THE★映画日記

映画(たまに漫画や文学)の感想と批評、映画を取り巻く風潮についての雑感など。

『シャン・チー/テン・リングスの伝説』:主人公がどんな人間なのかさっぱりわからなかった

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※このブログのほかのすべての記事と同じく、ネタバレあり。

 

 MCUでは初のアジア系のヒーローということが取り沙汰されている作品であり、日本語圏のTwitterなどでも、いつにもまして"浮かれた"感想が目立っている。

 その一方で、昔ながらの映画好きのなかには「たしかに面白いんだけどね……」という風に決して手放しでは褒めない人もちらほらといるようだ。

 

 既存のヒーロー映画のなかでこの作品にもっとも近い作品は、おそらく、DCEUの『アクアマン』だろう。前半と後半とで映画のジャンルまでもが変わるほどのジェットコースター的な超展開というところが共通している*1。この展開のスピーディーさのおかげで、『シャン・チー』にせよ『アクアマン』にせよ、「オリジン」映画にありがちな退屈さを回避することに成功している。

 しかし、オリジン映画が退屈になりがちなことには理由がある。展開のスピードや映画のなかに盛り込む要素の数を犠牲にしても、「このヒーローはどんな人間であるか」「どんな性格や価値観をしていて、どんな理由やどんな想いを背負って戦いに身を投じるのか」ということをきちんと描くことが、ふつうはオリジン映画に求められる役割だ。この点については、『シャン・チー』は明確に失敗していたように思える。シム・リウ演じる主人公がどんな人物であるのか、すくなくともわたしにはさっぱり伝わってこなかったのだ。

 

 アクアマンは言うに及ばず、MCUやDCEUの大概のヒーローたちに比べても、シャン・チーのキャラクターは複雑……というか不透明だ。映画の前半までは、陽気で腑抜けているけれどいざ危機が迫ったり大切な人が傷付けられたときには隠された実力を発揮する、「やるときはやる」系のヒーローであるように見える。しかし、中盤から後半にかけて彼の過去の回想が断続的に何度か描かれることで、最初の印象とはずいぶん異なるキャラクターであることが判明する。まず、父親に子どものころから暗殺を仕込まれた殺人兵器として育てられていたことが明らかになる。さらに、映画のクライマックスになってようやく、14歳だか15歳だかのときに殺しを経験した(らしい)ことが明らかになり、恋人に近いような親友であるケイティにもずっと暗い秘密を隠しながら罪の意識を抱えて生きていたことが判明する*2。つまり、冒頭のカラオケシーンなどに感じるような「陽気さ」とは裏腹の、ややこしい心情をした陰気なキャラクターであるのだ。

 この映画では、主人公の父親のウェン・ウー(トニー・レオン)と彼が率いるテロ組織テン・リングスが象徴する男性的な「剛」のイメージが「悪」の側に位置付けられており、母親のイン・リー(ファラ・チャン)と彼女が所属するターロー村が象徴する女性的な「柔」のイメージが「善」の側に位置付けられている。この二項対立は、テン・リングスでは女性の戦闘訓練は禁じられているがターロー村では男女平等に戦闘に参加するとか、拳法において手を固く握るか開くか、といったくだりにわかりやすく示されている。そして、シャン・チーは当初は父親に対する憎しみから自身も「剛」の側に引き寄せられるがそれでは父親を越えられなかったところを、母が象徴する「柔」の力を身に付けることで父親越えを果たす、というのがバトル面での主なプロット。映画の冒頭で描かれたウェンとインのバトルが再現されるなど、シャン・チーが「柔」の力を身に付けてからの展開はそれなりに感動的でおもしろい。……だが、問題なのは、そこにいたるまでのくだりに説得力がないことである。ターロー村の伯母さんに「あなたが自分自身を発見することが大切なのよ」みたいなことを言われて、いちど父親に負けたあとに湖のなかに落ちたと思ったらなんか龍と出会うことで覚醒を果たすのだけれど、彼がどのようにして「自分自身を発見」したのかがよくわからない。おそらく母親の死ぬ間際の姿を思い出したことにパワースポットであるターロー村のオーラかなんかが加わって彼女の戦闘スタイルを引き継いだということなのだろうけれど、母親に関する回想が飛び飛びであったせいで、いまいち感動できなくなっている。シャン・チー本人も、父親に対して感情をぶつけるわりに肝心なところを言葉で説明してくれないので、どうにも不明瞭さが残るのだ。

