THE★映画日記

映画(たまに漫画や文学)の感想と批評、映画を取り巻く風潮についての雑感など。

「虐げられた女性同士が連帯して男性社会に復讐する映画」を私が苦手とする理由

 

 

お嬢さん(字幕版)

お嬢さん(字幕版)

  • 発売日: 2017/08/21
  • メディア: Prime Video
 

 

 タイトル通り、「虐げられた女性同士が連帯して男性社会に復讐する映画」というものが世の中にはいくつか存在しており、私はそれが苦手だ。その理由は、端的に言ってしまうと、私が男性であり復讐する側の女性にあまり共感できず復讐される側の男性に同情してしまう、という面も否定できないかもしれない…。しかし、「女性同士が連帯して男性に復讐」系の物語には、それ特有の「安直さ」や審美的な欠点を感じることも多い。なんとか言語化してみよう。

 

 私がここで特に念頭に置いているのは、たとえば2016年の韓国映画『お嬢さん』であり、2019年のNetflixオリジナル映画『パーフェクション』である。この2作の内容はよく似ている…というか、はっきり言ってしまうと『パーフェクション』は劣化版『お嬢さん』だ。『お嬢さん』は物語の展開は先を読ませぬものであったし主役である女性たちの描写も脇役である男性たちの描写も気合が入っていたし、植民地支配を遠景とした異様な舞台設定やその状況下で行われる暴力の描写にも物語的な説得力があった。一方で『パーフェクション』は人物描写も設定もお粗末なものであるし、ケレン味が過ぎて品がなく、物語の展開にも工夫がなくて安直だ。『お嬢さん』には視聴する価値はあるが、『パーフェクション』にはわざわざ視聴する価値もない。

 とにかく、『お嬢さん』も『パーフェクション』も、映画全体の構造はよく似ている。まず、二人の女性を主人公としており、この二人はどちらも暴力的で変態的な男性から肉体的・精神的に性的暴力を振るわれている。二人の女性の立場は異なっており、映画の中では一見するとこの二人は敵対的な関係に立っているが、それは復讐相手である男性を騙すための策略で、実は二人は同性愛的な関係によって繋がっており共謀している。そして、なんやかんやで敵役である男性(たち)に対する復讐を成功させて、映画のラストシーンでは二人の女性が同性愛的な描写を行うシーンが映されることで女性たちの「勝利」が強調される…という構造である。

『お嬢さん』を劇場で観終わったとき、私はラストシーンからなんだか「ドヤ顔」みたいなものを感じてしまって、全体としては面白い映画であったのに視聴後にはかなり冷めた気持ちになってしまった。この冷めた後味は、量産的で安っぽい赤川次郎的なエンタメ小説を読んだりエンタメドラマを観たときに抱く後味と同じだ。つまり、複雑なプロットや独特なキャラクター描写を含んだ作品であるにも関わらず、作品の根本に存在する「安直さ」が最後に残ってしまうのである。

 そして、この「安直さ」の原因は、『お嬢さん』という作品がメインの観客として想定しているであろう「女性」たち…もっと言えば「男性社会に対して恨みを抱えていたり、フェミニズム的な観点から男性社会に対して批判意識を抱いている女性」たちが持っているであろう欲望に対してあまりに寄り添い過ぎており、彼女らの欲望に直接的に沿い過ぎた物語となっていることである。

『お嬢さん』の作中では二人の女性たちはかなり苛烈な目に遭わされており、登場人物の女性たちにとって決して都合の良い物語ではない。だが、観客である女性たちにとってはかなり都合の良い物語になっていることは否めない。女性たちは徹底的に抑圧された被害者として描かれており、(メインの)男性の登場人物は全て敵として描かれたうえで、女性同士の連帯によって男性社会に復讐するという物語の構造のなかでは、「女性」は無謬の存在となる。観客である女性たちは後ろめたい思いをなんら抱くことなく、普段から恨みや批判の対象としている男性たちがとっちめられる様子を見て、晴れ晴れとした気分で劇場を去ることができてしまうのだ。

 端的に言うと「その面白さって『スカッとジャパン』の面白さと一緒じゃない?」と言うことである*1

 

 映画であるのだからメイン層の観客の欲望に応えることは当然だろう、と思う人もいるかもしれない。しかし、実のところ、上質な物語とは対象である読者や観客たちの欲望を直接的に肯定することはしないものである。むしろ、物語を上質なものとしたり、物語を単なるエンタメやポルノから分け隔てる要素として*2、観客の欲望に対して「ずらし」や「はずし」をしたメッセージや結論を出したり、ときには観客の欲望をダイレクトに否定して居心地の悪さを与えることで価値観の転覆を試みたりすることがある。自分の持っている欲望を満たしたり、自分が元から抱いている価値観を肯定するメッセージばかりを求めたりすることは、物語を鑑賞する態度としては決して上等なものではない。そして、物語の作り手の側にも、なんらかの形で観客の欲望の裏をかくことが求められるというものである。

