THE★映画日記

映画(たまに漫画や文学)の感想と批評、映画を取り巻く風潮についての雑感など。

物語における「現代の価値観で過去を裁く」ことについて

 

 どう即さんのツイートが興味深く、ブクマも50以上と注目されているようなので、思うところをメモ的に書いておく。

 

 ブックマークコメントでは「現在の価値観で過去の人々を裁くことを正当化するのか」的な批判意見が多いようだ。しかし、基本的には id:IkaMaruさんのコメントの方が的確であるだろう。

 

どう即 on Twitter: "「死んでしまえばそれまで」と言えばそれまでだが…今のお偉いさん達って「自分が後世の漫画家や映画作家に、ずっと悪役として描かれる」ことの恐怖ってないのかしら。百五十年前に「黒人や女に投票権を与える?本気かよ?」と言った米国の政治家達… https://t.co/WQHAZOhrSi"

わかってない人もいるようだけど、黒人は解放され公民権を持つべきだと考える人が当時から少なからずいたからこそのシーンだよ、これは。遠い未来の人類がまだ見ぬ価値観の話をしてるんじゃない

2020/05/12 07:57

b.hatena.ne.jp

 元のツイートで取り上げられている画像は女性の参政権に関する議論の箇所ではあるが、アメリカの黒人奴隷制度の賛否に関する議論をテーマとしたスティーブン・スピルバーグの映画『リンカーン』から取られている。

 ある歴史的な事件や事実が映画の題材となるためには、そこに何らかのドラマ性がなければならない。そして、「価値観の対立」というものは充分にドラマチックになり得る。アメリカの黒人奴隷制度を題材にした作品…わたしがパッと思いつく限りでは『それでも夜は明ける』『リンカーン』『ジャンゴ:繋がれざる者』、ちょっと毛色が違うが『アミスタッド』…ではほとんどの場合に「黒人奴隷制度に反対する白人」が登場するが、これは物語的な都合というだけではなく、黒人奴隷制度に反対する潮流は当時からかなりの存在感を持っていたという事実を反映してもいるのだ。

 南北戦争といえば「"奴隷制の是非をめぐって争っていた"というのは北部の側のお題目に過ぎず、実際には北部と南部との経済的な紛争が原因だ」という"リアリズム"っぽい主張をする人がよくいるものだが、それは逆張り的な極論であり、奴隷制廃止運動は実際に戦争の主な原因となるほどの勢いを持っていたのだ。そして、「奴隷制は非人道的な制度であり、廃止すべきだ」という主張の根底にあるのは、現代にまで続くヒューマニズムである。…つまり、大半の映画においては"主役"側となる、奴隷制に反対していた人々の価値観は、現代の我々の価値観は必ずしも断絶していない。ヒューマニズムという点では地続きであるのだ。

 奴隷制の維持を主張していた人々は、たとえば奴隷の被る苦痛や人種間の不平等を指摘するヒューマニストに対して反論しなければならなかった。しかし、他人に対して苦痛を与えることや不平等を維持することを正当化するような主張には、どう取り繕っても横暴さや冷酷さや自己中心性や非論理性があらわれてしまう。現代のわたしたちが奴隷制維持論者の主張に見出すような不快感や醜悪さを、多かれ少なかれ、当時の奴隷制反対論者たちも見出していただろう。となると、奴隷制に反対していた人々(または奴隷自身)が主役となる映画で、奴隷制の維持を主張する人々が醜い主張を行う悪役として描かれることはごく自然なことでもある。彼らに対して映画のなかの主役たちが抱く嫌悪感と映画の観客であるわたしたちが抱く嫌悪感はオーバーラップするが、それは「現代の価値観で過去の人々を裁く」こととはかなり異なるのだ。

"悪役"をどう扱うかということは映画によっても異なり、問答無用で撃ち殺してしまう『ジャンゴ:繋がれざる者』という例もあれば、"主役"側の問題も描きつつ対話や妥協の必要性を強調する『リンカーン』という例もある。これは、作品のテーマやプロットや作風や題材にする具体的な事象などなどによって変わってくるところだ。

 

