THE★映画日記

映画(たまに漫画や文学)の感想と批評、映画を取り巻く風潮についての雑感など。

『ソーシャル・ネットワーク』

 

ソーシャル・ネットワーク (字幕版)

ソーシャル・ネットワーク (字幕版)

  • 発売日: 2013/11/26
  • メディア: Prime Video
 

 

 2010年の劇場公開当時以来なので、ちょうど10年ぶりの再視聴。フィンチャーの作品は『セブン』にせよ『ゴーン・ガール』にせよ再視聴してみると「こんなに面白かったんだ」と驚かされているのだが、この『ソーシャル・ネットワーク』もかなり面白かった。

 主人公であるマーク・ザッカーバーグジェシー・アイゼンバーグ)の天才性と人間的な問題点や欠点が強調される作劇でありながらも、「隠キャ」らしくひねくれて陰湿であるのに明け透けという奇妙なその言動は人間味も魅力も感じさせてくれるものである……という絶妙な人物描写がウリの作品だ。

 そして、ザッカーバーグの元親友でありながらも一番の"被害者"であるエドゥアルド・サベリン(アンドリュー・ガーフィールド)も、"天才"であるザッカーバーグに対する"秀才"として、観客を感情移入させて物語に惹き入れる役割を全うしている。『アマデウス』におけるモーツァルトに対するサリエリ的な立場というか、主人公以上に観客から好感を得られる"おいしい"ポジションのキャラクターであるだろう。才気煥発っぽくはあるが見るからに気難しくて人好きのしなそうなジェシー・アイゼンバーグの顔付きに対する、どう見ても優しくて真面目だけれど気は弱くて押しも弱そうなアンドリュー・ガーフィールド、というキャスティングも素晴らしい。そもそも二人とも全くマッチョでもなければ「美青年」というレベルにも至らず、こういう立ち位置の若手俳優自体が珍しいものであるのだが、このキャスティングこそが『ソーシャル・ネットワーク』を成功させた秘訣であることは間違いない。

 双子のウィンクルボス兄弟(アーミー・ハマー)やショーン・パーカー(ジャスティン・ティンバーレイク)といった脇役陣もかなりいい味を出している。特にウィンクルボス兄弟は物語的にはザッカーバーグの踏み台としての役割しか持たないのだが、Facebookのアイデアを奪われた後も未練がましくザッカーバーグにやり返そうとする彼らの姿は、本編とは全く関係のないボート競技のシーンの出来の良さと相まって、強く印象に残る。ウィンクルボス兄弟の存在によって「ジョック」に対する「ナード」の復讐、という学園もの映画の古典的な要素が含まれていることもミソだ。

 また、ザッカーバーグの元恋人であるエリカは、文化的で知的なイメージの強い(つまり、いかにもザッカーバーグのようなオタクが好みそうな)ルーニー・マーラーが演じているおかげで、出番は少ないながらも強烈な説得力と存在感を放っていると言えるだろう。

 

 Facebookというすごいプラットフォームや大企業の創始者を主人公とした物語であり、ザッカーバーグ自身も天才肌という風に描かれながらも、社会的地位への渇望や自分をフった女を見返したい・取り戻したいという卑俗なモチベーションを物語の軸としているところが、この作品を凡百の伝記もの映画からは異質なものにしているポイントだ。

 冒頭に女子の顔を比較してランキングするサイト(フェイススマッシュ)を作るシーンや、エリートたちの社交クラブに対するザッカーバーグエドゥアルドの憧れが強調されているところなど、『ファイト・クラブ』と同じように「ミソジニー」や「ホモソーシャル」が関わってくる作品であることはいうまでもない(むしろ『ファイト・クラブ』の裏返し的な作品でもある)。……ただし、2010年という時代柄であること、また社会問題や規範意識にあまり関心のないデヴィッド・フィンチャー監督の作風のおかげもあり、登場人物たちのミソジニーホモソーシャル意識をさほど批判的・否定的に描いていないところもポイントだ。なんだかんだで、観客はザッカーバーグに共感して同情もしてしまうのだから。

 実際、どこの国でも男性の社長なり成り上がりなりエリートなりの大半は多かれ少なかれミソジニーホモソーシャル意識を抱えているものだろうし(フェミニズム意識が高かったりホモソーシャルから距離を置いていたりする男性が出世できるイメージはあまりない)、そういうのは彼らの世界観や人生に深く根を張って取り除くことができないものである。彼らを物語の題材にするときにそれを否定したり批判したりするのも悪くないだろうが、"個人"の人生や生き方に焦点を当てる作品を作るのであれば、安易に批判や否定はせずに同情的・共感的に描くほうが、むしろ深みのある作品になるというものであろう。だって、実際に彼らはそういうミソジニーホモソーシャル意識を抱えている(そして、抱えたまま成功してしまっている)のであり、それが事実だったら否定してもしょうがないのだ。