THE★映画日記

映画(たまに漫画や文学)の感想と批評、映画を取り巻く風潮についての雑感など。

『連ちゃんパパ』

 

 

凪待ち

凪待ち

  • 発売日: 2020/02/20
  • メディア: Prime Video
 

 

 

 Twitterで話題になっていて、無料で読めるということもあり、ついつい最後まで一気読みしてしまった。

 

togetter.com

 上記のTogetterの題名をはじめとして、Twitterでは「連ちゃんパパを読んだうえで、主人公やその他の作中の登場人物たちの邪悪度や非倫理性について、いかにキャッチーでオリジナリティのある表現をするか」といった"大喜利"が流行している状態にある。「Twitterにおける映画感想がダメなものになりがちな理由」という記事でも書いた通り、他人の創作物を自分の承認欲求や私的利益を満たすための"大喜利"や"ウケ狙い"の題材としてSNS上で消費するという行為は、わたしは好きではない。

 とはいえ、『連ちゃんパパ』のようにマイナーな作品になると、そもそも最初の時点でウケ狙い的な極端で派手な感想を投下する人がいないとわたしがこの作品の存在を知る機会も生じずに読むにまで至ることもなかったので、ここら辺は痛し痒しでもある。

 

 読んでみると、実際に『連ちゃんパパ』は面白い。とはいえ、その面白さは単純に主人公や他の登場人物が邪悪であったりサイコパスであったりするから来るというものではない。むしろ、どの登場人物もが善と悪との境界を行ったり来たりする曖昧性の方が魅力であると思えた。主人公やその妻の非人道性が強調されがちであり、実際に彼らは私利私欲のために他人を破滅に導いたり自分たちの息子のことも蔑ろにしたりするが、一方では自分のやり過ぎた行為や過去の行為について反省したり親子の情や家族の情にほだされて自己犠牲的な行為を行ったりもする。「作中で唯一の良心」と評されがちな借金取りの男も、普段のシーンでは彼の人情深さやお人好しさが描かれるが、特定のシーンでは暴力団員らしい反社会性や冷酷さがしっかりと描かれる。主人公の行為によって被害にあう周辺人物に関しても、甘言によって破滅の道へと突き落とされる弁当屋夫婦や主人公の子どもの担任などは純然たる被害者ではあるが、終盤に出てくる和菓子屋一家には「まっとう」な家庭ならではの悪どさや独善性が感じられる。善悪や道徳についてはアンビバンレンスな描写を貫いている作品なのであり、この作品の登場人物に関して安直に「クズ」なり「悪」なりと断言するのは違うような気がする(よく引き合いに出される『ジョーカー』だって、「悪」や「悪人」というものの曖昧さや不安定性を描いた作品であるだろう)。

 そもそもは諸悪の根源がパチンコ…つまりギャンブル依存症という「病」であり、社会的な病によって人生を破壊された一家の物語であることはもう少し意識されるべきだ。わたしは幸いにしてギャンブルとはほとんど縁のない人生を過ごしているが、香取慎吾主演の『凪待ち』ではギャンブル依存症の恐ろしさがかなり印象的に描かれており、ギャンブル依存症は単に金銭的に多大な損失を与えるだけでなく人間関係や人生設計に致命的な影響を与えて当人を再起不能に近い状態にまで追い込む病であるということが嫌というほどに描かれていた。『連ちゃんパパ』でも、最終話の1コマに象徴されているように、ブラックユーモア的にではあるが依存症の恐ろしさはしっかりと明示されている。ここの部分をガン無視して「主人公がクズだ」と騒ぐのも、あまりに幼稚な捉え方だという気はする。

 絵柄の通りに「人情もの」な作風であり、どれだけ酷いことが起こっても死人が出ることはほとんどないし、夫婦の絆はともかくとして血の繋がった親子の絆はギリギリのところで壊れるところがないものとして描かれている。つまり、なんだかんだで、ファンタジー要素が強い作品ではあるのだ。その点では、容赦無く人が死んでいきファンタジーの介在する余地がない"リアルさ"を描いた『闇金ウシジマくん』などの劇画調の作品のほうが、ずっとおそろしいし後味が悪い。「『闇金ウシジマくん』よりも『連ちゃんパパ』の方がおそろしい」的な感想も、やはり大喜利の果てに生まれた的外れなものであるだろう。

 一方でドストエフスキーを引き合いに出す感想も見かけたが、たしかに、この作品には「文学っぽさ」を感じなくもない。というか、ドストエフスキー自体がけっこう「人情もの」の要素が強い作品を生み出している作家なのだ(引き合いに出される場合は『賭博者』が想定されているようだが、わたしはむしろ『虐げられた人びと』を思い出した)。いずれにせよ、漫画だろうが映画だろうが小説だろうが、一見すると"クズ"であったり"悪人"であったりする登場人物の人間性を掘り下げるのはフィクションとして定番の形式である。読み始めてすぐに主人公のことを真性のクズや悪人と断定して、共感や同情の対象外とすることは、あまりいい読み方ではないだろう。