THE★映画日記

映画(たまに漫画や文学)の感想と批評、映画を取り巻く風潮についての雑感など。

『キャプテン・アメリカ/ザ・ファースト・アベンジャー』

 

 

 ディズニー・デラックスに加入して、無料期間のうちにMCU作品やスター・ウォーズ作品をできるだけ視聴することにした。

 

 MCUマーベル・シネマティック・ユニバース)といえば、ちょうど一年前の『アベンジャーズ/エンドゲーム』で大団円を迎えて大ヒットしたことが記憶に新しい。どうやらエンドゲーム以降もMCUは継続するようではあるが、『エンドゲーム』のときのような社会現象になることはもう望めないだろう。アイアンマンやキャプテン・アメリカのようなスター選手が不在になると格が落ちることは否めないし、2020年以降に公開される作品のリストを見てもスパイダーマンを除けばいかにも2郡な連中ばかりしか残されておらず、また各作品の世界観や設定を統合することにも苦労しそうで『アベンジャーズ』や『エンドゲーム』のような「全員集合」ものを作ることは難しそうだ。

 

 そして、過去にもMCUは必ずしも成功作ばかりであったわけではない。『アイアンマン』の一作目は公開当時から絶賛されて大ヒットしたらしいが(わたしは『ダークナイト』を観るまでは「アメコミヒーロー映画なんてまともな映画好きが観るものではない」と思いこんでいたために同時期に公開された『アイアンマン』は劇場では未見だったので、当時の様子は知らない)、『マイティ・ソー』や『キャプテン・アメリカ/ザ・ファースト・アベンジャー』は私も含めて劇場で観た人の多くは渋い反応になったものだ。どちらも、ヒーロー映画の「オリジンもの」に特有の退屈さや凡庸がモロに出た作品であったからだ。つまり、主人公が正義のために戦う動機付けやその超人的能力の由来の説明などに物語前半の尺を割きすぎてしまい、悪役を含めた主人公以外の登場人物の描写がおざなりになったり展開が単調になったりオリジナリティが犠牲になったりする、という問題である。この問題は後の『ドクター・ストレンジ』や『ブラックパサー』にも見られた一方で、コメディ要素やチーム要素を押し出した『アントマン』や『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』では回避されていた。

 特に『キャプテン・アメリカ/ザ・ファースト・アベンジャー』は、「戦時中を舞台にしたオリジンもの」というところから、この後でDCEUで発表された『ワンダーウーマン』とどうしても比べてしまう。そして、『ワンダーウーマン』ではヒーローとなるダイアナの人間的魅力(ついでに身体的魅力)をたっぷりと示すことに成功しており、他のヒーローと比べても極端に「純粋」である点が彼女の長所でもあり欠点でもあると描写することで差別化を図ることに成功していた。なにより、戦時中という設定とワンダーウーマンがヒーローになる理由とが存分に噛み合っていたし、彼女とともに戦う兵士たちのキャラ付けもしっかりとしていて「戦争もの」としての描写がしっかりしている一方で「戦場に超人的能力を持つヒーローがあらわれたら…」というSF・ファンタジー的な描写も印象的であった。

 それに比べると、『キャプテン・アメリカ/ザ・ファースト・アベンジャー』で主人公が戦争で活躍するシーンはどうにも単調で精彩に欠ける。血清で強化されて超人となったとはいえビームや雷が出せるわけでもないから絵的にはちんちくりんな服装をして盾を持っただけの一兵士に過ぎないし、それ以上に設定的にも(この映画の時点では)「超人ではあるが、アメリカ軍に所属している」という立場なので、ヒーローならではの独断的で飛躍的な行動や決断に乏しいのだ。敵側も、ナチスから独立した超科学オカルト部隊という設定ではあるが、禍々しさや恐ろしさが足りなくてイマイチ地味である。「戦時中」という設定を最も活かせているのは、戦時国債を集めるためにキャプテン・アメリカがマスコットとして興行して回るシーンだろう。ここのシーンは時代物としての面白さがあったし、キャプテン・アメリカの映画や漫画が作られるシーンにはちょっとしたメタフィクション的面白さも感じられた。

 あえてこの映画の最大の魅力を挙げるとすれば、素直過ぎて深みにかけてすらいる主人公のキャプテン・アメリカ=スティーブン・ロジャース(クリス・エヴァンス)の人間性である。というのも、特にここ最近ではアクション映画の主人公というものはみんながみんな「脛に傷を持つ」か「暗い過去を背負っている」かであり、性格もひねくれていたりひん曲がっていたり暗かったり寡黙だったりする。もしかしたらそういう主人公が描かれ出した当初は画期的だったかもしれないが、今ではあまりにもテンプレ化し過ぎている陳腐になっているし、なにしろ暗くて寡黙なのだから物語全体の面白さをサゲてしまうキャラクターになることも多い。その点、きわめてまっすぐな正義心と愛国心から参戦を志願してその意気を買われてヒーローになって、少なくともこの作品内では最後の最後までひねくれることなくまっすぐな性格のまま戦い抜くキャプテン・アメリカのキャラクター性には清々しいものがある(そして、彼のまっすぐさや善良さが裏切られそうになる後の作品群(『ウィンター・ソルジャー』や『シビル・ウォー』への布石としても機能している)。彼が道を踏み外しそうになる唯一の場面が「ファンの女性に誘惑されてキスしてしまう」というところなのも、逆説的に彼の善良さが示されている。おそらくキャプテン・アメリカは童貞であり、それが美点として描かれているところに、この作品のモラルが感じられてよい。この辺りの真っ直ぐで爽やかなモラル感は同じジョー・ジョンストン監督の『遠い空の向こうに』を思いだす。

 一方で、主人公以外のキャラクター描写はあまりにも深みがなくてキツい。特にヒロインのペギー・カーター(ヘイリー・アトウェル)が偉そうな顔をしながらいちいちしゃしゃり出てくるのが不快で鬱陶しかった。トミー・リー・ジョーンズの使い方ももったいなかったし、レッドスカル(ヒューゴ・ウィービング)は見た目からしてお笑い草だ。後の作品で重要な役柄を与えられるバッキー(セバスチャン・スタン)も、この作品ではテンプレ的な「主人公の友人」の枠を超えず印象が薄い。

 

 ところで、この作品で何度も出てくる主人公とヒロインとの間の「ダンス」に関する会話は8年後の『エンドゲーム』における最後の最後のエンディングに関わってくるところだ。この作品の詳細を覚えていたら『エンドゲーム』を見たときの感動もさらにひとしお増していたかもしれないが、まあ凡作なので、よほど奇特な人でなければ8年間も詳細を覚えていることはできないだろう。