 この点に関して思い出すのは『ガーディアンズ・オブ・ザ・ギャラクシー』二作のクライマックスだ。こちらの作品の主人公のスター・ロードはかなりシンプルなキャラクターであり、一作目も母親に関する回想は冒頭とクライマックスで「手をつなぐ」くだりが出てくるだけだが、これがクライマックスで実に劇的な演出となっていた。また、二作目ではスターロードはシャン・チーと同じように「父親」と対峙するが、父を母に殺されたことについての怒りの感情の示し方も、敗北寸前の主人公の「覚醒」の描写も、『ガーディアンズ・オブ・ザ・ギャラクシー』のほうがよっぽどわかりやすく、そしてアツくて感動的であった。

 

 先述したように「剛=悪」と「柔=善」の二項対立が物語の前提になっているとはいえ、悪役であるウェン・ウーが妻への愛情を強く抱いていることは、物語の複雑さと奥行きを増させてはいる。……とはいえ、妻を愛するのはいいんだけど、そのせいで「悪魔」に利用される存在に成り下がられたら困る。千年以上世界を裏から牛耳りつづけていたという設定、そしてトニー・レオンという役者のおかげで、ウェン・ウーはキャラクターとしての「格」はかなり高いのだが、実際に劇中で行う行動はかなり間抜けなのだ。「門」から小悪魔がうにょうにょと漏れ出しているのにも関わらず脇目も振らずにずっと門を殴りつづけているところとか、バカみたい。

「悪魔」の存在のおかげでファンタジー映画や怪獣映画といったジャンルの面白さを取り込みこの記事の冒頭で述べた『アクアマン』的な面白さが成立したとはいえ、この超展開が犠牲にしたのは、主人公のキャラクター性の掘り下げだけではない。冒頭で「伝説」が語られているときのウェン・ウーの無双っぷりにはボス敵としての彼が現代で暴れる様子が期待できたのに、劇中で彼がやっていることは亡き妻に関する妄想にとらわれながら辺境のファンタジー村を探して見つけて攻め入る、というだけ。組織としてのテン・リングスもウェン・ウーの小間使い集団でしかないし、ターロー村を蹂躙することすらできないというのはかなり格が低い。シャン・チーとウェン・ウーの最終決戦そのものは素晴らしくても、その後に怪獣が控えていることがあからさまであるために「消化試合」になってしまっていることも勿体ない。全体的に、ターロー村や悪魔という要素のおかげで人間ドラマの盛り上がりが妨害されて、話のスケールも逆に下がっているのである。

 

 そして、この映画の最大の問題点がシャン・チーの妹、シャーリン(メンガー・チャン)の存在だ。なにが問題かというと、単純に言って、邪魔。彼女のおかげで、ただでさえ口数が少なくてキャラの薄いシャン・チーのセリフや描写がさらに減ってしまっている。

 この映画でわたしが最もワクワクしたのは前半のカリフォルニアのバス車内でのバトルシーンであり、地の利や小道具を活かしたカンフーアクションと、突如として街中で始まった闘いに巻き込まれた一般人たちが驚いたり応援したりする様子は、カンフー映画とヒーロー映画の醍醐味が合わさっていて素晴らしかった。この後もしばらく舞台をカリフォルニアから動かさなければ、日常から非日常への移行ももっと緩やかでスムーズになっていただろうし、「冴えないホテルの係員が実は超人だった」という漫画的な面白さをもっと描けていただろう。しかし、マカオでのファイトクラブという非日常な舞台にすぐ移動してしまうこと、そしてシャン・チーと同等以上のカンフーの達人であるシャーリンが早々にあらわれて(しょーもない内輪揉めを義務的に済ませたあとに)味方側についてしまうことで、シャン・チーの超人感や特別さはあっという間に薄まってしまう。久しぶりの父親との対峙もシャーリンとシャン・チーのセットで行われるし、母親との回想にもいちいちシャーリンが出しゃばってくる。つまり、シャン・チーのセリフや出番や物語におけるエネルギーの一部が、シャーリンに吸い取られてしまっているのだ。とはいえ、シャン・チーとシャーリンは明らかに対等な能力の持ち主であるのに、最後に父親を倒してテン・リングスを受け継ぐのはシャン・チーひとりだけ、というのもいかにもチグハグである。怪獣をやっつけるときにはシャーリンもシェン・チーと一緒にドラゴンにまたがってがんばるんだけど。

