THE★映画日記

映画(たまに漫画や文学)の感想と批評、映画を取り巻く風潮についての雑感など。

『コブラ会』の男らしさ

f:id:DavitRice:20210922131054j:plain

 

theeigadiary.hatenablog.com 
コブラ会』、実に面白いのでシーズン3まであっという間に見てしまった。

 シーズン2からは、登場人物たちのしょうもない三角関係や、会話や情報伝達が不足によるくだらない誤解による大騒動と悲劇、映画だったらすぐに解決しそうな問題をシーズンの最後まで持ち越してそれでも解決させない……といった、連続ドラマにありがちな欠点も目立ってくる。物語を引き伸ばすために大問題の解決は後まわしにしつづけながら、間を持たせるために小事件は常に起こしつづけなければいけない、という構造上、トラブルメーカーの役割を担わされて観客から嫌われる登場人物が目立ってくるのも、なんというか実にアメリカン・ドラマという感じ。
 ホークやトリーもなかなか厄介だが、とくにサムがひどい。男を二股にかける自己中心的な性格をしているのに正論を語り、騒動を起こしてはミゲルやディミトリがケガをする原因を作りつつ、自分はすぐに被害者ぶって周囲の大人から甘やかされる、と視聴者の感情を逆撫でしてばっかりの実にストレスフルなキャラクターだ。Googleのサジェストで「嫌い」が出てくるのも納得である。
 とはいえ、サム、そしてその父親ダニエル・ラルーソーの「偽善」や「独善」が強調されるのは、もともとの『ベスト・キッド』では「悪役」だったジョニーを主役に据えたこの作品においては必然性のある描写だともいるだろう。
 
 ティ―ンエイジのかわいらしい男の子・女の子やイケメンが多数登場する作品であるが、『コブラ会』の最大の魅力は、ジョニー・ロレンスという主人公の造形にある。世間の流行どころかインターネットやスマホやパソコンすらまったく使い方を知らない「おバカ」でありながらも、ミゲルやその他のいじめられっ子が立ち上がる武器として空手の技術を教えるだけでなく、彼らが非行にはしりそうになったときにはどうやってモラルを教えて更生させられるかをひとりで考えて悩みながら実行する彼の姿は、実にいじましくて素直で、好感が抱ける。感情表現がヘタであったり言葉足らずであったり直情的で近視眼的であったりするために様々な失敗を犯し、弟子は過去の師匠に奪われて恋愛はまわり道で実の息子のロビーとの関係もうまくいかなくてと失敗続きであるところも、むしろ共感の対象となる。これほど「不器用」なキャラクターは昨今では珍しい。そしてジョニーの最大の魅力は、「偽善」や「正論」とは無縁であることだ。ダニエルとはちがい、彼がミゲルやロビーに説教をしたり教えを説くときには、その言葉が借りてきたものではなく悩みながら自分の頭で必死に考えたものであることが伝わってくる。世間的な権威や正論とは無縁なジョニーであるからこそ、何十歳も年下の子どもたちと対等の立場からメッセージを発して、それが受け止められるのだ。……まあそのメッセージが間違っていることもあるために余計なトラブルや惨事が起こったりもするのだけれど。
 
 シーズン3における、(ジョニーによる教えが一因ともなりながら)学校での乱闘の果てにケガをして車いす生活を余儀なくされることになったミゲルの「リハビリ」をジョニーが手伝うくだりは、とくに感動的だ。現実にやったら問題になること間違いなしの根性論でスパルタなリハビリによってミゲルが回復する過程にリアリティはまったくなく、「エロ本で(文字通りに)釣って立ち上がらせようとする」場面などのバカバカしさもすごいものだが、ジョニーの善意とそれをミゲルが受け止める様子が実に暖かなのだ。ミゲルが「お返し」をするようにファッションやデートなどについてジョニーにアドバイスするところも好ましい。
 ジョニーとミゲルの関係は、ジェンダー論者が喜びそうな「男性同士のケア」関係でもある。しかし、理想的なファンタジーであることは間違いなくても、彼らの関係性の描かれ方に偽善性や押し付けがましさは不思議とない。ひとつは、先述した通りおバカであり、『ベスト・キッド』が公開された1980年代からファッションセンスも知識も価値観もほとんどアップデートされておらず、まったく「コレクト」でないジョニーのキャラクター性によるものだろう。無知であり余計なイデオロギーや思い込みを持たないからこそ、目の前の問題を直視して相手に対して素直に関われて、まわり道をしながらもミゲルを救済したり治癒したりするなどの「正解」にたどり着けるという点では、『刑事コロンボ』と同じくジョニー・ロレンスもアメリカの反知性主義の伝統を正しく受け継ぐキャラクターなのだ。
 もうひとつは、「男性同士のケア」を「師弟関係」や通じて描いていることだ。男性同士のケアがありうるとしても、それは友人同士や同輩などの横並び関係ではなく、「メンター/メンティー」や「先輩/後輩」など「縦」の関係のほうで成立しやすい、というのはよく言われることである。女性は男性と比べて同列の同性に対してはつい張り合ったりマウントをとってしまったりして本音を明かせないが、縦の関係ならその傾向が緩和されて、上の側にいる男も下の側にいる男も本音を打ち明けやすくなる、ということだ。これはわたしも大学時代のサークルや職場のことを思い出すとうなずけるところがあるし、部活をしていた人にも心当たりがあるのではないだろうか。考えてみれば、同じく「男性同士のケア」を描いた『幸せへのまわり道』も基本的には「メンター/メンティー」という関係であった。そういう点で、ジョニーとミゲルの関係は、バカバカしいファンタジーでありながらもある種の「リアリティ」を含んでいるといえるのだ。
 
