THE★映画日記

映画(たまに漫画や文学)の感想と批評、映画を取り巻く風潮についての雑感など。

ブラック・ウィドウは「冷蔵庫の女」か?

 

アベンジャーズ/エンドゲーム(字幕版)

アベンジャーズ/エンドゲーム(字幕版)

  • 発売日: 2019/09/04
  • メディア: Prime Video
 

 

 ちょうど1年前の話題になってしまうが、MCU作品を一気に見返しているうちにちょっと考えてみたので書いてみよう。

 以下は『アベンジャーズ/エンドゲーム』や『アベンジャー/エイジ・オブ・ウルトロン』の重大なネタバレがある。

 

 

アベンジャーズ』シリーズを通して活躍してきたブラック・ウィドウ=ナターシャ・ロマノフであるが、彼女は『エンドゲーム』の中盤にて、六つ存在するインフィニティ・ストーンのうちの一つであるソウル・ストーンを獲得するために死んでしまう。ソウル・ストーンは「大切な人の命を捧げないと入手できない」という設定であり、ソウル・ストーンのある星にブラック・ウィドウと一緒に訪れたホークアイ=クリント・バートン(ジェレミー・レナー)との間でお互いに我先に死のうとする競争が発生した末、競争に勝ったブラック・ウィドウが自己犠牲的に死んでしまうという展開だ。

 前作の『インフィニティ・ウォー』では全生命体の半数が死んでしまうというオチになっていたが、彼らはけっきょく生き返ることにあんる。一方で、前作の最終盤で死亡した一人のキャラクターと、本作で死亡した数名のキャラクターは生き返らない。そして、ブラック・ウィドウは数少ない死亡者の一人に含まれることとなったのだ。

 

 この展開について、アメコミに典型的な「冷蔵庫の女」描写だとの批判がなされた。

 元のブログによると、「冷蔵庫の女」の定義とは以下のようなものである。

 

男性ヒーローの成長とか動機付けのためにガールフレンドや家族など、親しい女性が殺されるようなプロットを指す。つまり、女性が殺されることが主人公男性を奮起させ、活躍させるためのプロットデバイスとして使用されるわけである。もともとは『グリーン・ランタン』でヒーローの恋人が殺されて冷蔵庫に入れられるという話があり、そこからつけられた。こういうプロットはいろいろな作品に出てくるのだが、性別を逆にして使われること、つまりスーパーヒロインのボーイフレンドが殺されるという方向性の展開が採用されることは目立って少ない。

冷蔵庫に入れるのはソーのビールだけでいいんだよ~『アベンジャーズ/エンドゲーム』(大量ネタバレ注意) - Commentarius Saevus

 

 しかし、『エンドゲーム』におけるブラック・ウィドウの死は、"女性が殺されることが主人公男性を奮起させ、活躍させるためのプロットデバイス"とは少々趣きが異なるように思える。

「ブラック・ウィドウの死がアベンジャーズの面々を奮起させる」というプロット・デバイスとして機能させられていることは間違いないが、そこでは、彼女が"女性"であったり残されたアベンジャーズの面々の大半が"男性"であること自体は重要な要素とはなっていないのだ。

 

 まず、アメコミにせよ日本の漫画にせよ、物語中に主人公と親しい人物が殺されて主人公が奮起するという展開は珍しくない。「冷蔵庫の女」という用語をめぐるみんなの意見をまとめたTogetterでは、『DRAGON BALL』のクリリン(ナメック星でフリーザに殺されて主人公の孫悟空超サイヤ人に目覚めるきっかけとなる)や『幽☆遊☆白書』における桑原(暗黒武術会にて戸愚呂に殺されたかのように装うことで主人公の浦飯幽助が奮起するきっかけとなる)などが挙げられている*1

 ただし、クリリンにせよ桑原にせよ、他の仲間たちと比べて戦闘力は低いとはいえ、彼らは主人公と一緒に戦う「仲間」であり「戦闘員」である。この点で、彼らの死によって主人公が奮起するプロットは必ずしも「冷蔵庫の女」とは同一視できない。主人公男性のガールフレンドや妻などの非戦闘員が主人公と悪役との戦いに巻き込まれたとばっちりで殺されることと、多かれ少なかれ死を覚悟して戦場に赴いている戦闘員が悪役との戦いの末に殺されることとでは、死の意味合いがかなり異なるからだ。前者は主人公が奮起する動機付けの道具としての意味しか持たない客体的で従属的な死に方であるのに比べて、後者の死に方にはそのキャラクターの戦闘員としての物語を完結させるという主体的な意味が伴っている。そして、悪役に直接殺されるのではなく仲間のための自己犠牲として死を選択することも、やはり「冷蔵庫の女」ではない主体的な死に方であるのだ。