 さらに、シャーリンは「男≒剛=悪」と「女≒柔=善」というこの映画の二項対立の描写も妨害している。母親がいなくなった後、父親は彼女に戦闘訓練を許さなかったとい台詞はテン・リングスの「家父長制」を示すためのものであるだろうが、けっきょくシャーリンは「見よう見まね」でひとりで訓練することで、シャン・チーと同等以上の力を得ている。ということは戦闘訓練の意義がそもそも薄いのであり、意義のない戦闘訓練からシャーリンが阻害されていたところで、ウェン・ウーやテン・リングスの悪どさが大して描写できるというわけでもないのだ。結果として、ウェン・ウーやテン・リングスの間抜けさを示して、ずっと父親から直々に訓練されたのに見よう見まねの妹に劣る実力しかないという点でシャン・チーの格を下げる描写にしかなっていない。

 それに、ターロー村やエンドクレジットでシャーリンが率いる新生テン・リングスでは女性が戦闘に参加している、という点が「男女平等」を示すものとして描写されているのもどうかと思う。イスラエルじゃないんだからさ。

 

(追記:また『ガーディアンズ・オブ・ザ・ギャラクシー』を引き合いに出してしまうが、シャーリンは彼の作品におけるネビュラのような立ち位置にしていたほうがよかったと思う。つまり、家父長の支配から逃れられず、そのために家父長の価値観を内面化して、そのせいで主人公に嫉妬や羨望混じりの怒りを抱いているというキャラクターだ。マカオの戦闘シーンでは強かったにターロー村で呆気なくやられてしまうデス・ディーラーのキャラを削ってそこにシャーリンを収めていたら、対立構造がシンプルになるぶん、シャン・チーもシャーリンもウェン・ウーも、いずれのキャラもより深く描けていただろう。)

 

 一方で、ケイティは役者のオークワフィナのおかげで実に素晴らしく魅力的なキャラクターになっていることは認めよう。あまりしゃべらないシャン・チーに代わって表情豊かにしゃべり続ける彼女は、観客を物語に惹きつける存在だ。また、単なるコメディエンヌではなく「能力があるのにそれを活かさずにダラダラ過ごしていていいのか?」というサブテーマを背負っているところも気が利いている*3。……しかし、冒頭から示される(そして彼女のキャリアとも密接に結びついた)ドライビング・スキルではなく、親友の家族事情に巻き込まれながらたまたまたどり着いたファンタジー村でたまたま渡された「弓矢」が彼女のアイデンティティになるという展開は、かなりしょーもない。ほかのMCUのヒロインに比べてもかなり庶民的で非戦闘的な性格をしているのだから、無理に戦闘員としての活躍を描く必要はなかったはずだろう。

 

 批判してばっかりでもなんなので評価点を述べると、「初のアジア系ヒーロー」ということが強調されているために観る前はやや不安だった「ポリコレ」面はフェミニズム要素をのぞけば問題なく、ステレオタイプオリエンタリズムとの批判も気にせずに「アジア」をがっつり強調した世界観はなかなか魅力的*4

 世界観だけでなく、「かめはめ波」やドラゴンボールへのオマージュがうかがえるクライマックスの戦闘シーン、ドラえもんの「パオパオ」のようなマスコットキャラクターの存在、そして最後の怪獣映画要素など、とくに後半の展開や描写は日本のアニメや特撮映画の要素を模しているのではないかと思える。

『アイアンマン3』から続投したベン・キングズレーやレーザーフィストなどのキャラクターのコメディ要素もMCUらしく安定しており、笑えてよかった。

*1:クライマックスにて主人公が水のなかから巨大な化け物を従えて登場するところは丸々同じ

*2:……という設定なはずなんだけど、劇場で一回観たきりなうえ、前半では「殺しはしなかった」と言っていたのが後半になって「やっぱり殺していた」と言ったりしていたせいで、設定をちゃんと把握しているかどうか自分でも自信がない。なんか話の流れ的にケイティの祖父が実はシャン・チーの母の仇でシャン・チーがそれを殺して罪悪感からケイティの家族を世話していた、みたいなことになるのかなと思ったけれど、どうやらそうでもないのかもしれない。

*3:このサブテーマ自体が「メリトクラシー」的だとの文句は付けられるけれど。

*4:この点は『ブラックパンサー』における「アフリカ」の強調も同様に魅力的だった。