「空手」という格闘技を題材としており、ティーンエイジャー同士の喧嘩や乱闘が何度も繰り返される『コブラ会』では、必然と「有害な男らしさ」という問題も関わってくる(トリーをはじめとする女子も喧嘩に加わるが、まああんな血の気の多い女の子ってリアルだとほとんどいないし、ストーリーの都合上女子にされているだけで彼女もほとんど男子みたいなものだ)。ジョニーやダニエルやクリースなどの師匠たちも、ミゲルやロビー(やサム)などの準主役の弟子たちもそれぞれに「有害な男らしさ」の問題を抱えているが、とくに印象的なのはホークの扱いだ。彼は、空手を習って暴力を手に入れるだけでなく髪を派手なモヒカンにしたり入れ墨を入れたりするなど全方位に「男らしさ」を獲得することで、いじめられている状況から脱出して周囲を見返して子分とガールフレンドもゲットするが、こんどはその「男らしさ」が仇となって子分もガールフレンドも友人も失い、いじめっ子が空手を習ったことでせっかく身に付けた暴力も役に立たなくなってしまう。
 ……とはいえ、ホークというキャラクターの顛末には、「男らしさ」は有害であるとともに有益なものであることも示されている。結局のところ、まず彼は「男らしさ」を身に付けていなければ、なにもゲットできないじめられっ子のままでありつづけたのだ。同様の経緯はミゲルもたどっているし、過去にダニエルやジョニーがたどったものであり、これからクリースがたどるものでもあるだろう。要するに、男の子である以上は「男らしさ」に振り回されてもダメだけれど「男らしさ」をまったく持たないわけにもいかない、ということだ。空手を習うなどしながら、中庸に着地させる道を見つけるしかないのである。
コブラ会』においては、アマンダ・ラルーソーやミゲルの母などの「母親」たちは、ダニエルとジョニーの不毛な張り合いや子どもたちの無益な争いからは距離をとったりそれを諫めたりする、賢明さや良識を体現する人物たちとして描かれている(シーズン3でアマンダがクリースにつっかかることでその構図も崩れてしまうけれど)。しかし、ホークがいじめられっ子であった時代の回想シーンで、彼の母親が「いじめを止めてもらうように学校に連絡する」というおそろしく無意味で逆効果な(でも"良識的"ではある)手段をとったように、母親的・女性的な「賢明さ」が男の子の問題を解決する上では無力であることを描いている点も優れている。
 男らしさなりマッチョイズムなりの問題は、フェミニズムジェンダー論が登場する遥か以前から男として生きる人々には否が応でも気付かされてきたことであり、男性がつくる男性を主人公とした物語のなかでは様々なかたちで描かれつづけてきたことだ。そして、たいていの物事や事象がそうであるように、「男らしさ」には功罪の両方が存在する(同様に、「母性」や「良識」や「ケア」にだって、功罪の両方があるはずなのだ)。物語はそれが良質であればあるほど、「功」と「罪」の両方を見つめて描くことができるものなのである。
 
 というわけで、『コブラ会』は人によってはポリコレドラマとして受け止められて、人によってはアンチポリコレドラマとして受け止められているようだ。『マッドマックス:怒りのデスロード』ですらフェミニズム作品であるか否かをめぐって解釈が割れているように、よい物語とは多義的な解釈を許すものである。
 日本人や沖縄人がほとんど不在のなか白人男性たちが空手を教えあう設定に対して必然的に出てくる「文化の盗用」という批判を、おバカなジョニーに「なんだそりゃ?」と言わせることでスルーする、という豪胆さはすごい(実際、もともとの『ベスト・キッド』の時点でオリエンタリズムありきな作品なんだから、そこを掘り下げても誰も幸せになれない。そういう点ではシーズン3でダニエルが沖縄に行くくだりは余計でしかなかった)。シーズン1の大会で"意識の高い"が少年が被差別者たちのために黙とうするシーンもギャグでしかない。
 ……とはいえ、反ポリコレな作品であるかというとまったくそうでもない。結局のところ、自分が少年時代に犯したいじめをはじめとする男らしさの「罪」をジョニーに直視させつづけて、ミゲルたちへの指導やクリースとの対峙を通じて彼に「贖罪」をさせることが、この物語の最大のテーマであるためだ。