 歴史についての議論になると、現代の人々と過去の人々との間で価値観が異なる部分ばかりが強調されて、価値観が似通っていたり等しかったりする部分は無視されがちになる、という傾向がある。しかし、現代の我々が抱いている価値観は、多かれ少なかれ啓蒙主義の時代から登場したヒューマニズムの延長線上にある。だから、近代以降の時代が舞台の物語であれば、「正義」や「悪」についての考え方が現代の我々と共通していて共感の対象とすることができる人物は容易に探すことができるのだ*1

 

 さらに、「価値観」以前のレベルの話として、私たちの道徳感情には先天的な側面があるところも重要だ。ほとんどの時代や場所においてタブーとされている行為は数多く存在する。他人を騙して損をさせて自分だけ得しようとすること、私利私欲のために権力を濫用すること、自分の都合のために力のない弱者を犠牲にすること、信頼してくれている人や自分が属している集団を裏切ること、などなどは大半の文化や社会において「こういうことをする奴は悪人だ」と見なされるだろう。中世以前の物語にもわたしたちが共感できて、そこに登場する悪役を憎んで主役に共感することができるのは、私たちがプリミティブな道徳感情を祖先たちと共有しているからである。

 

 明確な「悪役」が登場する、過去の歴史的事象を描いた映画の例として、最近では『タクシー運転手:約束は海を越えて』と『1987、ある闘いの真実』という作品があった。どちらも、1980年代の軍事政権下における韓国が舞台となっており、どちらの作品でも民主化のために奮迅した民衆が"主役"となっていて、軍事政権が"悪役"となっている(物語上で"悪人"として直接的に登場するのは政権側に属していて民衆を弾圧する役人なり軍人なりである)。これらの作品は「民主主義」という価値観をめぐる争いとして捉えることもできるが、それよりも、無力で無辜な市民に容赦無く暴力を振るって大怪我させたり死に至らしめたりする軍事政権の横暴さや恐ろしさの方が際立っている。価値観がどうこうという話をするまでもなく、「こんなにひどい行為をする連中は悪いに決まっているだろう」というプリミティブな感情が刺激されるのだ。実際、光州事件などの弾圧の実態を知ることができた人であれば、当時でも韓国の内外を問わずに大概の人が「軍事政権は悪だ」と判断していたことだろう(弾圧の隠蔽工作が行われていたために多くの人は軍事政権の実態を知ることができなかった、という問題はあるのだが)。

 ジョージ・W・ブッシュ大統領の下で副大統領を務めたディック・チェイニーを主人公にした映画『バイス』も、英語版タイトル Viceダブルミーニングの通り、チェイニーを主役に据えてその複雑な内面を描写しながらも、最終的には悪役として描き切っている。戦争を引き起こして他国の人間のみならず自国の兵士たちの命を奪った右翼政治家であっても、たとえば愛国心なり「国を守るため」という大義のために行動していた人物であれば単純に悪役として描くことは難しいかもしれない。だが、私利私欲のために民主主義や法律を骨抜きにして権力を獲得して政権や国家を私物化しており、その私物化の事実が当時からもバレていたような人物であれば、これはもう悪役としてしか扱いようがないだろう。

 

 現代の日本における自民党政権であったり、安倍晋三麻生太郎竹中平蔵などの政治家連中も、このままいくと後世の映画では悪役としてしか描かれないだろう。ヒューマニズムなり民主主義なり法治主義なりのポジティブな価値を全く体現していないどころかそれらを侮辱して損なわせることばっかりやっている。彼らが政権を私物化しているという事実は現代の時点で私たちに伝わっているし、彼らのナメくさった国会答弁や記者会見やインタビューなどの映像や文章は散々に流通している。つまり、現時点で、彼らは価値観のレベルでもプリミティブな感情のレベルでも"主役"の側になる要素が全くない代わりに"悪役"になる要素がたっぷり存在するのだ。いまだに自民党政権を支持する国民の方が多数派ではあるようだが、現時点でも自民党を支持せずに批判する国民の存在はもちろん認知されている。後世の映画ではおそらく後者の国民を"主役"に据えて、自民党政権やそれに属する政治家が"悪役"として描かれるはずだ。その作品に対して「現代の価値観で過去を裁くな」と批判する人はあらわれるかもしれないが、その批判はやっぱり的外れなのである。

 

 

1987、ある闘いの真実 (字幕版)

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