  死ぬのがヒロインであるにせよ仲間にせよ、これまでの劇中でコミュニケーションを行なって関係性を築いている相手が殺されてしまったら、どちらにせよ主人公は奮起するものである。その死に方が「冷蔵庫の女」となるかどうかは、死ぬ当人が「女性」であるかどうかという性別の問題よりも、「主人公を奮起させるためだけ不本意に死んでしまう」という作劇的な都合のための理不尽な死であるかどうかだろう。

 

 ブラック・ウィドウは『アイアンマン2』で初登場してその時点から活躍している、アベンジャーズのなかでも最古参のメンバーである(初登場作品の公開年度だけを見ればキャプテン・アメリカやソーよりも早くから登場している)。アイアンマンやソーのような超人的な能力は持っていなかったり、ハルク=ブルース・バナー(マーク・ラファロ)との恋愛関係が強調されていたり、『アベンジャーズ/エイジ・オブ・ウルトロン』ではごく短時間ではあるが「捕らわれのお姫様」のような状態になっていたりもしたとはいえ、女性であるからといって他のヒーローから守られてばっかりのか弱い存在としては描かれておらず、そのスパイ能力を活かしてアベンジャーズのなかでも中核を担う活躍をしてきた人物であった。「ヒロイン」というよりも「仲間の一員」として描かれている面が強いキャラクターであるのだ。

 そして、『エンドゲーム』におけるブラック・ウィドウの死も、「冷蔵庫の女」としての死ではなく「仲間キャラクターの死」であるとわたしは思う。たしかにブラック・ウィドウの死でアベンジャーズの面々は奮起したが、あそこで仮にホークアイが死のうとアイアンマンやキャプテン・アメリカやソーが死のうと、仲間の誰が死んでもアベンジャーズの面々は多かれ少なかれ奮起していただろう。

 

 とはいえ、作劇の都合やストーリー展開の盛り上がりを考えると、実際には「仲間キャラクターであれば誰が死んでいていても同じ展開になる」わけではない。

 たとえば、『アベンジャーズ/エイジ・オブ・ウルトロン』の終盤では一応はアベンジャーズの一員ということになっていたピエトロ=クイックシルバーアーロン・テイラー=ジョンソン)が死亡するが、彼の死亡シーンはストーリーにさほどの盛り上がりを与えなかった。なぜなら、ピエトロはつい最近にアベンジャーズに加わったばかりであり、双子の妹であるワンダと初対面のときから会話が多かったホークアイを除いては、アベンジャーズの面々とまともにコミュニケーションしたり人間関係を築いている描写がなかったからである。アイアンマンやキャプテン・アメリカやソーにとっては、ピエトロが死亡したことは他の仲間が死亡することに比べるとショックの少ないものであっただろう。

 つまり、チーム内の仲間たちと関係性を築いているメンバーでないと、「死亡することによって仲間たちが奮起する」という展開にリアリティや盛り上がりが与えられないのだ。逆にいえば、より多くの仲間たちとより深い関係性を築いているキャラクターであればあるほど、「死亡することによって仲間たちが奮起する」という展開のリアリティや盛り上がりは増すことになる。

 この観点からすれば、製作陣が「盛り上がりのために中盤に誰かを殺そう」と考えたときに、ブラック・ウィドウが選ばれることも理解できる。彼女はアベンジャーズのなかでも最も多く人間関係を築いているメンバーであるからだ。『アベンジャーズ』や『エイジ・オブ・ウルトロン』だけでなく、キャプテン・アメリカとは『ウィンター・ソルジャー』において、アイアンマンとは『アイアンマン2』や『シビル・ウォー』において共に行動して戦っている。特にキャプテン・アメリカとはかなりの友情を培っている。前述したようにハルクとは恋愛関係にあるし、ホークアイとは師弟関係かつ擬似親子関係を築いていた。

 ソーとブラック・ウィドウの間には特筆すべき関係が築かれていないが、ソーはアベンジャーズの古参メンバーでありながら「外様」感のある人物であり、実は他のどのメンバーとも大して深い関係を築いていない。ホークアイも、ブラック・ウィドウかワンダのどちらかと交流する描写が主である。そしてワンダも『エンドゲーム』の時点ですでに死亡しているのだから、ホークアイが死んだところで奮起するのはブラック・ウィドウひとりだけなのだ。キャプテン・アメリカやアイアンマンはさすがに中核メンバーだけあってそれなりに多くのメンバーと関係を築いているが、後の展開を考えると彼らを中盤で死なせるわけにはいかない。…だとすれば、消去法的に、死ぬのはブラック・ウィドウだということになる。

 もしかしたら、これまでのMCU作品でブラック・ウィドウが多くのキャラクターと関係を築いてきたことも、最終作で死なせることを製作陣があらかじめ決めており、死亡シーンを盛り上がらせるために逆算した結果の作劇であったかもしれない。だとしても、それは「冷蔵庫の女」とは別の話なのだ。