『キャプテン・マーベル』:「フェミニズム映画」と「ヒーロー映画」は両立するのか?
『キャプテン・マーベル』は、一つのアクション映画やエンタメ映画として見てみると、世間的にもさほど評価されていないようである。アクションやエンタメとして明確な欠点があるわけでもないのだが、目立ったオリジナリティがあるわけでもないし、特に盛り上がったり画的に印象に残るシーンがあるわけでもない。話の筋もまあ普通のヒーロー映画のオリジンものという感じだ。というか、特にマーベル映画では、オリジンものはさほど面白くない作品の方がむしろ多数派である*1。比較してみると『キャプテン・アメリカ』や『マイティ・ソー』や『ドクター・ストレンジ』などよりかは『キャプテン・マーベル』の方がまだ多少は面白かった。『ブラックパンサー』と同じくらいの面白さだろうか*2。90年代という年代設定のために「アベンジャーズ」シリーズのなかでは時系列が前の方に戻っており、キャラクターたちの若い頃の姿や過去のウラ話みたいなものが楽しめるという面白さは存在するが、これは映画自体の出来の良し悪しとはまた別の話だ。
『キャプテン・マーベル』に他の数多のヒーローものとの明確な違いをもたらす要素であり、また『キャプテン・マーベル』が一部の層に高く評価される代わりに別の層からは低く評価される原因となっている要素が、「女性に対するエンパワメント」を中心としたフェミニズム的要素である。
同じく女性がヒーローの映画であっても、DCの『ワンダーウーマン』にはフェミニズム要素がほぼ存在せず、その要素を求めていた一部の観客を失望させてしまったようだ。ワンダーウーマンというヒーローには、街中で赤ん坊を見て喜んだりジャスティスリーグのなかでは感情的な男性たちをなだめすかしたりケアしたりと、「母性」的なイメージがつきまとう。また、『ワンダーウーマン』では前半こそは女性だらけのアマゾネスな世界が舞台となるが、中盤以降では主人公は男性だらけの軍事部隊に参加して、彼らのミッションに協力することになる。そしてワンダーウーマンは軍人である男性と恋に落ちるし、物語の終盤には男性への愛がなんやかんやで発展して人類愛に昇華されて、人類のためにがんばってくれるのだ。
一昔前であれば「女性主人公が男性を差し置いて活躍する」だけでも「フェミニズム的な作品」とお墨付きをもらえたかもしれないが、現代では「フェミニズム的な作品」と認められるための基準は厳しくなっている。そして、『ワンダーウーマン』は様々な点で現代のフェミニズム的基準に落第しているのだ。まず、ワンダーウーマンは本人の信念としては戦争を否定しているのだが、「軍隊」といういかにも男性的っぽくて家父長制っぽいイメージのある存在に協力してしまっている*3。母性やケア役割のイメージが強い、ワンダーウーマン本人のキャラクター性もジェンダー的なステレオタイプや性別役割分業を肯定している感じがしてよろしくない。そして、男性との恋愛…つまり「異性愛」が強調された物語であることも、フェミニズムやジェンダー的にはマイナスである。なによりも、物語においてワンダーウーマンは終始「他人のため」に行動している。だが、有史以来、女性は父や夫や息子などの男性という「他人」のために奉仕することを強制されてきたのであり、女性は他人ではなく自分のためにこそ行動するべきであるのだ…。
『キャプテン・マーベル』は、様々な点で『ワンダーウーマン』とは対極的な先品になっている。物語の序盤においてはキャプテン・マーベルは帝国主義的な侵略外交を行なっている異星人国家の軍隊の一員として行動しているが、それはキャプテン・マーベルが騙されていて利用されていたからであり、物語の後半ではキャプテン・マーベルは帝国主義に対して明確に立ち向かって帝国主義を否定する*4。キャプテン・マーベルの仲間たちには男性もいるが彼女が彼らと恋に落ちることはないし、女性軍人たちとの「シスターフッド」的なものもさらっと描かれている。そして、『キャプテン・マーベル』の最大の特徴は、キャプテン・マーベルが異性愛や人類愛などではなく「自分のため」に行動していることが強調されている点だ。他人のために愛想を良くして笑ってあげるということもしないキャプテン・マーベルはジェンダー的なステレオタイプを明白に否定していると言えるだろう*5。そして、『キャプテン・マーベル』のなかでもフェミニズム的な理由から特に喝采されたシーンが、敵役であるジュード・ロウを倒した後に「I have nothing to prove. お前に認めてもらう必要なんてない」というセリフを言い放つ場面だ。女性は他人(男性)に対して自分の能力や自分の存在意義を証明しなくても自分が自分であるだけで肯定されるべき、といった感じの、いかにも最近のフェミニズムっぽいメッセージがこのセリフには込められているのである。
