THE★映画日記

映画(たまに漫画や文学)の感想と批評、映画を取り巻く風潮についての雑感など。

『ゴジラvsコング』

 

 

 

 ・ハリウッド版(レジェンダリー版)の『ゴジラ』シリーズは、一作目のギャレス・エドワーズ監督による『GODZILLA ゴジラ』をわたしはもっとも高く評価している。
・たしかに世間で言われているように家族ドラマに尺を割き過ぎているし、怪獣映画でなくとも災害映画とかなにかでできそうな内容のドラマであるし、ゴジラやMUTOが本格的に登場して暴れまわるまでが遅すぎて間が持たない。一緒に劇場に観に行った友人は寝てしまっていた。
・しかし、ゴジラが登場するまでに勿体をつけられるからこそ、いざ搭乗した時の存在感や迫力はすごかった。映画の世界の登場人物たちも怪獣を初めて目撃するという設定なので、怪獣の畏怖や脅威がきちんと表現されているのだ。また、熱放射線を出すのも終盤までとっておき、登場人物たちが「すげえ!」と言いながらおどろくシーンは、よい意味で怪獣映画でないと描けないシーンだ。『GODZILLA ゴジラ』では、「もし私たちの世界に怪獣があらわれたらどうなるか」という情景が過不足なく描かれていたのである。怪獣だけでなくスーパーヒーローでも幽霊でもなんでもいいのだが、超常的な存在を登場させる作品では、現実と超常とのギャップ(そして現実の側の人物たちが超常を理解して受け入れるまでの過程)をきちんと描くことが何よりも重要であり、それが面白さにつながるものだ。

 

・一方で二作目の『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』については、わたしが2019年に劇場で観た映画のなかでも最低な部類の作品であった。
・たしかに、初登場時のキングギドラからは恐ろしさや神々しさを感じられるし、怪獣たちの巨大感や迫力を活かした印象的な場面が描かれてはいる。ラドンが羽ばたくだけで街が壊れる描写もゾクゾクした。
・しかし、いくらなんでも人間ドラマが適当過ぎる。前作で家族ドラマに尺を割き過ぎたのは確かに失敗であったのだが、しかし、前作が人間ドラマの描き方に失敗していたとはいえ(怪獣の暴れるストーリーと有機的に結びついておらず、ドラマ自体も凡庸)、「怪獣映画には人間ドラマなんていらないんだ」ということにはならない。いくら怪獣の描写が魅力的であったとしても、観客と一緒になって彼らに恐ろしさや畏敬を感じるべきである人間の描写にリアリティや丁寧さがなければ本末転倒なのだ。

・『ゴジラ キングオブモンスターズ』は公開前から監督が「ぼくは怪獣オタクだ」とアピールしており、一部のオタク観客も「監督は怪獣信者だから仕方がない」「怪獣に対する信仰を描いた宗教映画だ」みたいなことをほざいたりして作品を擁護していたが、描こうとする題材に対するオタク的情熱のせいで題材そのものの魅力を効果的に描くことができなくなっていたわけであり、クリエイターとして三流で失敗しているという評価しか妥当ではない。「怪獣映画だからこんなのでいいんだよ」と言っているような人たちも、自分の好きなジャンルを擁護しようとしながらその価値を貶めているという点では同罪だ。

 

・というわけで『ゴジラvsコング』であるが、良くも悪くも、言うことがあまりない。いわゆる「怪獣プロレス」の描写はやや単調であるが、舞台を転換したり途中で共通的を登場させて共闘させるなどの定番でありながら効果的な展開がなされていて、「比較的まじめにつくっているな」とは思う。
・人間描写は相変わらず低クオリティでくだらないが(役者もレベルが低いぱっとしないのばかりで観ていて悲しくなる)、『キングオブモンスターズ』であんなに大々的に大量の怪獣を世界中に登場させてしまった以上はあの世界の登場人物たちが怪獣に脅威や畏敬を抱く描写を効果的に描くことも困難なので仕方がないかなと思う。
・他の怪獣とは一線を画す存在であるメカゴジラの描写を工夫したり、メカゴジラを制作した人間たちの描写をもっとまじめに展開するとか(ありがちだけど「家族を奪ったゴジラに復讐する」的な人間ドラマを描くとか)していれば評価ポイントになったかもしれないが、まあこの作品のなかではメカゴジラゴジラとコングの関係を修復させるための当て犬でしかないので仕方がないかもしれない。「隠し玉」扱いにせず、冒頭から描いていてもよかったと思うけれど。

・実力的にはゴジラのほうが上だが、物語の主人公はコング、と明確に割り切ったという構成は独特。空洞世界という名のダンジョンに入って斧という武器をゲットする、というRPGな展開も印象的であり、大型霊長類という人間に近い存在だから違和感も減らせているが……それにしてもやっぱり怪獣にやらせることではないなという感じも強い。フツーにシリアスな人間ドラマを展開して、人間同士の対決にコングとゴジラの対決をオーバーラップさせるとか、やりようはいくらでもあるだろう。