 

 クエンティン・タランティーノは「復讐もの」の映画を多数作っている。しかし、タランティーノの復讐作品には、『お嬢さん』には見受けられないような「ずらし」の工夫がなされている。「主人公が悪人に復讐する様子をみてスカッと痛快な気持ちになりたい」という観客の欲望が単純に肯定されているつくりにはなっていないのだ。

 たとえば『キル・ビル』では一人目の復讐対象である女性には子供がいることが描かれており、復讐の爽快感がさっそく削がれている。また、最後にして最大の復讐対象であるビルと主人公との間にも複雑な愛憎関係が描かれている。『イングロリアス・バスターズ』では、ユダヤ人女性であるショシャナ(ミミュー)は復讐を果たす瞬間に死んでしまうし、ショシャナの復讐に巻き込まれて主人公チームであるバスターズからも死人が出てしまうなど、物語のピークである復讐シーンでも単純に爽快感を抱くだけでは済まされないような作劇になっているのだ。「黒人奴隷による白人奴隷主に対する復讐劇」という物語である『ジャンゴ 繋がれざる者』にしても、最大の悪人であるレオナルド・ディカプリオが物語の途中でクリストフ・ヴァルツと相打ちになったり白人奴隷側に協力する狡猾な黒人が登場したりと、やはり「ずらし」が行われているのである。

 タランティーノに限らず、『ダーティ・ハリー』や『奴らを高く吊るせ!』などクリント・イーストウッドが主演する「復讐もの」でも、「復讐を成功させてスカッと爽やかに解決」とはいかず、復讐行為の苦々しさや虚しさを描いているのだ。最近では『ジョーカー』や『パラサイト』も一見すると「格差社会で虐げられた者が格差の上層にいる者に復讐を行う」という触れ込みのストーリーに見えるが、実際には、どちらもそう単純な作品ではなかったのである。

 さらに言うと、「実際に存在する属性の人々が、実際に存在する属性の人々に復讐する」という行為を肯定してしまう作品は、観客に影響を与えて実際の犯罪を誘発するリスクすらあるだろう*3。復讐を安直に肯定しない作劇をすることは、「復讐もの」を作る側にとっての責任感や矜持の表れとも言えるかもしれない。

 

 さて、「虐げられた女性同士が連帯して男性社会に復讐する映画」に話を戻すと、マイノリティである(とされている)女性によるマジョリティである(とされている)男性に対する復讐、という外見のために「文句の付けづらさ」が生じるのも厄介なところだ*4。さらに言えば、作品に込められているフェミニズム的なテーマやメッセージのために「この作品は評価されるべき」という圧力が生じてしまうのも面倒臭いところである。

 たとえば、私は『ハスラーズ』はまだ未見であるが、「『ハスラーズ』の怒り。オスカー候補から漏れた事実も物語と共振」という記事からは「映画はテーマやメッセージによって判断されて評価されるべきである」というイデオロギーを感じた(『ハスラーズ』がオスカー候補から漏れたのは作品や演者の質が他の作品や演者に及ばなかったからである、という最も検討すべき可能性を考慮することを頭から拒否した記事であるからだ)。

フェミニズム的なメッセージやテーマを描く作品は面白くならない」と主張するつもりはないが、『キャプテン・マーベル』の例のように、フェミニズム的なメッセージやテーマを入れることが作品の面白さの質を損なう事例があることはたしかだ。また、『お嬢さん』や『パーフェクション』のように「観客である女性たちの欲望を肯定すること」を狙うがあまりに深みや品性に欠けた作品になるリスクもある。

 そして、ここに「フェミニズム的なメッセージやテーマを描いた作品を批判することは許されず、肯定しなければならない」という圧力が加わると、結果としてフェミニズム的なメッセージやテーマを描く作品の質はどんどん下がり続けることになるだろう。「自分の求めるメッセージやテーマが描かれていれば満足」という人にはそれでもいいのだろうが、より上質な映画の数が増えることを望む映画好きの身としては、そんなのたまったものではないのである。

*1:ただし、私は『スカッとジャパン』を見たことはないので、この言い方がもしかしたら『スカッとジャパン』に対して不当なものではあるかもしれないが。

*2:こういう言い方自体が「エンタメ」や「ポルノ」に対する中傷と言われる可能性もあるが、それはおいておく。

*3:『お嬢さん』では女性たちは直接的な暴力を用いることはなく、男性たちを同士討ちさせる形で復讐を果たすと言う形になっているので、このリスクを回避できているとは言えるかもしれないが。

*4:『お嬢さん』に対してこうやって文句を付けている人も、私以外には見たことがない。