これがヒーローが主人公ではない通常の映画、たとえば女性主人公が社会人としてどこかの企業だか業界だかでがんばったりする映画とか、軍隊とか政治とかの男社会において偏見や抑圧にめげずに立ち向かったりする映画であれば、キャプテン・マーベル的な主人公はありふれているし、その方がその作品のコンセプトやメッセージとも合致するだろう。逆に、ワンダー・ウーマン的な女性を主人公に据えることは、よっぽどの理由や戦略がない限りは悪手である。女性主人公は他人のためではなく自分のためにがんばる方が現代の映画の潮流に合致しているし、ジェンダー的なステレオタイプに沿ってしまっている女性を主人公にすることには作劇的なリスクが生じるのだ。
しかし、ことが「ヒーロー映画」となると、話は別だ。端的に言ってしまうと、キャプテン・マーベルにはスーパーヒーローとしての魅力が存在しない。なぜなら、スーパーヒーローというものは「他人のため」にがんばるべき存在だからである。…実際には劇中のストーリーとしてはキャプテン・マーベルも侵略される側である弱小異星人などの「他人のため」に戦っている面もあるのだが、作劇や演出としてはその点はあまり強調されない。そして、女性へのエンパワメント的なメッセージを全面に出すという都合からか、彼女が「自分のため」に戦っていることが強調されているのである。
自分のことばっかり考えていた有能ではあるが傲慢な人物が何かの事件をきっかけに責任感や使命感や他者への愛などに目覚めて、自分の能力を他人のために使うようになる…というのはヒーローのオリジンものとしては典型的な作劇であるが、この作劇が多用されているのは、主人公であるヒーローに対して観客に好感を抱かせるのに効果的であるからだ。また、一見するとより強大な能力を持っている悪人に対してヒーローが打ち勝つ展開の理由付けとして、「悪人は自分のために力を振るっていたのに対してヒーローは他人のために本来自分が持っているもの以上の力を発揮できた」という風になることはよくある。これはこれで陳腐な展開になってしまうリスクは存在するが、一方で説得力やカタルシスをもたらしてくれる場合も多い。…とにかく、ヒーローものの「王道」とは他人のために戦うことであるのだ。
現代のフェミニズムが女性をエンパワメントするメッセージを放とうとすると、女性に対して「自分のため」やせいぜいが「女性同士の連帯のため」に呼びかけることができない。そして、このメッセージは、主人公が不特定多数のために行動することが求められるヒーロー映画とは水と油なのである。
「他人のためにばかり戦っていたヒーローが疲れや虚しさを感じて、自分の人生について考えなおす」というストーリーにもそれはそれで面白さがあるが、このストーリーは2作目とか3作目とかでやることであり、オリジンである1作目でやることではない。『デッドプール』のように正義感や責任感のかけらもないワガママで独善的なヒーローも存在するが、彼のようなヒーローは「邪道」な存在であることが作中で明白にされており、作り手も自分が邪道な作品を作っていることについて意識的である*6。しかし『キャプテン・マーベル』は邪道ではなく王道を狙っている作品であり、キャプテン・マーベルの性格や行動も基本的には「是」として描かれているのだ。
『キャプテン・マーベル』と同じく「ポリコレ」が強調されている作品としては『ブラックパンサー』が思い浮かぶが、あの先品では主人公であるブラックパンサーが王族としての使命感や責任感から他人のために闘っていることが強調されていた。そして、フェミニズム映画としては落第点である『ワンダーウーマン』がヒーロー映画としては魅力的であった理由も、『キャプテン・マーベル』の問題を裏返すことで、より深く理解できるようになるだろう。
*1:DC映画に関しては、『ワンダーウーマン』や『シャザム!』はオリジンものでありながら楽しませてくれる工夫が多数なされており、私は高く評価している。『マン・オブ・スティール』はつまらなかったし、『アクアマン』に関しても内容がとっちらかっていて世間で言われているほど面白くはないと思った。
*2:なお、私がマーベル映画のオリジンもののなかで最も高く評価しているのは『アントマン』であり、次点が『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』だ。『スパイーダマン:ホームカミング』も面白かったが、オリジンものと言うには無理があるかもしれない。
*3:軍隊とか戦争とか帝国主義とか資本主義とかを「家父長制」に結び付けて連想ゲーム的に否定することは、フェミニズム批評とかではよくあることだ。
*4:帝国主義といえば家父長制なので、帝国主義を否定するということは男性社会を否定するということになるのだ。
*5:
*6:実際には『デッドプール』の映画シリーズでもデッドプールは他人のために行動することが多く、そこが面白さにつながっていたりするのだが。