THE★映画日記

映画(たまに漫画や文学)の感想と批評、映画を取り巻く風潮についての雑感など。

『胎界主』

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2005年よりインターネットで連載されている、完全フルカラーの、非商業の無料公開マンガ。2017年に「第二部」が完結してからもサイト上では短編作品の連載は行われていたが、 『胎界主』本編の更新はしばらく中止されていた。しかし、数ヶ月ほど前から「第三部」の連載が開始されている。

 

 無料公開マンガの代表格といえば『ワンパンマン』であるが、あちらは、序盤はシンプルすぎるくらいにわかりやすい主人公設定と物語展開からはじめることでエンタメ性を確保して、そのあとに徐々にキャラクターを増やしたり世界観を広げていくことで展開を多様なものにしたり物語の深みを増させていく、という構造にしたことが成功の秘訣であった。

 一方で、『胎界主』は序盤から設定がモリモリなうえに作者の表現力や技術力が発展途上であり、とにかくわかりづらい。フルカラーではあるが暗くて不気味な絵柄も集まって、第一部の第一話から読み始めたらすぐに脱落してしまう読者が大半であるだろう(わたしも、最初に読み始めたときはそうであった)。

 しかし、第一部の第八話「球体使い」あたりからはようやく「普通の漫画」っぽくなり始めて、なんとか読むことができるようになる。そのあとにも読みにくかったりわかりづらかったりするエピソードがちらほらと出てきたりはするのだが、そこは流し読みしたり飛ばしたりして、二十話の「塔の男」あたりまでたどり着けばあとは問題なく読めるだろう。そこまでたどり着くのもキツかったら、登場人物自身が「少年漫画のテコ入れ」とメタ的な言及をしている、トーナメント戦が繰り広げられてギャグとバトルが多めでエンタメ性たっぷりな、二十六話以降の「無責任飛行」から読んでみるのもオススメだ。

 また、第二部は第一部とは異なる世界へと舞台が移って、大半の設定についてもイチから解説してくれるので、第一部ではピンとこなかった読者にもとりあえず第二部を読みすすめることをオススメしよう。第二部は中盤まではやや単調な展開が続くところもあるが、終盤の「生体金庫」の怒涛の展開は漫画史に残るクオリティであるし、それまでのタメが長ければ長いほど楽しめる内容となっているので、ぜひそこまでたどり着いてほしい。そして、どこかでこの作品の魅力に気付いたりハマったりすれば、あらためて第一部の第一話からチャレンジすればいい。

 

  この作品の魅力はひとくちには語れない。まず印象に残るはその壮大で練りこまれた設定であり、それが序盤の読みづらさや分かりづらさの原因ともなっているのだが、設定を一通り開陳して読者に了解させたあとには、他の作品にはない独自のストーリー展開やキャラクター描写が可能となる。そして、"設定厨"や"考察厨"な読者を惹きつけるポイントにもなっており、ググってみると様々な読者が考察を展開している様子を目にすることができるだろう。

 設定の複雑さだけでなく、文字やセリフで語らずにキャラクターの表情やコマの隅の小道具などで真意を表現する映画的な演出の多さや、「認識ロック」や「運ぶ力」などの背景設定に登場人物たちの思考や行動が影響されていることをふまえて読まなければいけない場面が多いことなど、読者に要求する知的負荷が多い作風であるところも、大半の人にとってはわかりづらい作品であるが一部の人にとっては考察がはかどる作品になっている理由である。

 

 そして、この作品の素晴らしさは、他のWeb漫画に比べても「Webに連載されている非商業作品」としての強みを活かしきっているところにある。そもそも全編フルカラーというのがWeb漫画でないとなかなかできないことだ。また、そのあとのストーリーを滞りなく展開するための布石や設定開陳のためであるとはいえ、第一部の前半では読者がずっと置いてけぼりになってしまうことも、編集者による指摘や口出しが入る商業漫画ではなかなか許されることではない。様々な多作品や版権物のパロディが入ること、たまに出てくるどぎつい下ネタや性的描写も商業作品では描きづらいだろう。

 第一部では超能力者同士のバトルが展開されたり第二部ではファンタジー世界でエルフやドワーフと一緒に旅をしてアンデッドと戦ったりと、表向きには実に少年漫画然とした内容でありながらも、作中ではかなり繊細なテーマや哲学的なテーマが扱われているところも特徴だ。主人公の凡蔵稀男は自我が不安定でいつ崩壊したり別人格に乗っ取られたりするかわからないという設定なのだが、"生きる意味"のわからないそんな彼が苦悩したり、他の登場人物たちもそれぞれに"生きる意味"や"幸福"を追い求める、というのがこの作品のプロットの骨子となっている。……それ自体は珍しいものではないのだが、幸福や生きる意味の描き方がかなり生々しいところがポイントだ。

 たとえば、この作品では"他人から必要とされること"や"他人から存在が承認されること"に設定的にも重要な役割が与えられているし、その逆の"孤独"の描き方にもリアリティがある。また、平和な環境で安穏としていれば生きる意味を見失ってしまい、自分の実存が揺るがされたり孤独になったりする危険を伴う未知の領域に飛び出して困難や苦しみを経験しなければ"生きる意味"が見出せない、という旨の主張を多くの登場人物たちが行なっている。

