THE★映画日記

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『ボギー!俺も男だ』:1970年代の作品だが、「有害な男らしさ」がテーマ?

 

ボギー!俺も男だ (字幕版)

ボギー!俺も男だ (字幕版)

  • 発売日: 2013/11/26
  • メディア: Prime Video
 

 

 1972年の作品。ウディ・アレンが主演でダイアン・キートンがヒロイン、という『アニー・ホール』的な組み合わせ。監督はハーバート・ロスという人だが、wikiを見たところウディ・アレン自身が脚本を手がけているらしい。また、元々は映画ではなく舞台劇であったようだ。観ているときには気付かなかったが、言われてみるとたしかに舞台劇っぽさがあった。 

 この映画のあらすじは…奔放なタイプの妻に離婚された内向的でひ弱で理屈っぽくてネガティブでみみっちい性格をした映画評論家の主人公のもとに、彼が大ファンであるハンフリー・ボガードの幻影があらわれるようになる。ボガードは「女なんてピシャッと叩けば言うことを聞くさ」などとマッチョな価値観を主人公に吹き込み、主人公もそれに影響されてしまってマッチョに振る舞おうとする。しかし、バーボンを飲んだら吹き出してしまうほど酒に弱い主人公のことだから、新しい女性をゲットするためにマッチョに振る舞おうとしてもすべてが空回りしてしまう。そのうちに、妻と別れた主人公のことを心配して新しい女性を見つける手伝いをしてくれているヒロイン(主人公の親友の妻だ)といい感じになって浮気してしまい……という感じである。

 ストーリーとしては大して出来の良いものではない。キャラクター描写も、主人公以外の人物はみんな書き割り的だ。ヒロインも主人公にとって都合の良いだけの存在だしヒロイン以外の女性の描き方はさらにひどいし、このあたりには昔の映画の悪いところがでている。

 

 しかし、ボガードの幻影に影響されてマッチョな振る舞おうとしてしまう主人公の姿は、いま流行りの「有害な男らしさ」をまさに体現していると言える。女性に無理やり手を出す自分の姿を妄想してしまう主人公の姿には、ちょっと怖いものも感じる。昔の映画なので描き方はカジュアルものになってしまっているが、「有害な男らしさ」が性加害につながることを指摘している点で図らずとも現代的になっていると言えよう。

 また、ヒロインが主人公のマッチョさを否定して「あなたらしいところがいいのよ」みたいなことを言って主人公の自分らしさの方に魅力を感じてくれる、というのも「有害な男らしさ」を否定するストーリーとしてありがちなものであろう(ヒロインが主人公にとって都合の良い女性として描かれてしまっていることに変わりはないし、主人公は最後までボガードの真似をし続けてマッチョ的価値観を捨て切れていないフシもあるが)。そもそも「有害な男らしさ」という概念を私はあまり評価していないが、それはそれとして、この観点から昔の映画を再評価することは可能であるかもしれない。

 

 考えてみたら、『トゥルー・ロマンス』でエルヴィス・プレスリーの幻影が主人公に語りかけて無謀な決断を促すシーンには「男らしさ」の要素があるし、『ジョジョ・ラビット』で主人公のイマジナリー・フレンドとして登場するヒトラーはナチズムをはじめとした「有害」な価値観をまさに体現した存在である。当然のことながら、『ジョジョ・ラビット』ではヒトラーが体現する価値観から主人公がいかにして脱出していくか、ということがキモとなっていた。何かの価値観を体現した、主人公しか見えない「幻影」キャラクターであっても、その描かれ方や扱いは様々といえよう。