『シビル・ウォー/キャプテン・アメリカ』
主人公であるキャプテン・アメリカ(クリス・エヴァンス)の他にも準主人公であるアイアンマン(ロバート・ダウニー・Jr.)をはじめとしてウォーマシンやホークアイ、ワンダにヴィジョンにアントマンにスパイダーマンと多数のヒーローが登場して二つの派閥に分かれて戦う話であるため、『キャプテン・アメリカ』シリーズというよりかは『アベンジャーズ』シリーズの一作として扱われることも多い作品だ。しかし、しっかり見直してみると、明確にキャプテン・アメリカを主人公として彼が中心となった物語であることが描かれているし、他のキャラクターたちはあくまで脇役の立ち位置である。
「シビル・ウォー」という副題からはヒーロー同士のイデオロギー対立が予想されるが、実際には「上位の機関(国連)にヒーロー活動の管理権限を与えることを是とするか否とするか」というイデオロギー対立には物語の味付けやストーリー展開のための舞台装置という程度の重みしか与えられておらず、キャプテン・アメリカは自身の信念というよりかはバッキー=ウィンター・ソルジャー(セバスチャン・スタン)との友情を動機として動いている部分が強い。
この映画が話題となり、また名作と呼ばれているのは、「ヒーロー同士の対立といってもなんだかんだで途中で共通の敵や真の黒幕があらわれて、対立していたヒーローたちは仲直りしてまたいつも通りにみんなで団結して敵を倒すのだろう」という、おそらく大部分の観客が抱いていた予想通りに物語が進行したかと思えば、終盤にてその予想が裏切られて、これまで以上にヒーロー同士の関係が悪化して決裂した状態で物語が終わるところにある。序盤から「真の黒幕」であるヘルムート・ジモ(ダニエル・ブリュール)の暗躍を描いて存在を明らかにしているからこそ観客は「こいつに対して一致団結するんだな」とミスリードされるし、思わせぶりに「超人兵士軍団」の存在を示しておきながら最後の展開のための小道具としてしか彼らを使わないという点も大胆だ(また、「ウィンター・ソルジャーによる1991年の自動車襲撃」の場面を何度も描写することについてのミスリードとしても機能している)。冷静に考えると悪役の策略は大掛かりで時間も費用もかかり過ぎるわりに成果が出るかどうかはまったくの運頼みで確実性がない非現実的な策略であるのだが、観客の事前の予想や「ヒーロー集結もののお約束」というメタレベルな知識すらミスリードに利用した作劇が見事なので、目を瞑ってあげようという気にさせられる。
アクションについても、中盤までは『キャプテン・アメリカ/ウィンター・ソルジャー』と地続きの「リアル」寄りなカーチェイスや格闘シーンを魅せて、ついにヒーロが集結して二派に分かれて空港で大乱闘を起こす場面ではこれまでのMCU映画よりもさらに特撮チックで非現実的な絵面のバトルが描写されることになる。新参者であるスパイーダマンやアントマンの能力的な異質性も活かしていて、緩急のつけ方が見事という他はない。
起伏の豊富なストーリー展開に力を入れいるぶん、キャラクター同士の関係性が深まる会話シーンは他の作品と比べると少なくなっているが、キャプテン・アメリカとバッキーとの友情、そしてキャプテン・アメリカとアイアンマンとの対立についてはしっかり描かれている。また、キャプテン・アメリカと相思相愛であったペギー・カーターの葬儀シーンにて彼女の孫娘が語るセリフ(「世界中から"そこをどけ"と言われたならば〜世界に向けてこう言ってやれ"お前がどけ"」)も印象的だ。実はMCU作品全体を見てもキャプテン・アメリカの行動の動機や信念に関する描写はそこまで充実しておらず(他のヒーローと比べてストイックであり利他的であることは間違いないとはいえ、その正義感や自己犠牲の精神が他と比べて特筆してすごいということを示す描写はあまりないように思える)、キャラクター設定やセリフでごまかしている部分も強いのだが…。
舞台が世界各地をコロコロと移り変わり毎回毎回まったく違った絵面のアクションシーンが楽しめるところは、『アベンジャーズ/エイジ・オブ・ウルトロン』の弱点を克服している。また、コウモリ的などっちつかずの立ち位置であるブラック・ウィドウ(スカーレット・ヨハンソン)やお人好しで損な役回りを背負ってしまうホークアイ(ジェレミー・レナー)も、相変わらずいぶし銀の活躍を魅せてくれる。
エンドクレジットの魅せ方には工夫があるMCU作品だが、『キャプテン・アメリカ』シリーズのエンドクレジットはどの作品でもスタイリッシュでとりわけ印象に残る。一作目は凡作であったこのシリーズだが、よくぞここまで成長したものである。