてみるとちょっと気持ち悪いポジションでもあったのだが、あの辺りからセクシー役ではないケア役としての役柄の才能を開花させていったのかもしれない。

 ただし、目立たないようにしていても唇や胸や美人顔などを隠せるわけではなく、その点はむしろ『マリッジ・ストーリー』のお話をやや不自然にする作用もあったように思える。要するに「こんな美人で胸がすごい奥さんがいるのにあんな女と浮気するか?」という疑問が湧いてくるのだ(夫役であるアダム・ドライバーは劇団の団長?で、団員の一人と浮気をするのだが、この浮気相手の女性団員が見事にパッとしない風体をしているのだ)。

 ところで『マリッジ・ストーリー』と『ジョジョ・ラビット』を観てスカーレット・ヨハンソンのすごさを再認識したので、昔の映画でも実は演技がすごかったのかもしれないと思って『LUCY/ルーシー』を観てみたらこれがとにかくゴミ映画で、そのあとに『ゴースト・イン・ザ・シェル』を観たらこれもゴミだったのでスカーレット・ヨハンソンの演技を見るどころではなかった*1。どちらの映画でもスカーレット・ヨハンソンはずっと神妙な顔をしていた。

 

『マリッジ・ストーリー』はストーリーももちろん良い。基本的には会話劇とちょっとした法廷争いがメインのヒューマンドラマなのだが、ストーリーの最初と最後に「仕掛け」がしてあって、これは人によっては「クサい」「あざとい」と思わされるような仕掛けかもしれないが、私はかなり感動した。

 時系列をシャッフルさせているわけでもないのに、裁判の場における離婚争いとプライベートな場における夫婦の会話を同時に描くことで、「いまでもまだ愛情や親密さが残っていること」と「二人は闘争の状態にあり、これまでのような無条件にお互いを許しあえる関係はもう望めないこと」とを同時に表現しているのが見事だ。プライベートな場面における親密な会話やお互いに気を抜いているから言えることが裁判の場では互いを攻撃する道具として使われてしまう、というイヤな状況の表現も良かった。

 スカーレット・ヨハンソンのことばっかり書いてしまったが、くぐもった声で喋るアダム・ドライバーもかなり良かった。繊細で優しいが神経質な芸術家肌で根は自己中心的、といういかにもな人物をきちんと表現できていた。また、妻はカリフォルニアで両親や姉妹に囲まれて生まれ育った一方で夫は早々に家族の元を去ってニューヨークで一人で生きてきた、という経歴が私の実の両親とかなり近いのでそこに親近感を抱いた(妻側のギャーギャーうるさい家族も「いるいる」という感じである)。

 

「結婚」と「離婚」というテーマを見事に描写している感のある映画だが(私は結婚も離婚もしたことがないのでこの映画の描写がどれだけ的を得ているかはちょっと判断がつかない面もあるが)、離婚調停のために弁護士に相談したり裁判争いしたりする面はアメリカの悪い面もよく出ていたような気がする。弁護士たちは「こちらが権利を主張しないとあちらが権利を主張して全部かっさらっていくから」という理屈で夫や妻に権利を主張するように促すのだが、それが泥沼の争いとなって夫婦をどんどん傷付けていくわけだ。曖昧にしたりうやむやにしたりするよりかはお互いが権利を主張し切った方がスッキリして公平で納得のいく結果になる、という考えが底にあるかもしれないが、机上の空論という感じがあるし他の成熟した国々ではもう少し「なあなあ」な運用をするものだろうと思う。こんなんだから訴訟社会としてアメリカは馬鹿にされるのだ。あと夫側の(二番目の)弁護士が悪人っぽく描かれる一方で妻側の弁護士がシスターフッドの文脈で善人っぽく描かれているのには妙にイラついた。

 

 夫婦の間には子供がおり、子供の親権ももちろん重要なテーマなので子供も重要な登場人物ではあるが、この子供は見た目は可愛いのだが手間はかかるし行動は親に迷惑をかけてばかりで全然可愛くない。親に対して愛情を示すシーンもなかったような気がする(実際の生活において子供が親に愛情を示す場面なんてほとんど存在しないのでリアルといえばリアルではあるが)。一昔前なら父親も母親も子供に怒ったり怒鳴ったりするシーンがもう少し挟まれていそうなものだが、そのようなシーンは全然なくて、「忍耐強いなあ」と思った。しかし、ただでさえ離婚調停と仕事とで疲弊しているうえに一人で子供の世話をしなければならないことを想像すると、ものすごく大変なはずなので、自分はこういう立場には立ちたくないなあと思った。

 また、映画の後半、アダム・ドライバーに親権の資格があるかどうかをチェックするため?に来訪する児童保護局?のおばさんがアダム・ドライバーと息子の元をたずねて、黙りこくって父子の様子を観察するシーンが無性に面白かった。このおばさんがアメリカ人離れして落ち着いていて物静かそうな人物なのでよい。

 

*1:『ゴースト・イン・ザ・シェル』では義体?か何かの設定でスカーレット・ヨハンソンのボディラインすら別物になってしまう場面が多く、根本的にスカーレット・ヨハンソンを採用する意味がなかった。ホワイトウォッシュだし。