 ここら辺のテーマの描き方は、漫画的というよりも文学的なものといっていい。実際、作中では古典文学から現代アメリカ文学と、様々な文学作品が顔を見せる。また、アカデミックな哲学であったり心理学であったりで行われている議論からもそこまでハズれた主張ではないようにも思えるのだ。つまり、作者が様々な知識を持っていること、それ以上に自分でも"生きる意味"や"幸福"について考えて生きていることが伝わってくる内容となっている、ということだ。商業作品を描く漫画家は、週刊連載やメディアミックスに追われていたり、また若くしてデビューすることが当たり前であったりして、漫画以外の芸術や知識のインプットを充分に行わないまま作品を描いていることが多いだろう。それに比べると、この作品の作者はインプットもしっかり行いながら、"描くべきこと"について自分の頭でしっかり考えてからマイペースに描いている感じが伝わってくる。

 また、映画というメディアはその制作過程にあまりに多くの人々が関わるために製作者が自分の考えや価値観を全面的に開陳することが難しいものであるが、関わる人が少ない漫画ではそれが可能になるし、さらに関わる人が少なくなる小説というメディアの強みは、余計な関係者を排除して、作者の私的な世界観や価値観を全面に開陳できることこそにある。『胎界主』は漫画ではあるが、アシスタントも編集も介在しない個人制作作品であるということもあってか、小説の持つ強みも伴っているように思えるのだ。

 

 キャラクターの描き方も独特だ。多くのキャラクターは強烈な個性を持っており、それゆえに魅力的であるが、大半のキャラクターは世界設定により付与された行動原理に縛られている。「悪魔」と呼ばれる連中は強大な能力を持っているが「たましい」を持っていないために本質的な自由意志はなく、悪魔内での階級制度も絶対であるうえに、超常者によって認識が左右されている…。人間のキャラクターたちも、その大半は多かれ少なかれヤクザ的な暴力組織に関わっており、組織のルールに縛られたり右往左往したりしている。超能力を持つ人間たちには「誓約」という代償もある。そのなかで絶対的な自由意志を持つ存在であるかのように思われるのが主人公を含めた「胎界主」たちであるのだが、彼らもまた自分自身で定めたルールや自分たちが作り出した組織などによって自縛されている…。

 ギャグシーンなどでは活き活きと行動しているように見えても、どのキャラクターも自覚的・無自覚的な制限に縛られているのであり、世界設定自体にもかなりの閉塞感が漂っている。だからこそ登場人物たちが制限を破って意志の力を示すシーンが輝くのだが、それすらも超常者が関与した結果であったり運命を操る「運ぶ力」で定められたものであったりして、後から手痛いシッペ返しがきたりもする。これはかなり悲観的でシニカルな人間観や世界観だと言えよう。

 かなりひねくれた設定の主人公である稀男もいいが、特に悪役たちが魅力的な作品でもある。第一部のボス敵であるレックスは、世界中を放浪して女性を孕ませておき、息子たちの誕生日に会いにきては「40歳になってもロクな人間になっていなかったら焼殺する」と言い聞かせて40際になったら実際に殺してしまう、という異常なポリシーを持った男だ。「無法者のチンピラだがあまりにも強すぎるためにカリスマ性を持つほどの存在となった」という範馬勇次郎とか鬼龍的なポジションのキャラであり、これ自体はよくあるものだが、普通はそういうキャラは豪快に描かれるところをレックスに関してはチンピラ特有の性格の悪さやネチネチさもしっかり描かれているのが面白いところだ(テレビを異常に嫌悪する、という特徴はギャグにも使えるし作品のテーマにも関わるしで、実に絶妙だ)。

 第二部のボス的であるピュアはテンプレ的な「カリスマ宗教家」タイプの悪役ではあるのだが、他の漫画の同タイプのキャラクターと比べるとその主張に妙な説得力や迫力がある。魔王メフィストフェレスや死神のデュラハンとデカトンなど、強大な能力を持ち主人公たちに仇なす存在でありながら作中での不憫な扱いや憎めない言動などによって魅力をかもし出しているキャラクターも多い。

 

 最後に、もう少し「批評」っぽいことを書くとすると…『胎界主』というタイトルでありながら女性の存在感が薄く、特に「母親」にあたるキャラクターがほとんど登場しないことも、この作品の特徴と言えるかもしれない。いちおう少年漫画を志向した作品であるので女性の存在感が薄いことはお約束の範囲内であるかもしれないし、第二部では主人公の一行にヒロインが加わることにもなる。しかし、第一部の中盤までは家父長制的な「士族ランド」を形成する東郷家に関するエピソードが多いこと、女をモノとしか扱わないレックスのみならず主人公の稀男にも女性嫌悪症が設定されていたりすること、作中で重要な存在となる「悪魔」たちも"4人の父親"を頂点とする階級社会であることなど、おそらく意図的に「父」と「女嫌い」を強調して「母」の存在感を希薄にしているフシがある。同じ作者の『童貞を捨てるなんてとんでもない!それを今から説明してやる!』もまさにホモソーシャルミソジニーがテーマの作品であった。並大抵の漫画家よりも教養のある作者のことだから、おそらくこの辺りも意図的に描いているだろうけれど……とはいえ、美少年好きを公言していてフェチズムを作中でも全面に出しているあたり、もしかしたら天然でやっている可能性もあるかもしれない。